現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

集団的自衛権-安倍政権の詭弁と新たなる神話-

2015-08-31 20:44:34 | 日記
(要旨)
・集団的自衛権:自衛隊を海外に派遣し、海外での戦闘に加担させるもので、憲法第9条で禁じられている。
・個別的自衛権:日本が外国から攻撃された場合、自衛隊が反撃するもので、憲法第9条で認められている。
・安倍政権は、国民に対し丁寧に説明しないばかりか、集団的自衛権と個別的自衛権を混同させ、国民を騙そうとしている。

(本文)
 安全保障法制を巡って国会で議論がされているが、安倍晋三総理や高村副総裁を始めとする安倍政権の面々は詭弁とも思えるような発言で国民を騙そうとしているように感じられる。
 集団的自衛権と個別的自衛権の違いを明確に説明することなく、北朝鮮や中国による軍事的行動の危険性をことさら強調し、それによって集団的自衛権を容認する安全保障法案を可決させようとしているからだ。
 この法案を巡って最も重要な論点である「集団的自衛権とは何か」ということに対して真摯に、丁寧に説明することが彼等にはできないような印象を受けざるを得ない。火事の例を持ち出したり、日本人の救護を持ち出したり、本質とは異なる事例を使って国民を煙に巻き、そして本質をはぐらかすような説明に終始している。

 では、集団的自衛権とは何か。
 集団的自衛権は他国防衛の権利という性格のものであり、自分の国が直接攻撃を受けない場合でも、他国への攻撃を自国も攻撃を受けたものとみなして反撃することのできる権利のことである。
 つまり、韓国が攻撃を受けた場合、あるいはサウジアラビアが攻撃を受けた場合、アメリカが日本に支援を要請すれば自衛隊を韓国やサウジアラビアに派遣し、そこで米軍とともに戦争を行うというのが、集団的自衛権の具体的な行使形態である。
 集団的自衛権とは、現状を踏まえて簡単に説明すれば、アメリカの軍事行動に加担する権利ということである。過去の事例であれば、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争等に自衛隊を派遣し、そこで自衛隊に戦わせることができるというのが集団的自衛権の本質である。

 一方の個別的自衛権とは何か。
 日本に対する攻撃に対して、自衛隊が反撃することができる権利が個別的自衛権である。北朝鮮などが日本に対して攻撃した場合、日本の防衛のため自衛隊が全力を投じて反撃する、この反撃する権利が個別的自衛権である。日本が攻撃されたら自衛隊が武力により日本を防衛する。これは従来の憲法第9条の解釈においても当然のことであり、今回の安保法案とは関係のないことである。

 安倍政権は、北朝鮮のミサイルや中国の軍事拡大を持ち出し集団的自衛権を認める必要があるというような主張をしているが、北朝鮮のミサイルや中国人民解放軍が日本を攻撃する場合であれば個別的自衛権で対応できるため、安保法案は不要である。それにもかかわらず、あたかも集団的自衛権を認めなければこれができないような説明をするのは、国民を騙すための詭弁でしかない。
 安全保障法案が成立すれば、日本への武力攻撃と関係なく、自衛隊が海外の軍事紛争に介入し軍事行動を取ることになるのである。このため、反対派の人達は「戦争法案」と呼んでいるが、それはレッテルでも何でもなく事実である。

 自分達にとって都合の良いような神話を作った古代の支配者と同じようなことを安倍政権はしているようである。民主主義とは全く異なる、呪術的な手法で国民を支配した古代の支配者が今よみがえるとするなら、支配される側の国民が論理的でないということになる。国会前で多くの人達がデモをしていたのが一つの救いだという状況は悲しい限りであると感じさせられる。

安全保障法制に見られる無責任体質-安倍政権は無責任の体系-

2015-08-04 22:54:25 | 日記
(要旨)
・軍国時代の日本の軍人等について、政治学者の丸山真男が「無責任の体系」と分析している。
・戦後、民主主義を基本的な価値観としている日本ではあるが、戦前と同様に「無責任の体系」が未だに生き延びている。
・「無責任の体系」から脱却し、民主主義を社会に浸透させることが、先進国としての日本の責務である。

(本文)
 著名な政治学者の丸山真男は、第二次世界大戦に突入した日本の政治的状況について分析を行っている。その分析で秀逸なものが「無責任の体系」と言われるものである。これは、当時、軍部で権力を握っていた軍人の精神形態を分析したものである。その概要は次のとおりである。
 まず一点目として、「国家活動が国家を超えた道義的基準に服しないのは、主権者が「無」よりの決断者だからではなく、主権者自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。」というものだ。ここで書かれている主権者とは、日本国を統治するとされた万世一系の天皇である。
 そして、その天皇を頂いた軍人が東京裁判等で述べた自己弁護について分析すると、一つは、既成事実への服従であり他の一つは権限への逃避である、ということがわかった。「既成事実への屈服」とは、既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となることであり、既にきまった政策には従わざるをえなかった、というものである。そして、もう一つの「権限への逃避」とは、法令で規定された職務権限についてはそれを果たすが、権限に属さない部分については関与できない、というものである。
 これこそが、今の時代にも生きている「無責任の体系」なのである。

 この「無責任の体系」は現在の安倍政権に顕著に見られる。通常の内閣総理大臣にとっては、絶対的価値とは日本国憲法であり、憲法に規定されている「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という三大原則が絶対的価値となるのである。しかし、この憲法を押しつけ憲法として否定する安倍総理にとっての絶対的価値とは何であろうか。安倍晋三にとっての絶対的価値とは祖父の岸信介であろう(ちなみに岸信介は総理時代にアメリカ合衆国に追従する日本を確立している。)。既に亡くなった祖父の考えを絶対的価値とするならば、既に死んだ祖父は自分の中にしか存在しないため、すべての自分の行動が正当化され、誰も止める者がいなくなるのである。まさに、独裁者の内面が既に安倍晋三には築き上げられている。
 しかし、一方で、官僚が実務を担っており、官僚達が安倍の暴走を止めると期待する人達も多いのではないだろうか。だが、「無責任の体系」が暴走を止めることはないのである。
 まず、閣僚をはじめとする安倍の周辺の政治家は安倍により任命されており、安倍の決定に反対しない、あるいはできない。次に官僚達であるが、官僚達が総理の判断はおかしいと認識していても、官僚にとっては総理が絶対的権威(選挙で選ばれた議員が選んだ総理)であるため、総理の決断には明確に反対はできない。そして、総理の決断を「既成事実」として、その決断に屈服し、自分達官僚は行政を運営するものの、最終的には内閣総理大臣にその権限があるため、行政運営の方針決定に関する権限は自分達に存在せず(このため、大きな問題が発生しても官僚達は自分達には職務権限がなく関与できなかったとして責任を取らない)、総理に従うしかないということになるのである。このように「無責任の体系」に支配されている霞ヶ関では官僚が疑問に思っていることでも総理の決断で前に進んでいく。現在、国民の多くが反対しており、また憲法学者が憲法違反だと主張している安全保障法案についても、前述のとおり、総理の指示により(憲法違反であるろうが)法律案が作成され、無責任な形で突き進むのである。

 何を絶対的な価値として行政が進められているのかという考察、既存事実に対する不服従、そして権限に囚われることなく日本の将来を展望した意見を陳述すること。こういったことが、今の日本で必要になっているのであろう。安倍政権の無責任の体系に対する批判、自由で民主主義的な社会を構築するために何が必要か、そういったことを考えることが今の日本人に求められているのである。

 神話を信じるのは古代のソフィスティケイトされていない社会である。絶対的な価値とは何かを常に考察し、既存事実に異議を申し立て、自分の権限の中で萎縮しないこと、このような姿勢が「無責任の体系」から脱却し、民主主義を社会に浸透させるために重要なことである。