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現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

グローバリズムからの転換の必要性ートランプ関税と変わらない日本ー

2025-04-06 09:42:40 | 政治

 経済問題を論じる際にグローバリズム、グローバルスタンダードという言葉が使われることが多くある。では、グローバルスタンダードとは何だろう。単純に日本語訳すれば「世界標準」ということになるが、この言葉が使われるようになったのは1990年代後半からだ。日本でバブルが崩壊し、日本企業が苦しむ中で、「終身雇用」「年功序列」「企業別労働組合」という日本的雇用慣行、日本的経営などを否定的に捉え、その見直しを行う際に使われるようになったのが「グローバルスタンダード」である。

 しかし、このグローバルスタンダードとは、アメリカ流の資本主義、アングロ・サクソンが生み出した新自由主義の基準、すなわちアメリカンスタンダードでしかない。しかし、それがグローバルスタンダード、グローバリズムという言葉に置き換わり、この言葉によって新自由主義が西側諸国を支配し、日本のみならず欧州などの先進資本主義国でも格差が拡大していったのである。

 グローバリズムに基づく政策によって、各国は関税の税率をゼロあるいはかなりの低率に引き下げる。関税が引き下げられれば、労働力の安い国(例えば中国やベトナム、インドネシア)に工場などを移転し、そういう国々で作られた製品が日本などの先進国に輸出され流通することになる。賃金の安い国々との競争になれば日本などの先進国の労働者(庶民)の賃金には引き下げ圧力がかかる。そのため、日本などの先進国の労働者の賃金は上昇することなく、逆に、中国や東南アジアなどの低賃金国の賃金は上昇し、中国や東南アジアの経済が発展するのである。また、低賃金国で作られた原価の安い製品を日本などの先進国で十分な利益を上乗せした価格で売るため、従来よりも企業の利益は大きくなり、その利益は株主配当や企業の内部留保(利益剰余金)として企業内に積み立てられる。

 企業が労働者の賃金を引き上げれば良いが、特に日本では、企業は労働者の賃金を引き上げず、利益を大きく増やし、それを株主への配当金や企業の内部留保(利益剰余金)としてため込んでいるのである。その証拠に、労働者に支払う賃金の割合である労働分配率はバブル崩壊以降下がり続けている。

 日本のマスコミは、未だに「グローバリズム」という言葉をポジティヴなイメージで使用しているが、グローバリズム、すなわち新自由主義によって日本や欧米諸国では格差が拡大し、中間層の没落によって国内の政治状況は不安定化しているのである。フランスやドイツなどの欧州諸国での極右勢力やポピュリスト達の伸長がこれを物語っている。アメリカのトランプ大統領の誕生も同じ流れである。

 アメリカが先進各国に押しつけたグローバリズムによって、アメリカ自身が崩壊しかけており、それをトランプ流に立て直そうとしているのが、トランプ大統領のMAGA(Make America Great Again:アメリカを再び偉大にする)であり、関税政策である。
 貧乏人はさらに貧乏に、富裕層はさらに富裕になるグローバリズム。このグローバリズムからの転換であり、自分の支持者の生活のためのトランプ流の経済政策であるが、その政策によってトランプ支持者の生活が良くなるのかはわからない(あまりにも高関税のトランプ関税で経済が悪化するのは目に見えている。)。しかし、グローバリズムからの脱却は庶民が求めていることである。

 日本やアメリカ、西欧などの西側の政治家やメディアは日本や欧米が「自由で民主主義」だと連呼している。確かに自由はあるが、民主主義なのだろうか。庶民(労働者等)はよりよい生活を求めているにもかかわらず、庶民(労働者等)の生活は苦しくなる一方で、富裕層の金融資産は増え続けている。これが民主主義と言えるのだろうか。大多数の庶民(労働者等)の意思は政治に反映されることなく、また、マスコミも大衆化されたエリート層として企業経営者や富裕層の意見を代弁することから、グローバリズムを礼賛する報道を繰り返すことになり、その結果、自らも属しているエスタブリッシュメントの利益を優先することとなるのである。そしてマスコミの報道によって操作された庶民(労働者等)はエスタブリッシュメントの利益を擁護する政党(日本では自由民主党)に投票し、エスタブリッシュメントの地位は確固たるものとなるのである。そこには経済的自由主義はあっても民主主義を見いだすことはできない。

 一部の企業経営者や富裕層の金融資産が増え続け(日本は上位10%の資産が57.8%でそのうち最上位1%は24.5%を占めた。下位50%は5.8%だった。「日本経済新聞(2021年12月27日)」)、他方で庶民(労働者等)は給料が上がらず、逆に物価が上昇することで実質賃金は低迷している。日本では1990年代から明確にグローバリズムに基づく経済政策が取られているが、これは民主主義ではなく、寡頭制(寡頭制=少数者が国の権力を握って政治を独占する政治体制。企業経営者や富裕層が政党への影響力を行使し、自分達に都合のいい政策を実行させる。オリガーキー)でしかない。

 アメリカはトランプ氏が大統領に再任することでグローバリズムからの転換を図っているようだが、日本では未だにグローバリズムに囚われ、さらに悪いことには石破政権になってもアベノミクスからの転換が図られていない。自民党安倍派が金融緩和や積極財政にこだわり、アベノミクスからの転換が出来ないのであろう。日本経済は麻薬中毒患者のように未だにアベノミクスという麻薬によって朦朧とさせられているように見える。

 グローバリズムからの転換をどのように図り、庶民(労働者等)の生活を良くするための再分配政策をどのように考えるのか。株式譲渡益や配当所得を総合課税にする、あるいは累進税率にして課税を強化するなどの金融資産課税の強化や、消費税率の引き上げによって軽減された法人税を引き下げ前の税率にまで再び引き上げるなど、あるいは金融資産に対する課税制度を設ける、相続税の累進税率を強化するなどの課税強化と低所得者層への分配政策が必要である。  

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権威主義的な直系家族ー日本とドイツの違いとはー

2025-03-20 16:30:30 | 政治
 歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏は世界の家族制度を研究し、家族形態を絶対核家族(イギリス、アメリカなどのアングロ・サクソン)、平等主義核家族(パリ盆地を中心とするフランス北部、イベリア半島の大部分=スペイン)、直系家族(日本、韓国、ドイツ、スエーデン)、外婚制共同体家族(ロシア、中国、ベトナム、フィンランド)、内婚制共同体家族(イスラム諸国)に分類している。

 エマニュエル・トッド氏によれば、日本とドイツは直系家族であり、その特徴としては権威主義的であり不平等主義的ということである。
 直系家族とは、子供のうち跡取りは成人して結婚しても家に残り、すべての遺産を相続するもので、跡取り以外の子供は他の場所での生活の道を選ぶ。日本では、特に第2次世界大戦前は民法によって家父長制が制度化されており、家長となる長男が家督を全て相続するため、他の兄弟姉妹とは全く異なる存在となっていた。また、家長としての父親に権威があるため、親子関係は権威主義的であり、兄弟間は不平等となっていた。現在の民法では兄弟姉妹は平等に取り扱われているが、しかし、戦前の家父長制の名残があり、多くの場合、長男が特別扱いされる状況は残っている。

 ヨーロッパにおいてはドイツやスウェーデンなどが直系家族とされているが、特にドイツは日本との類似点が多くの人達に認識されているのではないか。
 第2次世界大戦の際には、日本とドイツ、イタリアが軍事同盟を結び、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連などの連合国と戦ったのである。
 日本では、その権威主義を象徴するものとして「天皇陛下万歳」、不平等主義を象徴するものとして「大和民族」が挙げられるが、ドイツでは、その権威主義を象徴するものとして「ハイル・ヒトラー」、不平等主義を象徴するものとして「アーリア民族」が挙げられるだろう。
 日本では朝鮮人や中国人を差別し、一部では虐殺もあったが、ドイツではユダヤ人を差別し、虐殺を行った。
 また、第2次世界大戦での敗戦後、日本もドイツも工業国として経済発展を実現し、先進工業国としての地位を確立した。さらには、両国とも法令遵守という点が共通しており、規則で決まっていることについては、疑問もなくそれを守ろうとする。

 しかし、第2次世界大戦での敗戦後は、ドイツでは戦争責任を専らヒトラーやナチスに全て負わせ、ナチスを忌むべき存在とすることで区切りをつけているようだが、日本では東条英機や軍部に責任を負わせたものの、天皇は戦争責任を問われることなく、現在も天皇制が存続している。

 また、近年の国際関係においては、ドイツのアンゲラ・メルケル元首相がリーダーシップを発揮していたが、他方、日本の首相経験者が国際関係でリーダーシップを発揮したことはほとんどない。また、ドイツは積極的に移民を受け入れているが、日本は移民を受け入れることはない(労働力として高度技能人材という名の下で制限的に受け入れているに過ぎない。)。

 同じ直系家族であり類似点も多くある日本とドイツだが、リーダーシップなどについては異なる点もある。それはなぜなのか。
 ドイツではキリスト教の影響もあり、近親婚は禁止されており、外婚制直系家族となっている。日本では、日本史の教科書に掲載されている天皇の系図を見るとわかるように近親婚が普通に行われていた(古い時代の天皇の系図では近親相姦すら存在する。)。庶民生活にあっても近親婚が禁止されることなく、いとこ婚が認められることから、日本は内婚制が認められた直系家族となっている(第2次世界大戦直後の日本の内婚率は11%だとエマニュエル・トッド氏は述べている。中東( シリアでは内婚率は約35% )に比べいとこ婚の割合は高くないことから、内婚制直系家族とするのは実態と異なるだろう。)。

 それでは外婚制(ドイツ)と内婚制(日本)との場合、社会に対してどのような影響の違いがあるのだろう。
 「ドイツと日本の人口政策の分岐を説明する主要な言説は、日本の文化が社会全体の同質性を理想として、それに執着しているという点を強調する。なるほど、その種の同質性の概念は、直系家族の統合と非対称性の価値とたいへん折り合いがよい。しかし、同じ価値観を帯びていながら、ドイツは解放を選択している。」(「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(下)エマニュエル・トッド著、文藝春秋、2022年)p.195)
 「われわれが日本で観察するもの、それは基本的に、解放と閉鎖の間の一種の弁証法だ。その弁証法が、政治、経済、家族など、あの国のすべての側面を結びつけている。いったいどの辺りから、内婚制へと向かう静かなムーブメントが始まったのだろうか。それを識別するのは、ほとんど不可能であるように思われる。」(同書、P.196)

 かつての日本では、本家や分家、新家と呼ばれる親族集団が地域共同体の中で共存していた。村落であれば、田植えや稲刈りなどの労働集約的作業が必要な場合には、親族集団をコアとして多くの人達が共同作業に取り組んでいた。そこでは、いとこ婚=内婚によって親しい人達がともに作業をしていた。こうした集団の中で自己主張をすることは和を乱すことになるため、暗黙のうちに禁じられていただろう。「和を以て貴しとなす」ということが日本の深層に流れているのである。

 日本の農村における部落総会での「議決は、一般的に、全会一致を原則とした。部落役員が評決でなく推薦によって決定される方が望ましいと考えられたように、他の議決事項についても、多数決で決定することは、なるべく回避しようとされた。それは、票決すれば部落の団結と平和にひびが生じると思われたからである。そして、このことは、結局において、部落総会が形式的には最高の議決機関であっても、実質的には、協議機関を構成する有力者層に決定をゆだねており、執行機関と議決機関との分離がはっきりしていないということになる。有力者層が区長を中心に協議決定したことが、部落総会において全会一致の形で承認されるというわけである。」(「日本農村社会論」福武直著、東京大学出版会、1964年、p.138)
 
 内婚制が認められていた日本では、いとこ同士で結婚した場合、結婚した女性は顔見知りの舅(義父)、姑(義母)(義父、義母のどちらかは自分の親の兄弟姉妹になる)とともに生活するため、その人柄や性格はよく知った存在となり、心やすく生活できる。和気藹々とした家族の中で自己主張することは憚られるだろう。また、嫁入りされた家族の視点からすれば、息子の妻(=嫁)は自分の姪であるのだから、やはり和を大切にし、嫁に対し厳しいことは言わないだろう。さらに言えば、嫁姑問題というのは、内婚制であれば大きな問題にならないだろう。むしろ、内部の和を尊重し、自己主張することなく、和を以て貴しとなし、相手のことを忖度しながら生活をするだろう。

 内婚制が存在していたた日本が内向的になり、いとこ婚を認めず外婚制だったドイツが外向的になるのも家族形態の違いからなのではないか。
 日本では、問題が発生した場合に明確に責任を問うことがなく、無責任の体系が出来上がるのも、権力者、権威者に対する忖度がはびこるのも、内婚制が許容されていたからではないか。政治学者の丸山真男氏が指摘していた無責任の体系は、その根本に近親婚が普通にあった天皇制と密接に関係しているのかもしれない。

 日本でリーダーシップを発揮する首相(政治的権力者)が生まれにくいのも、権力者(権威者)に対する忖度がはびこることも、責任があいまいにされるのも、内婚制が許容されていた直系家族の影響と言えるのではないか。そして、その内婚制の影響が日本を内向きにし、人口減少で持続可能性に疑問が生じている現時点でも移民を受け入れることなく、現状維持すらできないまま、縮小に向かうことを人々が受け入れることになる。

 権威主義的で不平等主義の日本に内婚制が存在していたこと、このことが日本の特異性を生み出したのだろう。自由主義的で不平等なアメリカ、イギリスなどのアングロサクソン、自由主義的で平等なフランス、権威主義的で不平等主義だが外向的なドイツ、権威主義的で平等主義のロシアや中国、これらの国と日本は異なるため、日本独自で自分達の将来を考え、将来を切り開く必要があることを日本人は強く認識しなければならない。  
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日本の再生のために-政治家やマスコミの主張と庶民の生活実態-

2025-03-08 17:29:20 | 政治
 2025年になり2ヶ月が過ぎたが、米や野菜などの生活必需品の高騰は止まっていない。特に米については政府が備蓄米を放出すると決めているが価格が下がるどころか、さらに上昇している。庶民の生活にとって食料品はなくてはならない生活必需品だが、「エンゲル係数、42年ぶりの高水準 家計支出の28%に」(2024年10月18日日経新聞電子版)という日経新聞の記事にあるように、「2024年1~8月のエンゲル係数(2人以上世帯)は28.0%と、年平均と比較すると1982年以来の高い水準」となっている。まさに、「日銀の「生活意識に関するアンケート調査」によると現在を1年前と比べ、物価に対する実感が「上がった」と答えた人の割合は直近9月の調査では9割台半ばと高い水準が続いている。」という状況であるにも関わらず、日本銀行は未だに異次元緩和からの脱却が出来ず、つまり金利の引き上げができず、そのため1ドル=147円台(一時は1ドル=160円台)という超円安を招き、この超円安が輸入物価を異常に上昇させ、国内の物価を引き上げているのである。

 さて、2011年の民主党政権時代、マスメディアは「企業が抱える六重苦、円高の負担が最も重く」(2011年8月23日日経新聞電子版)というような記事を掲載し、円高が日本経済にとっての最悪の重荷になっていると繰り返して報道していた。
 この記事の中で、「日本企業にとっての「六重苦」ともいわれる「円高」など6つの問題の中から、負担が重いと感じる順に上位3つを選んでもらったところ、最多は「円高」の155ポイント。2位は「高い法人税率」の146ポイントとなり、この2つが他の項目を大きく引き離した。」と書かれている。
 この記事が掲載されたときの円相場は1ドル80円超、法人税率は30%だが、2025年現在の法人税率は23.2%と大きく引き下げられている。
 企業が6重苦と大きな声を上げ、マスコミも大きく報じていた円高や法人税率については、1ドル80円から1ドル156円まで大きく円安に進み、法人税率は30%から23.2%と大きく引き下げられているが、日本国民の平均賃金は過去30年間ほぼ増えていない。そのため、食料品などの上昇によりエンゲル係数が増えているのである。法人税率は引き下げられたものの、消費税率は当時の5%から10%にまで引き上げられており、庶民の生活は以前よりも苦しくなっているのである。
 6重苦に対応したにもかかわらず、庶民にとっては全く状況が改善されていないどころか悪化している(企業にとっては利益が増え、株主にとっても配当が増えた)点を考えれば、この6重苦は企業にとってのものであり、庶民にとってのものではなかったことが明確になっている。

 日本は民主主義国家だとマスメディアは報道している。民主主義社会では、国民の意見が国政に反映されるはずである。ところが、過去の状況を踏まえると、国政に反映されるのは企業と富裕層(企業からの大きな配当収入がある)の意見であり、国民の意見は反映されていないように見える。
 さらに、安倍政権時代に策定されたコーポレートガバナンスコードに従って、企業利益については株主や経営層への配分が増えるものの、労働者への配分、すなわち労働分配率は逆に低下し、労働者の賃金はほとんど上昇していないのである。
 企業経営者や富裕層の意見が政策に反映される一方で、庶民の意見は政策に反映されない国のどこが民主主義なのだろうか。民主主義ではなく、寡頭制政治でしかない(寡頭制=少数者が国の権力を握って政治を独占する政治体制。企業経営者や富裕層が政党への影響力を行使し、自分達に都合のいい政策を実行させる。オリガーキー)

 次に、日本のマスメディアの状況について検討してみよう。先ほど引用したのは日本経済新聞であるが、日経新聞が経済新聞である以上、庶民ではなく経済界の代弁が大きくなるのは仕方が無いだろう。それでは他の、例えば朝日新聞や読売新聞はどのような報道なのだろうか。
 簡単に言えば、日本は民主主義国家であって、日本の民主主義を守る必要があるというような論調に終始しているのである。日本の民主主義が、民衆の意見を代表せず、企業や一部富裕層の意見を代表しているという現実を指摘することなく、脳天気に日本は民主主義であると繰り返しているだけである。

 結局、政治家もマスコミも自分達が実際に行っていることやその結果がどのようになるのかも理解することなく、政治家は自分の選挙のために政治を行い、マスコミは民主主義を連呼し、お花畑で生きているような、大学で学んだ民主主義やその価値観を絶対的な価値観として報道を繰り返すだけなのである。
 その結果、政治家もマスコミも信頼を失い、ポピュリストのフェイクに満ちた主張が大衆に支持されるのである。

 このような状況にある日本がどこに向かうのか、少子高齢化の影響を深く考えることもなく、目先の利益、固定化された価値観に頼った誤ったエリート層が何を主張するのか、非常に興味深いが、彼らが船頭となる泥船に同乗させられる大衆には悲劇しか待っていないだろう。
 10年後、20年後を想像しながら、固定化された価値観に捕らわれることなく、柔軟に、そして過去の歴史を踏まえて各自が行動する必要があるだろう。
 昭和は繁栄をもたらし、平成は衰退をもたらしたが、令和が滅亡をもたらすのではなく、令和を再生に向かう時代にするよう、自分達自身が考え、行動する必要がある。
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西洋の敗北-日本に民主主義は存在するのか-

2025-01-07 22:16:41 | 政治

 兵庫県知事選挙で、既存マスコミは信じられないとする大衆がネット情報に誘導され、ポピュリズムを体現するかのような投票行動を取り、パワハラが報じられていた斉藤前知事を新しい知事に選出した。この大衆の行動について、非常に参考になる記述が歴史人口学者であるエマニュエル・トッド氏の著作(「西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか」エマニュエル・トッド著 大野舞訳(文藝春秋、2024年))にあった。

 「ウクライナ戦争以前、西洋の民主主義は、ますます深刻化する害悪に蝕まれていると見られていた。この害悪によって、思想面と感情面において「エリート主義」と「ポピュリズム」という二つの陣営が激突するようになる。エリートは、民衆が外国人嫌いへと流されることを非難する。民衆は、エリートが「常軌を逸したグローバリズム」に耽っているのではと疑う。民衆とエリートが、ともに機能するために協調できなくなれば、代表制民主主義の概念は意味をなさなくなる。すると、エリートは民衆を代表する意思を持たなくなり、民衆は代表されなくなる。世論調査によれば、「西洋民主主義国」の大部分において、ジャーナリストと政治家は、「最も尊敬されてない職業」だという。いま陰謀論が蔓延しているが、これは、「エリート主義対ポピュリズム」、すなわち社会の相互不信によって形成される社会システムに特有の病理なのだ。  民主主義の理想は、「すべての市民の完全なる経済的平等」という夢にまでは至らなくとも、「人々の社会的条件をなるべく近づける」という観念を含んでいた。第二次世界大戦後、民主主義が絶頂にあった時期には、アメリカを始めとする多くの国で、「プロレタリア」と「ブルジョア」が「大規模になった中流階級」の中に溶け込むことすら想像できたのだ。ところがここ数十年、国によって程度に違いはあるが、私たちが直面してきたのは、格差の拡大である。自由貿易によってもたらされたこの現象は、既成の諸階級を粉砕したが、同時に物質的生活条件も悪化させ、労働者階級だけでなく中流階級の雇用へのアクセスまでも悪化させた。繰り替えすが、私のこうした考察は、誰もが同意するはずの至極平凡なものにすぎない。  今日の民衆の代表者、つまり、高等教育を受けた大衆化したエリートたちは、第一次産業および第二次産業に従事する人々を尊重しなくなり、どの政党に属していようが、根底では、自らが高等教育で身につけた価値観こそが唯一正統なものだと感じている。彼らにとっては、自分はエリートの一員であり、その価値観こそが自分自身であり、それ以外は何の意味もなさず、虚無でしかない。こんなエリートなら自分以外の何かを代表することなど絶対にできないだろう。」(上掲書 p.162~p.163)

 エマニュエル・トッドが引用している世論調査によれば、ジャーナリストと政治家は最も尊敬されていない職業だという。既存マスコミや既成政党が尊敬されておらず、社会の相互不信の中で陰謀論が蔓延しているのが、現在の西洋民主主義国の実態である。その結果、既成政党は選挙で敗北し、トランプ氏に支配された共和党や、極右ポピュリスト政党が選挙で議席数を増やしているのである。

 大卒エリート、日本では大卒の割合が25%程度であり、20代から30代では大卒割合が50%を超えているため、大卒はすでに大衆化された存在であるが、「高等教育を受けた大衆化したエリートたち」が有権者の意思を代表できず、高等教育で学んだことを金科玉条のごとく信奉し、大衆と乖離する存在となっていない状況では、既存マスコミも政治家も信頼されないだろう。そこに、ポピュリスト達が、既存マスコミや既存政党は信じられないという反エリート的な言葉をネットで繰り返し垂れ流す。そのポピュリストの言葉を有権者が盲信し、投票行動に移す。この現象が、東京都知事選挙や兵庫県知事選挙で見られたのだろう。

 新自由主義がもたらした格差の拡大、その結果による中流階級の衰退がこのようなポピュリズムの蔓延を招いてるのである。一部の富裕層のための新自由主義が中流階級をぶち壊し、ポピュリズムを蔓延させている状況を変えなければ、民主主義の崩壊を止めることはできないだろう。

 既存マスコミも既存エリートとなり、庶民を代表する存在でなくなっている。既存マスコミの記者達は自分たちの価値観こそが絶対的に正しいという信念のもとで報道を繰り返すことから、既存マスコミの報道は庶民感覚とは乖離したものとなり、その結果、庶民は既存マスコミを信じることなく、逆にネットでの陰謀論に引き寄せられるのである。

 新自由主義によって、株主が大きな存在となり、株主配当を増やし続けている企業、そして補助金のバラマキや法人税減税などにより企業優遇を続ける政府。他方で、格差が拡大し、中流階級は細っていき、可処分所得が減り続け、日々の生活に精一杯になる多くの人達。

 マスコミは、日本は自由で民主主義の国だと言うが、実態は、エマニュエル・トッド氏が指摘するように、国民の代表である国会議員が国民を代表することなく、官僚は国民の実態を踏まえることなく、他方で企業経営者や富裕層を代表するという、民主主義ではなく寡頭制政治が実態となっているのである。民主主義国家には国民の意見を代弁する代議士によって成り立つ国会があり、国会は国民の信託を踏まえて国民の意見を代表して論議する国権の最高機関であるはずなのに、国会議員が国民の意見を代弁することなく企業や富裕層の声を代弁する実態をふまえれば、日本は民主主義ではなく寡頭制政治と言えるだろう。

 日本の状況もまた、西洋と同じ状況であり、日本の民主主義も敗北しているのであろう。民衆の意見を尊重せず、自分が身につけている価値観こそが唯一正統なものだと感じている大衆化したエリートであるジャーナリストが記事を執筆する既存メディアもまた、あらゆる階層の意見を尊重する民主主義を捨て、寡頭制政治を代弁する存在に成り下がったのだろう。

 日本の民主主義を再生するためには、中流階級の再形成が必要である。そのためには、差別主義的な新自由主義から決別し、民主主義に必要な所得の再配分を公正に行うことができ、また、庶民の実態を体感できる人達を増やし、まともなジャーナリズムとまともな政治家取り戻すことが必要なのである。

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マスコミへの不信-兵庫県知事時選挙と自由民主主義的価値観-

2024-12-03 20:12:18 | 政治
 11月に実施された兵庫県知事選挙で、パワハラの証言があり議会から不信任決議を受けた斉藤前知事がネットでの異常な支持によって再選された。ネットでのデマは別にして、「既存マスコミは信用できない。ネットで真実を知った」という有権者が斉藤前知事に投票した事実がある。
 「ネットde真実」という情報リテラシーもなく、論理的思考もできない人達の支持によって選挙結果が左右されるという、民主主義の欠陥を露わにした選挙結果であった。民主主義が衆愚政治に陥った状況を目の当たりにし、民主主義の将来を危惧する人達も多数存在するだろう。しかし、何が「既存マスコミは信頼できない」という感情を抱かせたのか、この部分を明確にしなければ、大衆が誤った判断をすることは止められないだろう。

 朝日新聞や読売新聞、日経新聞など日本のメジャーな全国紙は、自由と民主主義をその基本的な価値観として紙面を作成している。アメリカの民主党の主張を見ても、自由と民主主義に基づき、多様性の尊重、その結果として少数派の権利尊重、さらに言えばLGBTQの権利を尊重し、多様な意見、多様な価値観の尊重を基本的な価値観としている。
 また、個人の尊重も重視しており、その結果として能力主義(メリトクラシー)を無意識的に採用しているように思える。すなわち、各個人が自分の努力によって勉強をし、その結果、有名大学に進学し、給料の高い企業に就職する。格差は能力主義の結果であって、低所得の人達も頑張れば高所得になることができる。低所得の人達はもっと頑張らなければならない。
 他方で、貧困に陥っている非正規労働者を救済しなければならない、あるいは、貧困な高齢者を救済する必要がある、ヤングケアラーを救済しなければならない等の主張も行っているが、能力主義と弱者救済がどのような関係にあるのかについては触れることはない。

 しかし、多くの民衆の生活状況はどのようなものなのだろう。高学歴で大企業に就職している人達は年収600万円以上で年収1000万円以上の人達も多くいる。その人達にとっては能力主義は当然で、頑張ったから高収入なのだという前提がある。そして自由や民主主義の重要性を認識しているため、多様性は重要であるという認識を持っているだろう。一方で、多くの民衆は年収が600万円以下で、生活も苦しく、自分の生活をどう維持するのか、今後の生活がどうなるのかという不安がある。
 日常生活で精一杯、将来どうなるか不安を抱えている人達に、他人の権利を守ることが重要だという意識が薄くなるのはやむを得ないだろう。なぜ自分の生活が不安定なのか、将来どうなるのだろうか、そういう不安を抱える人達が、多様性が重要とか、少数派の権利を守る必要があるというマスコミ報道に違和感を抱くのは当然だろう。

 多くの民衆が、自分の日常生活を念頭に置けば、既存マスコミが報道していることは事実なのか?事実をねじ曲げた偏向報道なのではないか?という疑念を抱くのもやむを得ないだろう。
 自分が学校生活を送った記憶をたどっても少数派が尊重されることはなかった(少数派がイジメのターゲットになっていた)、自分が勤務している会社ではパワハラやセクハラが存在しており、マスコミが報道しているような綺麗事は現実とは異なる。自分は一生懸命仕事をしているが、給料が大きく増えることなく年収も低いままだ。何か、既得権益があって、既得権益を有している人達が自分たちをないがしろにしているのではないか。マスコミの報道と事実は全く違う、マスコミは真実を報道していないのではないか、大衆がこのような意識を抱いてもおかしくは無い。

 マスコミ報道と自分たちの生活実感が異なれば、違和感を抱き、マスコミは間違った報道をしているのではないかという意識が多くの民衆に深く刻み込まれるだろう。

 アメリカでは、トランプ前大統領の主張は高学歴層などからバカにされる。トランプ支持者達も高学歴層からバカにされる。しかし、民主主義では1人1票なので、バカにされる人達が高学歴層などよりも多ければトランプ前大統領が大統領選で勝利するのは当然である。

 この現象が兵庫県でも起こったのである。既存マスコミが自由と民主主義を基本的価値観として様々な報道をしても、多くの民衆には違和感のある報道であり、受け入れられていなかった。そこへ、ネットを利用して民衆の感情に訴えかけるデマが飛び交えば、既存マスコミへの違和感を抱いていた民衆はそのデマを真実として受け入れるだろう。その結果「ネットde真実」が拡散するのである。

 既存のマスコミが民衆の体感を無視し、自由と民主主義に基づいた報道を繰り返せば繰り返すほど、民衆との距離が大きくなり、民衆からの支持を失うのである。マスコミが、ステレオタイプな言葉を報道し続ける限り民衆からの支持は得られない。民衆の鬱憤も踏まえた上で、自由と民主主義という価値観と民衆の望みをどのように解決するのか深く考えた上で報道する必要があるだろう。
 もっとも、本来的にそれを行うのは政治家であるが、日本では政治家が少なく政治屋が多いため国会議員等には困難である。その点を踏まえても、マスコミの報道は重要である。
 既存マスコミがそういった面を認識できなければ、今回の兵庫県知事選挙のような、デマに欺される民衆によって選挙結果が左右されるという、ポピュリズム、衆愚政治が今後の日本で全面的に展開されるだろう。
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