tontonjyoのブログ

yahooから引っ越して来ました。思ったことを適当に書いています

千葉法務大臣、死刑執行

2010-07-30 03:16:54 | 日記

千葉景子法務大臣が死刑執行に踏み切っちゃいましたか。野党各党からは批判が相次いでいるね。その批判も批判のための批判って感じじゃない。

千葉景子法務大臣は刑場公開や法務省内に死刑制度の勉強会を設置するらしいね。今回のことで死刑廃止に関する議論が活発になれば良いとか言う論調がメディア含めてあったりするようです。

 

死刑廃止議論が活発になるには何が必要かってことでしょうかね。そう、例えば応報刑としての側面。当然、被害者、その遺族に対する配慮が一番に必要なのであって、そこを外した死刑廃止論なんて単なる思想の押し付けに他ならないでしょ。まず、ここを詰めることが必要なんでしょうね。

現状を鑑み「より良い。」と言う条件が必要だと思うが、被害者側に対する心のケアが充実され、その憎しみのベクトルである応報感情を緩和

また別の形で満たすことができる社会システムが整備されれば、応報感情を満たす装置としての死刑の重要性は下がって行くんじゃないですか。

癒しと和解。それが可能な方法ってなんだろうね。どうだろう。例えばアメリカのMVFR〔和解のための殺人事件被害者遺族の会〕詳しくはググッてください。まぁ、死刑廃止を訴えている団体なんだけど、死刑をテーゼに議論したことがある人にとっては結構知られた話だよね。この辺なんか参考になるのかもしれないなぁ。

MVFRのジャーニー・オブ・ホープを追ったドキュメンタリーは有名だよね。癒しと和解の旅。超大まかに言えば、死刑制度のある州に行って被害者遺族と死刑囚の家族が自分たちの体験を語り、死刑廃止に繋げて行こうって話です。

被害者遺族でも死刑廃止を唱えたりもする。そう言った人は日本にも少なからずいると言われているよね。

つまり死刑が必ずしも癒しに繋がらないってこともあるんじゃないですか。そしてそれとは別の方法に癒しが存在すると言うこともあるのかもしれない。癒しと和解への旅。相手を理解しろと言うものではなく語り部はあくまでも自らの体験を語り、その中から理解できる部分が見つかる、理解は癒しに繋がり、癒しは和解に繋がる。





被害者遺族は掛け替えのない大切なものを奪われたのだから応報感情を抱くのは当然。もし、それを否定する死刑廃止論者がいるのなら俺は受け入れられない。その犯罪の悲惨さをメディアなどを介して知り、その遺族に共感してしまう。それは死刑囚に対するものよりも強いものです。

応報感情、その感情が一切満たされないのなら、「何故に俺達は権利を国家に委譲しているんだ。」ってことにもなると思います。少なくともそれを代替し得る方策を採らなければ俺自身は現状を支持せざるを得ない。

被害者、被害者遺族に対してどう向き合うか。それは死刑廃止論の最大の命題でしょう。どうすれば癒しと和解が可能となるか。そして社会システムとするにはどう言ったことが必要かそこに答えを出さない限り80%を越える死刑賛成の世論を変化させることはできないんじゃないですか。

 




死刑が廃止されれば凶悪犯罪が増えるか、その辺は国柄や社会システムの問題もあるので、何とも言えないが、極々単純に考えれば「死刑にならないのだから。」と考える奴も出てくるかもしれない。もし、その恐れがあるなら、新たな刑事システムの構築のような答えを出さないといけないと思うよ。

逆を言ってしまえば、確かに死刑には冤罪の問題もあるね。それを確実に取り除く方法なんてないでしょう。死刑を必要とするなら、当然、冤罪を限りなく0に近づけるよう不断の努力が必要だと思う。必要派は、ここをディレンマとして抱えないと行けないだろうなぁ・・・。


現状を変えたい、死刑を廃止したいと言う気持ちは否定しない。其々で考え行動すれば良いと思う。存続側も然りです。ただ、「正義は自分にあるのだから相手の理解なんて得なくても良い。」なんて言うのでは単なる自己満足の粋で発展的とは言えない。

もし、本当に死刑廃止が実現するとしたら、その先にあるものが今よりも良きものである場合でしょうね。それが見えなければならないんでしょう。ここをどう考えるかは死刑廃止論者自身の問題なのでしょうけどね。

俺から言わせてもらえば、死刑廃止論者は、そうした方が死刑を上回る社会的効果があり、更に、より良い未来が来ると思うから死刑廃止を主張していると信じたい。


まぁ、少なくとも、存廃どちらにしたって肯定される部分と否定される部分があると言うことを忘れちゃ駄目なんだと思う。つまりは如何に問題を解決していくかが問われるんだと思うよ。





離党の思惑

2010-07-28 23:04:39 | 日記



なんか、そうね。そんな感じしてたんだよね。辻元議員の離党。あれね。「民主党の選挙協力欲しさからの離党。」なんて論調も確かにあるけどさ。まぁ、それも否定できないけど、でもね。ほら、ちょっと前に書いた朝生のやつでもそうだけど、なんかね。やっぱり環境が人を変えるってこともあるんだろうとは思うよ。

なんだろう。思いの実現、まぁ、それは一種の成功体験でしょうね。だとすると、もう一度味わいたい気持ちにさせるなんてこともあるんじゃない。民主党の前原大臣と共に問題に取り組み、また何らかの成果を出した経験。それって野党では味わえないものだよね。


確かに野党の役目の一つと言うか、大方がそれでしょうけど批判も重要な要素と言えばそうなんでしょうね。でも、それってつまり、考えることを相手に丸投げしているに等しい訳でしょ。

今までの政治云々見てると批判って、つまり「お前等は間違っているが、間違いを正す方法は自分で考えろ。」ってことなんじゃない。

批判は鍛冶における槌なのであって、相手が柔らかく柔軟な状態、つまり考える余地がある状態であれば叩くことで形を変えることもできるだろうが

冷えて固まってしまった状態、つまり考える余地がないとした状態では叩いた位で形は変わらない、逆に歪なもにになる可能性だってあるじゃない。

今度は火を入れて柔らかくする必要があるのだけど、その火ってなにか、それって考える余地を作り出す提案なんじゃないですか。

国民の間からも野党に対して「なんでも反対。」なんて揶揄されたりするけど、結局、国民も野党の姿勢について、ある程度の間違いを感じているんだと思う。

批判も必要な仕事とは認めるよ。当然そうでしょう、批判って、つまり問題点を国民の目に晒すことなんだから、でも、それだけでは必ずしも問題を解決したとは言わないよね。

野党には、それよりも重要な仕事があると思っているんだよ。まず、解決策を提示することさ。そして、互譲を前提にし、より自らの意見を実現する形で話し合うことさね。単に突っぱねるのは解決を遅らせるだけですよ。

でも・・・理念を完全に曲げてまで擦り寄るのは返って良くないだろなぁ。その時は突っぱねるのは仕方ないかもね・・・。あらゆることをやったなら多くが評価してくれるものさ。

そもそも党是と国民の利益は違う、多数も少数も国民なのだから、それを鑑み結果を出さないといけない。野党なら「今回の法案で政府からこれだけのことを引き出しましたよ。そして、それは○○と言う効果があります。」とアピールするべきでしょう。

統合を前提にした議論ができない連中。要は強行採決も長引かせも審議拒否も民主主義においてはろくなもんじゃない。






野党にも色んな種類があると思うけどさ。少なくとも政府として主体的になにかを成すことはできない訳だよね。キャスティングボードを握るなんて、政府の決定に影響できる位の党勢であれば、まぁ遣り甲斐はあるだろうけど

色んな事情で「批判だけが大方の仕事です。」になっちゃうのでは政治家としての遣り甲斐を見出せない人も出てくるのかもしれないね。

政治家には2種類いると思うんだ。一つは政治家になることが目的の奴。もう一つは政治家になり何かを成すことが目的に奴。

まぁ、政治家なんてものの評価を決めるのは何をやるかですよ。護憲なら護憲で良いし、普天間の海外移設を推すならそれでも良いんじゃないですか。その中で何を成して行くか、政治家の中の単なる一人で終わるか、何か爪痕を残すか、それは本人しだいでしょうね。

確かに政治と金の問題も過去にはあったのだけど、それを経験として発展的な何かができるか。単なる「総理~。総理~。総理~。」から一皮剥けることができるか。まぁ、その様を見て選択するのは有権者です。じっくり観察しましょうかね。




○○脅威論

2010-07-27 15:21:11 | 日記




脅威には《表面には表れないで内部に隠れて存在している恐怖》、つまり潜在的脅威も含まれるでしょう。大方がそれですよ。それなら、政治上言わないだけで、実際はどこの国にでも脅威は存在している。結局、脅威とは度合いの問題だってことなんじゃないですか。



極端な話ですよ。日本が、そうね。主権国家であることを根拠にしてアメリカの意向に反する選択の自由を主張し、アメリカと徹底的に対立するとしますわ。

それでもアメリカは日本の脅威にならない、つまり【自らの意向に従わせるため日本を脅かして来る。そして、それによって日本側は恐怖を感じる。】と言ったことは一切ないと言い切れますか。

脅威とは必ずしも軍事的な措置ばかりではないはずです。例えばアメリカの包括通商競争力強化法スーパー301のようなものも日本にとっては脅威となりますよね。経済的な措置や政治的な措置だって脅威を構成するはずですよ。

意地悪な質問ですが、大方は「言い切れません。」と答えるんじゃないでしょうかね。

国際社会の中で国家の意向を実現するには相手が存在する場合もあるのであって、相手が存在する場合には相手の影響力を考慮せざるを得ない。

ほら、国連云々も含めて国際社会だって決定には数が必要だったりするしね。また、安保理の拒否権云々もあるし、例えば、アメリカ・ロシア・中国、其々の勢力圏、影響圏にある国もある訳でね。

一国家に全くの自由な選択なんてできないってことでしょう。それはね。程度はあってもアメリカ・ロシア・中国を含め世界中のどの国も一緒だと思いますよ。



中国脅威論って言うのがあって、それに反する形で「中国は脅威ではない、中国を脅威にしてはならない。」なんて主張がありますよね。でも、それって「自らは要求するな、相手の言うことを全て聞け、一切逆らうな。」と言う主張に等しいでしょ。これは中国をアメリカに置き換えても一緒ですよね。

主権国家である以上、自らの主権を脅かす要求は跳ね除けるのが基本。国益を鑑みる必要は当然あるが、それは相手の出方しだいな訳でね。

例えばそうね。領土・領海・・・また捕鯨みたいな相手側の主観的な主張であれ、その対象に対し反する形で影響を及ぼすと言う体を否定できないなら世界中のどの国であれ脅威を構成しますよ。だから、その《脅威の度合い》を少しでも減らすため、また度合いを増やさないため国際条約を締結したり

連合・同盟を構築したり、予防的な外交を行ったり、軍事的威嚇力・安保体制を構築したり、そんな努力をするんじゃないですか。例えば、軍事は否定するが、その他の方法は是とする主張があるとして、それにしたって、そもそも脅威と認識しているからこその発想でしょ。

脅威ではないと言い切れるなら如何なる努力も必要ないと主張するのが自然ですよね。それはつまり、今の努力も止めるってことなんじゃないですか。 

軍事的、外交的、方法は色々あるでしょうが、幾ばくかでも相手の意向に反する形で影響しようとするなら如何なる国に対するのであっても対象は脅威を構築するよう作用するでしょう。言うことを聞きたくないんだから。

そもそもが相手の意向を受け入れ難いから反する形で影響せざるを得ないのでしょうね。相手の意向に反する形で影響することを放棄できない以上、別の形で抑止力を構築して脅威の度合いを増やさないようにするしかない。だから努力が必要になると言うことに帰結する。

まぁ、脅威の度合いも方法論も其々の判断でしょうけどね。









海賊対策・・・

2010-07-12 02:52:16 | 日記





【露の海賊“漂流刑”に批判《産経新聞》】なんて記事が上がっていましたね。

ロシアは漂流刑ですか。そうですよね。これって以前から言われている問題に答えを出せないでいるからってこともあるんでしょうね。ケニア、イエメン、スーダン、セイシェル、この辺が、捕らえた海賊を受け入れているんだそうですけど、問題って何か。

まぁ、大まかに言うと、周辺関係国から言えば捕まえても裁判所や刑務所の負担が大きすぎるとして「海賊収容もう限界!」なんだそうですよ。これは言わば「言い訳」的な側面もあるのかもしれないけど、それでも受け入れに消極的なのは事実のようでね。

域外関係国は資金を出し、どうか、お願いしてやってもらっている形なのだけど、どうも受け入れ側からすれば、自国の負担の大きさに気付き、難色を示すようになっているってことらしいね。この辺の問題は以前から燻っていたようで、まぁ、早急に答えを出さなければならない問題なんだけど、答えが出せずにいるようなんですよね。

基本的に日本政府は追い払うことを主にしているようですけど、もし、日本人が被害にあった場合には海賊を自国へ移送して訴追する方針のようです・・・。ん・・・。これって基本的には公海上ってことかなぁ。国際海洋法に則って自国に移送して訴追措置をとるって言うのは域内の場合どうするんだろう。

域外関係国から当事国周辺国への金銭的、また研修のような支援はあるものの、それでも負担が大きいと言うことになるのだろうから、そうね。「じゃぁ、どうするんだ、追い返して終わりでは、出口は見えないだろ。」って話ですが・・・。つまり海賊対策、そのものの転換期も近いって言えるのかもしれませんね。

まぁ、また、移送し訴追を行ったとして刑に服した後にどうするんでしょう。最近の国際社会の流れから言えば、所謂、人道的見地を重要視している帰来がある。

日本は案外、人道寄りと言うか、それを重要視している面が見られるので、刑に服した後に不安定なソマリアに送り返して終わりなのか、それとも何らかの措置を施すべきなのかなんて議論が起こる可能性もあるかもね。

不完全なキャパビルに放り出しても、ただ単に元の海賊に戻るなんてこともあるだろうし、所謂、国内法で問われる再犯の可能性のようなものが問われるなんてこともあるのかもしれないなぁ。つまり海賊は減らない。

また、訴追対象者のソマリアの現状に対する訴えしだいでは、国際的に問われる人道的な対処、つまり保護的な措置が問われるなんて可能性も出て来るかもしれないね。

ここから見出されるものは何か、法的根拠の確立と域外関係国や当事周辺国との連携強化、更に重要なのは、そもそものソマリアの安定化なんじゃないですか。

まぁ、この辺は日本も含む関係国の抱える現実的な問題としての考察が必要なんでしょう。そうですね。日本の主導的立場で言うならReCAAP、IMOマルチドナー基金などなどですか。

そう言ったものを確実化して行く作業や、また安保理決議1918号で謳われるような方向性を実現する措置の構築や、また進化的・昇華的な方向性も問われるんだと思います。

プントランド、ソマリランドの更なる安定化と協力も必要だと思う。また、陸上での貧困対策や職業支援などなどから、当事国民自ら統御感を獲得させる方向性も必要なんでしょうね。まぁ、色々言ったけど、そもそも、それができるのかって問題は確かにあるね・・・。敵性殲滅とは違う方向性の軍事的オプションも確かに必要なんだと思える。

 






【露の海賊“漂流刑”に批判《産経新聞》】
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100531/erp1005311846009-n1.htm


海賊収容もう限界!訴追引き受けケニア「連れてくるな」
http://www.asahi.com/international/update/0405/TKY201004050101.html


選挙。だいたい結果が出たね

2010-07-12 01:10:29 | 日記

予想通りと言えばそうかなぁ・・・。まぁ、与党も色々とあったからね。


消費税増税ですか・・・。いやね。消費税増税に関して言えば、当然、複数税率を設けて生活必需品は低額で所謂、贅沢品は高額って言うのは基本だろうけど、例えば、カナダ式の還付制度は結構現実的な案ではあると思うんだけどね。

区切りを年収0から300万ですか、そこまで所謂、生活必需品の税収分を全額還付。300万円以上は増えるごとに減額して行き、例えば年収500万で0になるなんて言う方向性ですか。

完璧に年収を計るシステムが作られるなら良いんだろうけどねぇ。ここは懸念するなぁ・・・。まぁ、できるとして、それなら多くの理解を得るのかもしれないけどね・・・。


でもね。根本的に言えば、政治家や公務員の給与、人員の整理も含めて、所謂、公的に位置付けられるものにおける、あらゆる意味で不採算部門、無駄と言える部分の縮小や撤退、また統廃合と言ったものが不充分だと判断されれば、確かに国民は増税に納得できないでしょうね。こう言ってしまうと当たり前の話だけど・・・。

みんなの党が議席を伸ばしたことから言えば、この辺見出せるかもね。


それにさ。経済対策を真面目にやった印象を得てないんだよなぁ・・・。一般も含めて成長が期待できる事業・企業や高収益を望める事業・企業、また救済するべき企業へと税金の使い道を集中させる作業が不充分だと判断された面もあるのかもね。

また、例えば定番の大規模な量的緩和とかさ。これって国債云々、借金しなくてもできるじゃん。デフレなんだから確りと加減をすればスーパーインフレなんかならないでしょ。

ん・・・。どうなんだろうね。この辺、政府としての指導力が問われたのかなぁ・・・。まぁ、自民も言っていることは似たり寄ったりなので、それをどう考えるべきか。小沢ショックと言いますか、政治と金の問題がもろに効いているかもなぁ。また、単に雰囲気に飲まれたか。






世論調査では、まぁ確かに【財政再建】を重要視する面もあるけどさ。数値的な部分が主で実感に乏しいし、更に急いては国民生活を悪化させることもあるんじゃないですか。まずは無駄を省き、国民の納得を得る方向性でじっくり腰を据えてやるしかないと思うよ。

それよりも生活に直結すると言うか実感があると言うか、それって【景気対策】【雇用対策】【社会保障】【少子化対策】【子育て支援】、この辺でしょう。変化があれば直ぐに評価に繋がるんじゃない。ここにある程度目に見える形をつける方向性が重要でしょうね。

当然、財源は問われるだろうけど、国民が求めるもの、それに基づく優先順位をつけて、低い位地にある公約は謝罪と共に期限を先延ばしにするしかないんじゃない。



其々の感じ方

2010-07-11 14:59:10 | 日記



チューリップの青春の影って曲。良いよね。

好きな曲ではあるんだけど、まぁ、何だろう。結婚式なんかでよく歌われている曲だよね。でも、この曲の歌詞、その意味について色々な解釈があるようです。そう例えば、後半は別れの意味だから結婚式には相応しくないとかね。



当該の曲を聴いて俺が一番最初に感じたのは、前半は、ほら、結婚か何かを決意した彼氏が意気揚々と彼女を迎えに行くってことなんだろうけどさ。

後半は、彼氏の行動から、結婚のような何らかの結論と、そこからの始まりを意識した彼女が恋から愛と言う心境の変化を起こした。その変化は戸惑いを生み、そして決意へと変わる。つまり、今までの恋する少女から、愛を受け止めた大人の女性への成長と言う変化を生んだ。

結婚のような何らかの結論は、ある意味、それまでの無邪気に恋を捉えた少年や少女から、互いに確りと愛を受け止める大人の男へと大人の女へと成長させることにもなるんじゃないですか。

愛を受け止めるだけの大人への成長は、其々が、其々の価値基準に従い、半ば利己とも言えるような、例えば「自の大きな夢を追う。」と言うようなことよりも、互いに相手を幸せにすると言うような生きる意味を身近なものへと変化させることもあるはずです。

その変化は見る人によって平凡になったと見えるのかもしれない。つまり【ただの男】【ただの女】になったと・・・。

一つの区切りと始まりを経て大人の男へと大人の女へと成長した二人は《君の家とつづくあの道を今足もとに確かめている》。つまり、それまでの人生を振り返って、今二人がある意味を確かめている。

なんて思ったんだけど違うのかもね・・・。ハッピーエンドが三度の飯の次に好きなものですから、解釈の余地があると、どうしてもポジティブに考えてしまう訳なんですよね。





でもさ、歌の意味なんて、聞くもの其々が感じれば良いんだと思うんだけど駄目かなぁ。確かに作者の意図とかあるからね。それは尊重しないと駄目だけどね。

ただ、作者が解らないとか、作者が意図を明らかにしないとか、そんな場合、解釈の余地があるようなものならどうでしょうか。其々が感じても良くありませんか。押し付ける気はありません。個人的内心の表明程度の話です。ポジティブに幸せな二人を想像しても良いじゃありませんか。



ねっ!



国旗・国歌、続きの続きの続き

2010-07-05 01:15:30 | 日記

 

人の内心に作用するのは極めて難しいでしょ。国旗掲揚・国歌演奏に際しての礼儀作法は社会と対する上において後人に教育・指導して行くべきだと思うのだけど、それと愛国心を育むなんて言うこととは別問題だと思うんだよなぁ・・・。




「愛国心を育みたい。」「日章旗・君が代を愛して欲しい。」、まぁ、そう思うのはけして悪いことじゃないと俺は思いますが、でも方法は問われるんでしょうね。

坊主憎ければ袈裟まで憎い。本来は別に考える必要があるのに、ある対象を憎むあまり、その対象に関係のあるもの全てが憎くなる。人間って、その程度でしょ。人間が自ずとそうなら必要なのは、その逆なんじゃないですか。

ある対象を愛するあまり、その対象に関係あるもの全てを愛するようになるなんてこともあると思います。そうね。日章旗や君が代を愛して欲しいと思うなら、まず世界に誇れる良い国になることが一番じゃないですか。

日章旗や君が代を替えるのは思想的対立がある以上、容易ではないのだろうけれども、国の方策・方向性は案外簡単に変わると思えるなぁ。民選の国会・政府の決断しだいでしょ。

内向きにならず、日本独自の方向性を見つけて、実際に世界に誇れる日本になれれば、虚偽に基づく、また大袈裟な表現に基づく否定的な主張なんて看破されるでしょうね。




今の若者って出世欲とか金銭欲とかが少ないって言われている。それって人より多く儲け高級な暮らしをすることが誇りなんて言う、つまりマズロー言うところの自我の欲求の段階は終わったと言うことなのかもしれませんね。国は人の集まりですから、人の変化は国の在り方にも反映されるでしょう。

「日本人は民情として自我の欲求を越え、次の自己実現の欲求の段階に至ろうとしているのかもしれない。」なんて思います。

自己実現を牽引する日本の独自性ってなんだろうなぁ・・・。そう。アメリカ様とべったりながら平和主義を保っているって言うのは特出しても良いのかもなぁ。そして、それは多くの国民が受け入れていることでしょう。

平和主義的傾向で積極的にイニシアティブをとり、そして何らかの成果を導き出せれば、日本人の選択は間違ってはいなかったことの証明になる。

その成功体験が自己実現の欲求を満たし、国への誇りに変化するかもしれない。つまりは愛国心を育むことになるかもしれないね。



おしまい。


国旗・国歌の続きの続き

2010-07-04 06:56:49 | 日記




いやね。国旗とか国歌とか、この話になると直ぐに右からも左からも愛国心とか言う言葉が出て来るでしょう。俺からすると、それは違うんだよなぁ・・・。

国旗掲揚・国歌演奏に際しての敬意を表すような態度、まぁ、マナーと言いましょうか、それは社会と対する上において教えて行くべきだと思うけど、それと愛国心を育むなんて言うこととは別問題だと思います。

国旗掲揚に対して起立させたからと言って、国歌演奏に際して斉唱させたからと言って愛国心なんて育たないと思うんですよね。だってさ。敬意を表している【ふり】だってできるんだよ。

日章旗や君が代に対して良い部分を見出せない人もいるんじゃん。掲揚に対して起立させる程度のことで、演奏に対して斉唱させる程度のことで、その人の内心なんて変えられないでしょう。

国旗掲揚・国歌演奏に対して敬意の態度を表すことを指導するのと愛国心を育むこととは別問題だよね。礼儀作法って「内心はどうあれ、そうするべきだ。」って話だもん。俺の中ではね。

んで、愛国心って、例えば国として誇れる部分があるから、その象徴として国旗に思いが向かったり、国歌に思いが向かったりするんじゃないの。単に国旗掲揚・国歌演奏に際して愛国心を感じると言う人は最初から愛国心があるんじゃないですか。

そう例えば、W杯サッカーのようにね。頑張ったと見て取れるような、まぁ誇りに感じるとか、そう言ったことが相俟って、ポジティブな意味での愛国心が湧き上がり、思いが国旗や国歌に向かったんじゃないの。

まぁ確かに、愛国心は道具としてネガティブな使い方をされることもあるんだと思うよ。んで、それを懸念する人もいるんだろうけどもさ。例えば安倍信三議員が総理の時の参議院選挙。自民が大敗したよね。それなんか見ると、今の日本人は、そんなもので動かされるほど純粋ではないと思うね。


国旗・国歌の続き

2010-07-03 01:14:51 | 日記

ネタ探しブログ探訪の続き。

起立する自由に、起立しない自由ね・・・。

身勝手と自由は違いますから。「個人的思想心情から来る行動で、式典を妨害するのは自由ですか、それとも身勝手ですか。」と問われた場合、身勝手と答える人が多いんじゃないですか。自由と答える人はどうでしょうね。反社会的とされるかもしれませんね。

教育って、対象に意図的な働きかけを行って、その対象を教育者の望ましい方向へ変化させることでしょう。ただ、社会通念から言えば、【教育者の望ましい方向】とはつまり、人として守るべき道に沿うってことになるんじゃないですか。

社会の中で生きる以上、身勝手が人として守るべき道とは言えないはずです。身勝手が過ぎるなら「法律のような強制力が必要だ。」と主張されてもおかしくないですよね。




日章旗や君が代に並々ならぬ思いを抱くのは個人の自由でしょう。またネガティブな思いを抱くのも個人の自由。だから、個人的範囲で歌うのも掲揚するのも自由でしょうね。

ただ、互いの関わりで成り立っている社会の一員である以上、個人の範疇から離れた場合は必ずしも自由とは言えないんじゃないですか。その場合は、内心の表明足る行動によって身勝手と判断されることもあると思います。

身勝手は批判の対象になるだろうし、法律に抵触すればそれ相応の対処を受けるはず。また、教育について言うのなら「自分が正しいと思うなら何をやっても良い。」とは指導できないでしょうね。

やっぱりね。国内・国際問わず長い間に皆に認められるようになった礼儀作法ってあるんですよ。つまり 慣習ですよね。それは他との関わりで成り立つ社会生活において必要なものでしょう。

国旗が掲揚されるときは自国、また他国の国旗を問わずに対して起立し敬意を表わすとか。 極々基本的なことだと思うんですけどね。まぁ、公云々や当事者か否かで度合いに違いは出て来るでしょうが、この辺は流石に自由では駄目なんじゃないですか。

まぁ、式典のような場合、礼儀を表す所作が自然にできるのなら良いんですけどね。自由だとか正面から言い、歌わないばかりか起立しないなんて言うこともあるようです。従って必ずしもできないと判断されれば慣習の法典化、つまり法律を構築する根拠にもなるでしょう。

だから他国がどうとかじゃないのだと思いますよ。自国でそれができるか否かが問われるんじゃないですか。慣習上、「自由で良いだろ。」と言えないですよね。より多くができるか否かが問われるべきなのでしょう

「学校行事だから自由で良い。」とは言えないですよね。学校行事だからこそやらなきゃならないんでしょう。人間形成に作用する全ての影響も教育とされる。だからこそ学校行事において慣習に基づく礼儀作法を確りと教えるべきなんじゃないですか。


「慣習なんてどうでも良い。」なら、まぁ、主張も違ってくるでしょうが、ただ、どうでしょうね。それって、より公に近づくにほど配慮に欠けると評価されるんじゃないですか。

「自由で良いじゃん、だからやらない。」のと「本来はやらなければならないが、あえてやらない。」のでは意味合いが全く違いますよね。

確りとした認識の基「あえてやらない。」のは、そのことで起こり得るあらゆる影響を覚悟していると言えるでしょうが、しかし、単に「自由で良いじゃん。」と言う認識ではリスクを覚悟することすらしないと言うことではないですか。

「自由で良いじゃん。」なんて思うのであれば、将来、一人の人間として恥をかくことだってあるかもしれないし、そのことによって評価が下がることだってあるかもしれない。事後に「学校では教えなかった。」では済まないですよね。それを煽った大人は、その人の人生に責任を持てる訳でもないでしょう。

「国内慣習は否定して妥当だけど、国際慣習は否定してはならない。」って主張があるとして、そのどこに正当性が含まれるのか解りません。俺から言えば矛盾としか言えませんね。もし、ネガティブな思いへの配慮だとするなら両方否定するべきでしょうね。





ここまでは民族問題や過去の不幸な出来事のような主観的な心情とは別問題であるはずです。国内慣習、また国際慣習をどう見るかの問題でしょう。

思想的対立の話をすれば、民族問題や過去の不幸な出来事を基に反対する人がいるように日章旗や君が代に対して並々ならぬ思いを抱く人はいるんですよね。

これらはつまり、主観的な正義による主張でしょう。俺個人から言えば、どちらも尊重される方向を模索するべきとしか言えません。

まぁ、両論を併記し、思想的対立の経緯を生徒に示すのは良いとして、思想的対立そのものを公平中立であるべき学校教育に持ち込むのは間違っていると思いますね。

そもそも対立軸を持ってきても答えなんて出ないんじゃないですか。何れにしても主観的な主張である以上、「他方だけ絶対的な普遍妥当性を持っている。」なんて言えないはずです。

保証された範囲であれば如何な思想を持つことも否定されるものではないでしょうが、しかし、その対立を教育の現場には持ち込むのは間違いだと思う。別の場において作用するべき問題ではないですか。

現状の日章旗や君が代は国旗、国歌として国民の追認と言う形でしょう。つまり推定の合意。それは多くの国民に否定され新たな国旗や国歌が作られない限り続くものだと思います。

賛成派、反対派の遣り取りの中で、日章旗や君が代とは違う、新たな国旗や国歌が示されることになり、そして、それが多くの国民の同意の基で承認されるのなら、それはそれで俺は構わない。


新たな国旗や国歌が作られるような状況になるか否かは、賛成派の問題ではなく、反対派の行動にかかっているでしょうね。










国旗・国歌

2010-07-02 10:32:58 | 日記





W杯に絡んで【橋下氏W杯国歌斉唱に「これが国民感覚」】って記事。ネタ探しにブログ探訪していたら、「へ~。」と思ったんで、少しだけ内心の表明してみようかなぁ。




国旗や国歌。国家を代表する、また象徴する記しとして定められた旗だったり歌だったり、つまり、そう言うことでしょう。国章とは、また別に国籍の標識なんかにも用いられたりしますよね。

まぁ、基本的には、国の尊厳を広く世間に知らせるものとして大切に、また、ある意味の敬意をもって扱われるべきものなんじゃないですか。それは自国民にも言えるでしょう。自国民が粗末に扱うものを他国民が敬意をもって大切に扱うなんて、おかしな話ですからね。

ある記しが、ある国において国旗や国家として定められた、また、それに準ずる意味合いがあるのなら、大切に、また、ある意味の敬意をもって扱われるべきものとしても否定する人はあまりいないと思います。中には焼き捨てたりする人もいますけどね。


問われるのは「日の丸だから」や「君が代だから」ではなくて、そもそもの国旗や国歌に対する接し方なのでしょう。「日の丸や君が代が嫌でも、それが国旗や国歌である以上、対して妥当な接し方をするべき。」と言う主張なら、それほど否定できたものでもないでしょうね。

教育として考えるなら、国際化が進む中、他国の国旗や国歌に対する態度について相手を不快にさせない接し方を教えることは必要なことでしょう。であるなら、延長上に、自国民として自国の国歌や国旗に対する態度も、それ相応にあるべきことを教えることは否定はできないと思いますけどね・・・。

でもさ、これ、橋下府知事ってちょっと保守で鷹派なイメージがあるからね。国旗や国歌としての意味合い以前に「日章旗や君が代に敬意を表せ。」って言う風にも聞こえるんだよなぁ。単なる俺の個人的な印象だけどね。

それとは別にだけど、日の丸や君が代が国旗や国歌としての意味合いを持たないのなら、どう接するかは個人の自由となるんじゃないですか。それが国旗・国歌として定められているからアイデンティティーを代表して「尊いものとして侵し難い。」と言う存在になるんだと思います。


 

 

国旗や国歌の意味合いとして言うなら、国家的行事などに掲揚することや演奏することを否定することはできないのだろうけれども、まぁ、学校行事はどうでしょうね。

所謂、学校における式典が、国家的行事などに類するか否かと言う問題もあるのだろうけれども、仮に、準ずる以上の意味合いがあるとして言うと、そうね・・・。

一教師の思想的判断による式典妨害なんて言うのは、そもそも論ずることにも値しないでしょうね。それは教育者として明確に誤りと言えるんじゃないですか。

また、生徒や保護者が民主的手段を用い決めれば良いなんて論調もあったりするんだけど、それじゃきっと駄目なんだよなぁ。その手法程度のものが掲揚や演奏までも否定して妥当と言えるだけの正当性を持つものなのか疑問ですね。




日本の場合は国民の追認と言う形ですかね。国旗や国歌の意味合いから言えば、定めた以上は式典において演奏・掲揚することを否定できないでしょう。また、否定して妥当なものでもないでしょうね。

でも、生徒や教師の内心までは強制できないので、内心において敬意を持って接するか否かは個人の判断でしょう。

まぁ、個人的な意見ですが、他国であれ国旗や国歌そのものの意味合いを教える側の教師としては必ずしも相応しいとは言えないだろうが、内心の表明として生徒が国歌を斉唱しない程度までは許容されるんじゃないですか。起立しないのはどうでしょうね。式典妨害に相当するかもしれません。

 因みに俺は学生の頃、式典自体に参加しなかった方なので、まぁ、高卒だし、所謂、地方の偏差値の低い高校にしか入れない良好とは言われない人間でしたね。高校自体を言えば、夏休みの終わりにはクラスの半分が停学になっていたりするような学校でした。

確かに左側の教師もいましたが、どちらかと言うと俺達を式典に参加させ何事もなく終わらせることに心血を注いでいましたね。言うなれば、教師が自分達の思想心情なんて言っている場合ではなかったのかもしれません。まぁ、そんな程度の思想心情だと言うこともあるのかもしれませんけどね。

それは別として、現在の国旗や国家を国を象徴するものとして相応しくないと考えるのは良いんですよ。また、混乱をもたらさない程度の行動なら許容もされるでしょう。

俺自身は、現状の追認に近い状態ではなく正面から国民の同意を求めるべきではないのかと思っている。でも、それは国政選挙などを介して変えて行くしかないでしょうね。

個人的意見ですが、「一教師の在り方として、個人的な思想心情はなるべく廃して公平中立な教育を目指すべき。」と言うのは、ある程度の妥当性を含んでいるんじゃないですか。それを前提にして言うのなら。

当然、客観的見地や両論の併記は求められるでしょうが、過去に君が代や日の丸がどのような使われ方をしたのか。また君が代や日の丸に対してネガティブなイメージを持っている人はいる訳で、その思いの内容を教えるのは否定されるべきものではないでしょうね。

君が代や日の丸を中心にした議論は、確かに存在するのだから、その両論を示して、生徒自ら考えさせることは重要なのかもしれません。疑問を持たないことほど怖いものはないですからね。その中で自ずと変化して行くのならそれを否定することはできないんじゃないですか。


まぁ、基本的に国旗や国歌に反対する直接的で、ある種の過激な行動が、教育現場に、ある意味の混乱をもたらし、国旗国歌法の制定や教育基本法の改正に正当性を持たせ、ある意味の自由が奪われる結果に至ったんじゃないですか。

学校であっても社会の一部であるのだから、混乱をもたらして妥当だとは言えないですよね。そうはならない方法を考える必要があった、またあるのでしょう。

自制は自由の根拠になるが、身勝手は強制の根拠になりますよね。暴力を用いることは相手の暴力に正当性を与えるでしょう。多分ですけどね。そう言うことのような気がします。




自由と身勝手は似ているけど違いますよね。国旗を掲揚すること、起立すること、国歌を斉唱することで式典が良好に運ばれるのなら、思想心情はどうあれ教師は教育者として生徒達に、そう作用するべきでしょう。

一個人の思想心情として現在の日章旗や君が代が国旗や国歌に相応しくないとするなら、運動なりを行い選挙を介した民主的な方法で替えて行くべきなんじゃないですか。極地的な妨害は単に自らを狭める結果になるだけだと思います。


まぁ、寛容を求める側が寛容ではないなんてことは世の常ですが、気に入らないならなにをやっても良いとするのなら世の中は混乱するだけです。基本は法に基づき理性を持って対処するべきでしょう。これが今世界で求められているんじゃないですか。

法に基づき理性を持って対処することができれば武力紛争の多くが解決するかもしれませんよね。









参考にしました。

【橋下氏W杯国歌斉唱に「これが国民感覚」】
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20100630-647699.html