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千葉法務大臣、死刑執行

2010-07-30 03:16:54 | 日記

千葉景子法務大臣が死刑執行に踏み切っちゃいましたか。野党各党からは批判が相次いでいるね。その批判も批判のための批判って感じじゃない。

千葉景子法務大臣は刑場公開や法務省内に死刑制度の勉強会を設置するらしいね。今回のことで死刑廃止に関する議論が活発になれば良いとか言う論調がメディア含めてあったりするようです。

 

死刑廃止議論が活発になるには何が必要かってことでしょうかね。そう、例えば応報刑としての側面。当然、被害者、その遺族に対する配慮が一番に必要なのであって、そこを外した死刑廃止論なんて単なる思想の押し付けに他ならないでしょ。まず、ここを詰めることが必要なんでしょうね。

現状を鑑み「より良い。」と言う条件が必要だと思うが、被害者側に対する心のケアが充実され、その憎しみのベクトルである応報感情を緩和

また別の形で満たすことができる社会システムが整備されれば、応報感情を満たす装置としての死刑の重要性は下がって行くんじゃないですか。

癒しと和解。それが可能な方法ってなんだろうね。どうだろう。例えばアメリカのMVFR〔和解のための殺人事件被害者遺族の会〕詳しくはググッてください。まぁ、死刑廃止を訴えている団体なんだけど、死刑をテーゼに議論したことがある人にとっては結構知られた話だよね。この辺なんか参考になるのかもしれないなぁ。

MVFRのジャーニー・オブ・ホープを追ったドキュメンタリーは有名だよね。癒しと和解の旅。超大まかに言えば、死刑制度のある州に行って被害者遺族と死刑囚の家族が自分たちの体験を語り、死刑廃止に繋げて行こうって話です。

被害者遺族でも死刑廃止を唱えたりもする。そう言った人は日本にも少なからずいると言われているよね。

つまり死刑が必ずしも癒しに繋がらないってこともあるんじゃないですか。そしてそれとは別の方法に癒しが存在すると言うこともあるのかもしれない。癒しと和解への旅。相手を理解しろと言うものではなく語り部はあくまでも自らの体験を語り、その中から理解できる部分が見つかる、理解は癒しに繋がり、癒しは和解に繋がる。





被害者遺族は掛け替えのない大切なものを奪われたのだから応報感情を抱くのは当然。もし、それを否定する死刑廃止論者がいるのなら俺は受け入れられない。その犯罪の悲惨さをメディアなどを介して知り、その遺族に共感してしまう。それは死刑囚に対するものよりも強いものです。

応報感情、その感情が一切満たされないのなら、「何故に俺達は権利を国家に委譲しているんだ。」ってことにもなると思います。少なくともそれを代替し得る方策を採らなければ俺自身は現状を支持せざるを得ない。

被害者、被害者遺族に対してどう向き合うか。それは死刑廃止論の最大の命題でしょう。どうすれば癒しと和解が可能となるか。そして社会システムとするにはどう言ったことが必要かそこに答えを出さない限り80%を越える死刑賛成の世論を変化させることはできないんじゃないですか。

 




死刑が廃止されれば凶悪犯罪が増えるか、その辺は国柄や社会システムの問題もあるので、何とも言えないが、極々単純に考えれば「死刑にならないのだから。」と考える奴も出てくるかもしれない。もし、その恐れがあるなら、新たな刑事システムの構築のような答えを出さないといけないと思うよ。

逆を言ってしまえば、確かに死刑には冤罪の問題もあるね。それを確実に取り除く方法なんてないでしょう。死刑を必要とするなら、当然、冤罪を限りなく0に近づけるよう不断の努力が必要だと思う。必要派は、ここをディレンマとして抱えないと行けないだろうなぁ・・・。


現状を変えたい、死刑を廃止したいと言う気持ちは否定しない。其々で考え行動すれば良いと思う。存続側も然りです。ただ、「正義は自分にあるのだから相手の理解なんて得なくても良い。」なんて言うのでは単なる自己満足の粋で発展的とは言えない。

もし、本当に死刑廃止が実現するとしたら、その先にあるものが今よりも良きものである場合でしょうね。それが見えなければならないんでしょう。ここをどう考えるかは死刑廃止論者自身の問題なのでしょうけどね。

俺から言わせてもらえば、死刑廃止論者は、そうした方が死刑を上回る社会的効果があり、更に、より良い未来が来ると思うから死刑廃止を主張していると信じたい。


まぁ、少なくとも、存廃どちらにしたって肯定される部分と否定される部分があると言うことを忘れちゃ駄目なんだと思う。つまりは如何に問題を解決していくかが問われるんだと思うよ。





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