tontonjyoのブログ

yahooから引っ越して来ました。思ったことを適当に書いています

国旗・国歌の続き

2010-07-03 01:14:51 | 日記

ネタ探しブログ探訪の続き。

起立する自由に、起立しない自由ね・・・。

身勝手と自由は違いますから。「個人的思想心情から来る行動で、式典を妨害するのは自由ですか、それとも身勝手ですか。」と問われた場合、身勝手と答える人が多いんじゃないですか。自由と答える人はどうでしょうね。反社会的とされるかもしれませんね。

教育って、対象に意図的な働きかけを行って、その対象を教育者の望ましい方向へ変化させることでしょう。ただ、社会通念から言えば、【教育者の望ましい方向】とはつまり、人として守るべき道に沿うってことになるんじゃないですか。

社会の中で生きる以上、身勝手が人として守るべき道とは言えないはずです。身勝手が過ぎるなら「法律のような強制力が必要だ。」と主張されてもおかしくないですよね。




日章旗や君が代に並々ならぬ思いを抱くのは個人の自由でしょう。またネガティブな思いを抱くのも個人の自由。だから、個人的範囲で歌うのも掲揚するのも自由でしょうね。

ただ、互いの関わりで成り立っている社会の一員である以上、個人の範疇から離れた場合は必ずしも自由とは言えないんじゃないですか。その場合は、内心の表明足る行動によって身勝手と判断されることもあると思います。

身勝手は批判の対象になるだろうし、法律に抵触すればそれ相応の対処を受けるはず。また、教育について言うのなら「自分が正しいと思うなら何をやっても良い。」とは指導できないでしょうね。

やっぱりね。国内・国際問わず長い間に皆に認められるようになった礼儀作法ってあるんですよ。つまり 慣習ですよね。それは他との関わりで成り立つ社会生活において必要なものでしょう。

国旗が掲揚されるときは自国、また他国の国旗を問わずに対して起立し敬意を表わすとか。 極々基本的なことだと思うんですけどね。まぁ、公云々や当事者か否かで度合いに違いは出て来るでしょうが、この辺は流石に自由では駄目なんじゃないですか。

まぁ、式典のような場合、礼儀を表す所作が自然にできるのなら良いんですけどね。自由だとか正面から言い、歌わないばかりか起立しないなんて言うこともあるようです。従って必ずしもできないと判断されれば慣習の法典化、つまり法律を構築する根拠にもなるでしょう。

だから他国がどうとかじゃないのだと思いますよ。自国でそれができるか否かが問われるんじゃないですか。慣習上、「自由で良いだろ。」と言えないですよね。より多くができるか否かが問われるべきなのでしょう

「学校行事だから自由で良い。」とは言えないですよね。学校行事だからこそやらなきゃならないんでしょう。人間形成に作用する全ての影響も教育とされる。だからこそ学校行事において慣習に基づく礼儀作法を確りと教えるべきなんじゃないですか。


「慣習なんてどうでも良い。」なら、まぁ、主張も違ってくるでしょうが、ただ、どうでしょうね。それって、より公に近づくにほど配慮に欠けると評価されるんじゃないですか。

「自由で良いじゃん、だからやらない。」のと「本来はやらなければならないが、あえてやらない。」のでは意味合いが全く違いますよね。

確りとした認識の基「あえてやらない。」のは、そのことで起こり得るあらゆる影響を覚悟していると言えるでしょうが、しかし、単に「自由で良いじゃん。」と言う認識ではリスクを覚悟することすらしないと言うことではないですか。

「自由で良いじゃん。」なんて思うのであれば、将来、一人の人間として恥をかくことだってあるかもしれないし、そのことによって評価が下がることだってあるかもしれない。事後に「学校では教えなかった。」では済まないですよね。それを煽った大人は、その人の人生に責任を持てる訳でもないでしょう。

「国内慣習は否定して妥当だけど、国際慣習は否定してはならない。」って主張があるとして、そのどこに正当性が含まれるのか解りません。俺から言えば矛盾としか言えませんね。もし、ネガティブな思いへの配慮だとするなら両方否定するべきでしょうね。





ここまでは民族問題や過去の不幸な出来事のような主観的な心情とは別問題であるはずです。国内慣習、また国際慣習をどう見るかの問題でしょう。

思想的対立の話をすれば、民族問題や過去の不幸な出来事を基に反対する人がいるように日章旗や君が代に対して並々ならぬ思いを抱く人はいるんですよね。

これらはつまり、主観的な正義による主張でしょう。俺個人から言えば、どちらも尊重される方向を模索するべきとしか言えません。

まぁ、両論を併記し、思想的対立の経緯を生徒に示すのは良いとして、思想的対立そのものを公平中立であるべき学校教育に持ち込むのは間違っていると思いますね。

そもそも対立軸を持ってきても答えなんて出ないんじゃないですか。何れにしても主観的な主張である以上、「他方だけ絶対的な普遍妥当性を持っている。」なんて言えないはずです。

保証された範囲であれば如何な思想を持つことも否定されるものではないでしょうが、しかし、その対立を教育の現場には持ち込むのは間違いだと思う。別の場において作用するべき問題ではないですか。

現状の日章旗や君が代は国旗、国歌として国民の追認と言う形でしょう。つまり推定の合意。それは多くの国民に否定され新たな国旗や国歌が作られない限り続くものだと思います。

賛成派、反対派の遣り取りの中で、日章旗や君が代とは違う、新たな国旗や国歌が示されることになり、そして、それが多くの国民の同意の基で承認されるのなら、それはそれで俺は構わない。


新たな国旗や国歌が作られるような状況になるか否かは、賛成派の問題ではなく、反対派の行動にかかっているでしょうね。