tontonjyoのブログ

yahooから引っ越して来ました。思ったことを適当に書いています

政治思想・・・TPP

2011-01-26 05:17:34 | 日記

 

TPPですか・・・。あのね。 内閣府は日本がTPPに参加するのは有益でGDPが2.4~3.2兆円増えるとの見方を出しているよね。経産省は日本が参加しないとGDPが2020年までに10.5兆円減少すると予想している。でも農水省は参加は不利益で340万人の雇用が失われ、食糧自給率も現在の40%から14%にまで下がると予想しているね。

更に言えば他にも負の影響があると言う見解は方々から出ている訳だけど、多分、菅政権は参加する方向で考えているんでしょう。

まぁ、参加するとしてだよ。つまり問題は疲弊する部分が必ずあって、それをどう支えるかに尽きる訳だけど、例えば農業なら100ヘクタール以下の農地しか持たない農家は潰れるなんて言われているから、大規模化と輸出産業に育てる作業が必要だろうね。

輸出産業に育てるってなら、自由競争を前提とした淘汰を促進させ、より優良で強い農家が生き残っていくと言う方向性が必要になるでしょう。経営者が農業に従事していなくても経営を担える仕組みを作り、現農地の整理統合と大規模生産に耐え得る機械化と株式会社化が必要なんじゃない。それによって労働者としての雇用は担保できるでしょう。

高齢化が叫ばれる農業だけど、現農家で跡を継ぐものがいなければ所有する農地を、例えば農業を目指す企業に対して積極的に売却、また貸し出すことが現農家にとって有利になる制度設計と新規に農業を始めるものに対しては、その方向性により、つまり大規模化と産品をどう売って行くかの方向性で妥当性が認められるなら、補助金を出すと言う方向性だろうなぁ。


でもさ。資本主義って儲けがないと生産しないじゃん。ここにも制度上保証される部分を設けないと、マジで食料自給率が極端に下がる訳じゃない。例えば農業を輸出産業に育てるとしてだよ。農地が大幅に増えないなら生産量は大幅に増えない訳で、その中で国内向けと国外向けを作ることになる。つまり国内向けが減る訳じゃん。

まぁ、でも、機械化で人件費を抑えれば安売り競争になるかも知れないけどね。それでも輸入品に対抗できなければ意味がない。超大規模経営による薄利多売で勝負することができないとするならだよ。輸出面は、より魅力的で高く売れる商品を選択して生産すると言うことになるでしょう。だとするとブランド化して農産物の値段が高くなって行く訳じゃない。結局、国内向けが安くなる要素はない。

背に腹は変えられない。国内で生産される農産物の値段がそれほど変わらないならさ。この不況のご時世、庶民にとってやっぱり安い輸入商品が魅力的になる訳じゃん。つまり農業を大規模化・企業化するだけでは食料自給率は下がる。食料自給率を維持するためには、その大規模農業化と同時に純粋に食糧自給を支える農業を輸入品に対抗できる規模での税金投入で支えるって言う方向性も必要になるんじゃない。


より多くの国とFTAを結ぶ程の能力は現政権にも官僚にもないんだろうから、TPP参加は仕方ないとしてだよ。高齢化して跡取りもいないと言うのが今の日本の農業なら、雇用に対するダメージについては、そこを起業が担うと言う方向性を見出せば補完可能だろうけど、ただ、問題は食料自給率をどうやって維持するかだなぁ。安全保証上、食糧自給は重要な問題だからね。


政治思想・・・確かに

2011-01-25 00:16:16 | 日記



だってさ、現時点で人類は必然的に平等を選択するには至らないよね。人類の全てが利己的欲望を一切否定し、ベクトルを利他にシフトしない限り、自由と平等は究極的に相容れない。つまり現時点ではバランスの問題なのさ。

社会主義とか共産主義とか「労働価値から労働賃金を引いたものが余剰価値で資本家階級が搾取している。」とか「搾取ではなく資本投入や経営力に対する対価だ。」だとか、そう言う議論も良いけどさ。

実質的なテーゼって「資本主義とは儲けの為に生産するのであって、その生産物が人類に有害なものでも儲けが発生すれば生産する。また、人類の為に如何に有益でも儲けがなければ生産しない。」突き詰めればこう言うことでしょう。だから、そこをコントロールするための制度が国家には求められる。ただ、まぁ、現時点で自由競争は否定できないよね。だからバランスの問題が重要なのさ。まぁ。将来はどうなるか解らないけどね。


強い方からすれば規制がない方が儲けられる訳さ。弱い方からすれば規制があった方が良い。




政治思想・・・え?

2011-01-15 05:47:01 | 日記





  はーぁっ。 プロレタリアートの自己解放ってか。ん・・・。古典的社会主義に属している訳なのね。「打倒ブルジョワジーが社会主義の本質。」っって未だに、そうなんだ・・・。もっと革新的な人もいるけどね・・・。

無産階級が、なぜ無産階級足るか、資本家階級が、なぜ資本家階級足るか。なぜ、自由競争が生産を強くするか。この辺を考えれば、ブルジョワジー打倒では問題が解決しないと言うことに帰結すると思うんだけどなぁ。

「竹中平蔵路線がなぜ批判されるか。」、それは簡単で、彼は「知り得た者。」だからさ。例えば日本では正規社員に対する保護が厚く、非正規社員に対する保護が薄いことを知っていた。それが「セーフティーネットまでは手が回らなかった。」と言う言葉に表れている。

日本は自由民主主義ではあるが、そこに福祉主義を付加しているよね。それは何故か、自由主義の行き過ぎが社会的不公正を生み経済的格差を大きくすると言うことを経験的に知っていたからなんじゃないの。そう言うものだとして上手く調整していれば、批判は受けなかったでしょ。



例えば、安い労働力を生み出すために、非正規社員雇用に関する規制を緩めたまでは良かったさ。賛否は確かにあるが彼が言うように何らかの効果はあったでしょう。しかし、そうすれlば経済的格差が大きくなると言うことも同時に解っていたよね。そもそもに正規社員と非正規社員では時間と労働に対して同一賃金ではないのだから。

何をすれば良かったか。当然、非正規社員が賃金的にも立場的にも弱くなるのだから、非正規社員>一般社員>管理職>経営陣と言う形で、より賃金が安いものが雇用面で保証される制度を先に、また同時に構築するべきだったんでしょう。
金が社会的地位を支えているとするなら、より賃金の安い者が雇用の面で守られる制度がないと社会的不公正は是正されないじゃん。

リストラチャリングするなら、経営陣の整理が一番先で、次に管理職、次に一般社員、最後に非正規社員と言う形で行われるような制度にしないと社会的不公正は是正されない。これは経営陣への牽制になるでしょう。
誰でも地位は守りたいからね。

より賃金の安いものが職を維持できる制度が確立されるとするならだよ。その中で経営陣が地位を守るには雇用を維持しつつ良好な経営を行う必要が出て来るじゃん。
更に、企業の良し悪しは経営者の資質による。企業として良好な収入を得るためには、より有能な経営者を残すと言う淘汰が起きるでしょう。つまり、より強い企業ができ上がる。

国家にとって必要なのは、国際競争に勝ち抜く、より強い企業だよね。金食い虫の無能な経営者が残るなら、それは自然淘汰として潰れて行く訳さ。

「それじゃぁ。企業が臆病になって、雇用が促進しない。」、いや、経済は規制緩和で浮揚するのでしょう。当然、労働者の需要が増えるじゃない。そうなれば安い賃金のものから雇用されて行く、「景気が良くならない。」と言う前提なら解るけど、「竹中改革で景気が良くなる。」と言うのなら、臆病も糞も企業は雇用せざるを得なくなるんじゃん。

 

また、別の話をすると、経済再建に安い労働力として賃金格差を利用するのなら、当然、差が下に広がることは解っていたのでしょう。だったら、下に広がった部分を制度的に富の再分配で押し上げれば良かったってことになるんじゃない。今もやってるけど職業訓練制度の拡充と、更に低所得者層に対する給付、また簡易住居をセットにして、ここを今よりも更に徹底的にやらないといけなかったんだろうね。自己実現の前提である選択を保証すると言う意味でね。

「バラ撒き。」、富の再分配がバラ撒きか。人が一人生きるのに最低限を保証する程度の給付と努力による自己実現を保証する程度のことは「バラ撒き。」とは違うでしょう。「貧乏人は選択の幅が狭く、努力する気があっても努力する機会がない。」では社会的不公正は是正されない。

当然、給付を遊興に使われたんじゃたまったもんじゃないので生活実態の確認は必要だなぁ。「働く意欲があるのに仕事がない。」人に対しての保証が前提だね。やる気のない奴は別の制度を構築しないとなぁ。やる気のない人もいるんだろうから、低賃金でも生活できる程度の給与はあって能力を必要としない仕事を確立しないとなぁ。
まぁ、失業率をゼロにする必要はないかぁ。でも見殺しもないだろうからね。ここはバランスが難しい。

財源?。それはさ。竹中改革で税収が上がるのでしょう。最初は借金しても何れは、それを上回る税収が期待できるって話なんじゃん。だったら、その「手が回らなかったセーフティーネット。」だって、最初からやれたんでしょう。


また、別の話をすると、竹中改革で得た富が企業や富裕層の内部に留保と言う形で内部完結したのなら、国全体として景気浮揚感がないのは当たり前さ。

「内部留保の拡大を否定すれば株主がそっぽを向く。」ってか。株主にとっては制度上、国家に保証された企業の方が魅力的なんじゃないの。例えば制度上の改革で企業として収入が増えた分を内部留保に回さず、社員の雇用拡大に回したり、社会福祉に貢献したりした企業に対しては大幅に法人税を引き下げるとかね。より大きな企業が社会福祉に貢献すれば政府として負担が少なくなる訳でしょう。

どうせ下げるなら、「雇用の拡大や社会福祉への貢献。」と言う紐付きで、更に下げ幅を大きくした方が良い。下限を低くすることで、より優良な企業を呼び込み政府の代替をさせる訳だからね。そして、より社会に貢献して法人税が低くなった企業は、政府が大々的に公表すれば良いじゃん。

「社会的責任を果たした企業。」として大々的に公表されれば大きな宣伝になる。つまり、そこには競争が生まれるのだから自然淘汰が起き、より強く、優良な企業が残る。






打倒ブルジョワジーでは駄目なんさ。ブルジュワジーの社会化が、これから求められて行くんだよ。誰でも資本家になれる可能性は積極的自由を標榜することで担保できるでしょう。生まれもった才能と努力が必要だとしても機会があるとするなら、つまり、それは、ある意味でプロレタリアートの自己解放
も否定されたものじゃないじゃん。

また、
「労働者の権利拡大。」だけでは駄目なのさ。社会に属するものの至上命題は良好な社会の運営でしょう。資本家・経営者と労働者は社会を介して繋がっている。社会を良好に運営するためには其々が適正として相互関係のバランスを見極め、自ら要求の過剰を否定して社会的責任を果たすべきなのさ。

非正規社員も一般社員も管理職も経営陣も社会の一部。企業も社会の一部さ。社会を良好に運営するには其々が利己主義を否定して利他主義を肯定する必要があるじゃん。でも、人間には欲望があって、みんな美味しいものを食べたいのは、よく解る
、だから制度が大切。




俺が言いたいことってさ。簡単で「自由主義の社会化が社会自由主義なら、社会主義の自由化は何?」ってことだよね。




政治思想・・・自由民主福祉主義

2011-01-13 01:48:07 | 日記




はぁ・・・。まぁ、それとこれとは違うよ。問題はさ。未来のことは現在までの事象から推測して語るしかないってこと、つまり思弁が優先されるってことさ。現在までの事象に当事者性を求めることはできても未来のことを語るにおいて当事者性を求めるのは難しいよね。まぁ、言っておきますけど、俺は物事を超単純化して叱られることが多いんですよ。まぁ、そう言うことです。



自由民主主義+福祉主義と言った柔軟な体制を採用する日本において「〇〇主義。」と言う思想上の立場で対立することなんて「学説の優位性を思い知らせたい。」以上の意味はないと思うんだよなぁ。思想的対立が議論の前提なることで無用な争いを作り出しているように感じる。

日本が柔軟な体制を採用する以上、《自由主義》や《共同体主義》、まぁ、《社会主義》だって、そうだよね。其々の立場での修正が可能だってことでしょう。つまり内的改革者となれば良いだけの話さ。



例えばアメリカでは「オバマは社会主義。」とか政権批判が巻き起こる。でも実質的にオバマ大統領がやろうとしているのは【社会主義】ではなく、『積極的自由』の範疇に過ぎないと俺は思うんだけどね。まぁ、つまるところ、どう見てもオバマ大統領はニューリベラル・社会自由主義から脱しない。批判者はネガティブキャンペーン・批判のための批判を展開しているんでしょうね。

自由主義内では『消極的自由』「国家の不干渉・国民の厳密な国家からの自由が至上。」とする派と『積極的自由』「消極的自由を至上とすることで起こり得る社会的不公正を国家の干渉により是正することで、構成員の自己意志実現を、より普遍に近い形で保証するべき。」とする派に別れているけどさ。

如何に古典的自由主義でも自力救済は否定しているでしょう。自己防衛と自力救済は違うからね。古典的自由主義でも基本的に国家の干渉を完全に否定している訳ではないのさ。つまり自由主義における内的議論とは実質的に政府の国民に対する干渉のバランスがテーゼな訳さ。

《積極的自由》を突き詰めれば「やる気があるなら、自己の意志実現を否定してはならない。」なんてなるのかもしれないけど、これじゃぁ、原理主義的。限度がある訳で、どこに基準を設けるかだよね。少なくとも努力を前提とする人の自己の意志実現を法律として制度的に保証するくらいは良いじゃない。

じゃぁ、努力を前提にだよ。例えば「金がなければ選択肢が狭まる。」なんてことでは「社会的に万民の自由を保証している。」とは言えない。金がなくとも努力によって生理的欲求は言うまでもないけど所属や承認や自己実現を達成できる程度の社会でなければ万民に自由が保証されているとは言えないよね。これ日本人的感覚でしょう。



まぁ、『消極的自由』と『積極的自由』は其々自由観の違いによって「国家の国民への干渉。」と言う外的原理の是非を説いているのだろうけど、『共同体主義』は国民の内的原理による社会の良好な運営について説いているんでしょうね。自由選択ではなく、より拘束力の強い義務としての側面。社会問題が、そこに存在するから提起される訳だ。

例えば『自由主義』を標榜するとしてだよ。人間が良好に暮らすには何が必要かってことだ。高度に近代化して選択肢の多伎が実現したとしても社会から個人を切り離すことでは良好な暮らしをもたらさないんじゃない。

社会とは人の集まりである以上、主体と客体が存在している。その中でだよ。個人的選択を至上価値として主体が客体の権利を否定することまでも是とし始めたらどうなる訳。つまり客体が主体の権利を保障しなくなると言うことさ。自らの権利のみを極端に優先させれば生きているだけで何かとトラブルが起きるはずだよね。そんな社会で良好に暮らせる訳ない。

『自由主義』は《利己主義・自我主義》を否定して客体に対する尊重がすなわち主体への尊重とならないかぎり良好には機能しないよね。個人の選択・意志実現が至上価値とされるあまりに社会を構成する個々が、客体への尊重を否定して利己に走ることまでもが是となれば、構成員個々の内的原理として強者が弱者の権利を侵害することへ歯止めが無くなり過度な社会的不公正に行き着くじゃない。

《自由主義》に立脚するのでも、社会に属すると言う前提において営みに良好さを求めるなら、その構成員の選択は自ずと限定的にならざるを得ないでしょう。全く人と接触がない山の中にでも引っ越して物理的に社会に属さなければ話は違うんだろうけどね。そんな極端な話は意味がない。

公正を不公正足らしめるのは他者の権利を侵害して尚、自らの権利を優先し得る社会的強者ですよね。不公正な社会の中では、強者が感じる自らの良好さは、弱者の権利が制限されることで成り立っているなんてことにもなりかねない。

「それで良いのか。」と問われれば「良い。」と答えるのは盲目的強者だけでしょう。盲目的強者が利己主義を是とした時にどうなるかくらい誰にでも解る。だから、その他大勢は抑止し得る内的判断基準を社会に確立しなければならない訳さ。



まぁ、最近何かと話題の共同体主義。でもさ。自由主義に問題があるように共同体主義にも問題があるじゃん。その問題点とは、其々の根源的意味合いにおいて原理主義的に振舞えば自由主義なら個人的利己主義になり、共同体主義なら集団的利己主義になるってことでしょう。問題があるとして、それを阻むためには何が必要か。

「自由主義は利己主義・自我主義を肯定したものではない。」「共同体主義は全体主義とは違う。」と主張されても、実際、社会に当て嵌まった時に人は欲望を前提に行き過ぎた解釈をする場合があるよね。更に、自らに有利な解釈を社会に当て嵌めて尚、自らの権利を確保できる存在とは、これも社会的強者に属するものでしょう。

問題を解決するベクトルは『自由主義』も『共同体主義』も同じですよね。《個人的正当性》、また《集団的正当性》における至上価値を個人的選択や集団的義務のような内部完結するものに求めては駄目なんだ。

「内部完結するものでは個々の欲望に忠実な判断をしがちになる。」これって人間である以上は仕方ない側面がありますよ。従って判断基準には外的影響が必要な訳じゃないですか。

「じゃぁ、外的影響って何よ。」てことになるとけど、それって、より普遍妥当性に近い正当性に価値を求めることじゃないの。そうであるなら「問題を解決する鍵は、より普遍妥当性に近い正当性を見出し、それを判断基準として社会に当て嵌める作業。」だってことになりませんか。


あれでしょう。《社会主義》を標榜するにしても、全く修正なく共産主義を当て嵌めることはできないと思っているんでしょう。つまり資本主義・自由競争を否定することができないんですよね。

超単純化してだけどさ。資本主義を前提にするとしても、経営者足る資質がなければ経営者にはなれない。労働者の中で経営的資質があるものは自ずと経営者になる。つまり純然たる労働者は経営的資質がないと言うことじゃないですか。そうである以上、純然たる労働者が生産手段の集団的経営者になっても経営として上手くは行かないですよね。

社会主義とは純然たる労働者に公正をもたらそうと言うのでしょう。革命とは、根本変更のことですよ。労働者における革命とは労働者が集団的に生産手段を経営をするのではなくて、社会と労働者、また社会と経営者の関わりにおいて新たな方向性を見出すことなんじゃないですか。

現在、労働者と経営者は主に企業を介した関係性でしょう。自由競争を前提にして企業的関係性が優先されるが故に問題が起きる訳ですよね。ここに公正を旨に社会的責任を挟んだらどうですか。

実際、労働者と経営者、他方が欠けても生産は成り立たない。つまり相互依存性がある。問題はバランスで、概念的には「労働者と経営者、互いは社会を介して生産手段を共有していて、その前提において共に社会的責任を果たすからこそ社会は良好に運営される。」ってことになっているでしょう。

生産と言うファクターにおいて社会の良好な運営を見るなら、労働者から見ると個々が企業に対して社会的責任を果たすこと、また、経営的立場で社会を良好に機能させるには企業が社会に対して社会的責任を果たすことですよね。後は互いの社会的責任とは何かを明らかにすれば言いだけの話じゃないですか。んで見出される答えとは結局、より普遍妥当性に近い正当性になる訳でしょう。



新たな安全保証体制・・・自衛論

2011-01-09 01:14:06 | 日記




いや。日本が採用している【専守防衛】と、その他、多くの国が採用している一般的な【戦略守勢】は根本的に攻撃を受けた後の姿勢が違うんじゃないですか。現時点では同じじゃありませんよ。

まぁ、確かに国連憲章の尊法義務を問うなら、「例外的に。」と言うことになるのでしょうかね。国際慣習法上、武力攻撃予測事態に関して自衛権行使の要件、【急迫不正の侵害がある。】【他に侵害を排除して国を防衛する手段がない。】【必要な限度に留める。】を満たす場合は「先制攻撃は自衛権行使として違法性が阻却される。」と言う説を採用している国は多いでしょう。

でもね。それは厳密に要件を満たすことで違法性阻却事由が成立するのであって基本として現在の国際法や国連憲章では自衛とは言えない先制攻撃を違法としている。つまり国際社会において一般的には「相手から武力攻撃を受けた時に初めて自衛権を行使できる。」と言った【戦略守勢】を採用するのは当たり前とも言えるのでしょう。しかし、「日本の専守防衛も戦略守勢か。」と問われれば、そうとは言えない。

受動的な防御に関する姿勢は双方共に同じなのですが、一般的に言う【戦略守勢】とは、敵性の先制攻撃を受けた後に、侵害を排除して国を防衛する手段が他にはなく、行為として必要性を構築するなら守勢から攻勢に転じ、敵地への進行・攻撃を含め国際武力紛争の武力的解決を否定するものではないでしょう。

対して専守防衛は「受動的に敵性の先制攻撃を武力によって拒否する。」ことは否定はしていないが、憲法9条を前提に法理的にも実質的にも『国際紛争を解決する手段としての武力行使。』を否定している訳じゃないですか。当然、能力の問題はあるが、概念として「国際紛争を武力によって解決できるか否か。」と言った点は大きく違いますよね。

「攻撃を受ければ自衛権を行使して武力により侵害を拒否し、国家を防衛せしめることはできるが、その先として如何に必要があっても敵性の地を攻撃することはできない。」と言うのが現時点での原則でしょう。

従って日本が採用する【専守防衛】と一般的に言う【戦略守勢】とは等号で結ばれるものではないですよね。つまり、『国際社会においての一般的な国における防衛戦略と日本の防衛戦略は同じではない。」』と言うことじゃないですか。日本は多くの国民が所謂、現行憲法を是とする以上、防衛戦略において対暴力的暴力を前提にした紛争の解決を他に依存せざるを得ない訳ですよね。



日本における防衛戦略には憲法9条と言うシーリングがある。従って現時点での防衛的上限を探るなら、日本として【悲観的現実主義・伝統的現実主義】のような行動は基本として否定される。結局、【楽観的現実主義・防衛的現実主義】の範疇を越えることはできないでしょう。憲法解釈変更の余地があるとしても、「何でも可能になる。」と言うものではないですからね。

当然、「そもそもにおいて技術的に可能であるか否か。」は問われると思うが、可能性の範疇としての概念を語るのなら、急迫不正の侵害があり、他に侵害を排除して国を防衛する手段がなく、必要な限度に留めると言う前提であるなら。

『日本と密接な関係にあるへ向け発射されたミサイルが日本上空を通過する場合、日本への攻撃と見なして迎撃を行う自衛権行使。』や『厳密に要件を満たした武力攻撃予測事態における先制的自衛権行使。』

『敵性の先制攻撃後、弾道ミサイルなどの第ニ波攻撃を阻むための敵基地に対する限定的な自衛権行使。』、この辺が新たな要素としては関の山でしょう。それでも、それは、あくまでも【拒否』であって「国際紛争を直接解決する。」と言ったものにはなり得ない。

日本は基本として【安全保証に関する国際協力】を楽観的に信じつつ自国の防衛は必要最低限を保持すると言ったようなことが上限になるでしょう。その中でも個別自衛の範囲は更に限定的で担保する軍備・戦力投射は原則として国際紛争を解決し得ない言う前提における厳密な必要性を越えることのない範囲と拒否力として相対的観点を重視しつつ必要最低限を保持すると言ったことになるじゃないですか。

更に対暴力的暴力と言ったファクターにおける国際紛争の解決を担保する軍備と戦力投射は国際協力を、より楽観的に信じることによって補完する他にはないと言うことになるでしょう。つまり日本の特殊な事情を鑑みれば、特出として他国家間を前提に条約的ファクターにおける安全保証体制は国益に合致すると言った側面が見出せるはずです。

多くの日本国民が現行9条を是とする以上は、憲法改正はべき論の粋を出ませんよね。つまり日本国民の多くが選択する、その中で最善を探るしかない訳でしょう。まぁ、そう言うことです。

 


政治思想・・・内的改革と外的対立

2011-01-08 01:07:03 | 日記


おもしれぇ、ネタもらっちゃた。でも、俺は低学歴だから〇〇学の解釈は、まぁ、間違っている可能性が高いだろうね。それは先に断っておきます。何となく雰囲気でお願いね。




ん・・・。個人が他の自由を侵さない限り、最大限の自由を認めるべきって、つまり『自由主義』だよね。んでさ。それを至上の価値と見なしてしまうと【行き過ぎた個人主義】なんて言う状態になる場合があるようです。つまり【利己主義・自我主義】になるってことでしょう。

【行き過ぎた個人主義】なんて、本来、良好な営みを送るために必要不可欠であるはずの社会的な関係から個人を切り離してしまう訳じゃない。自分勝手に振舞って他の自由までも侵しがちになる。法律の及ばないところは特にね。

何でかって言えば、【個人的判断】が至上の価値となれば、構成員の内的原理的によって社会全体に良好さをもたらすような善悪の判断基準までも個人の判断に委ねるべきと言った状態になりがちになるじゃない。「自分が正しいと思えば他の権利は否定して当然。」的な風潮は現代日本に少なからずあるでしょう。

本来、《個人主義》なんて自らの人格と同様に他者の人格も尊重することが前提な訳で、客体の尊重が、つまりは主体の尊重になると言ったことが社会に徹底してこそ良好に機能するものじゃないですか。

でも、多くの人間は欲望に勝てない。故に、より普遍妥当性に近い善悪の基準から外れた判断を是としがちになる。《若気の至り。》とか言って肯定したりするけど、そこに迷惑のような他の権利を侵す行為が存在しても「自分が正しいと思えば、それで良いじゃん。」みたいなことを公の善と錯覚しがちになるでしょ。そうなってしまうと社会的問題に発展する訳じゃないですか。

「昔はこんなことはなかった。」なんて言うのは、本来の意味での【個人主義】と【利己主義・自我主義】を錯誤している人が多くなったと言うことなのかもね。まぁ、生理的欲求は仕方ないにしても「欲望に勝てるのか。」なんて言うのは人類の至上命題でしょう。




話は替わるけど、ほら、例えば、日本における【社会主義者】の主張って、実質的に【社会自由主義】の範疇から出ていないよね。自由主義・民主主義の中にあるのだから当たり前と言えば当たり前だけどさ。

言っていることは、「ある程度の制限が必要だ。」としながらも基本的に資本主義の原則である『自由競争』を否定している訳ではないじゃない。また生産手段の社会的所有や管理を強く主張している訳でもない。そうである以上、主張の根本は実質的に古典的自由主義の修正でしかない訳でしょう。

主張の内容を見ると基本的に資本主義を前提としながらも、「社会的な公正が必要だ。」と言う考えが中心になっていて、そこから、例えば「貧富における格差社会の解消。」を訴えたり。

また「富の再分配によって公正をなすべき。」としたり、「偏見や差別は解消するべき。」と訴えたり、「保護する責任。」など新たな価値基準の構築に挑んだり。まぁ、そう言った趣旨について『制度的保障を重視しよう。』って立場に帰結している。

後は『亜種』に属するようなもので、例えば『法律による公的な制度的保証。』ではなく、「『企業などが自発的に社会的責任を果たす。』と言ったファクターによって、個人の社会的自由と人権を積極的に擁護する。」と言った【内的原理】を主張をする人もいる。でもこれって厳密に【社会主義】とは言えない訳でしょう。定義するならやっぱり【社会自由主義】。



実質と乖離してまでも自らの立場に拘ると言うのは結局、自らの主義主張の地位向上が目的なのかもしれないけど、でも、本来は我々の生活において、主義主張の区別なんてどうでも良い訳さ。重要なのは、それを社会に当て嵌めた時に妥当性がどの程度に認められるか。

個々の相互的な関係性において相手の自由を保障することも社会的保証の一因子であるなら、問題は立法・司法・行政も含めて社会、そのものが構成する【保証】が、如何に妥当であるかが問われる訳じゃない。

だから基本的に、例えば【自由主義・資本主義】を否定するものでないのなら、自ら【社会主義者】として対立的な立場において論じるのではなく、『自由主義・資本主義』における内的改革者として位置付けるのでも、その作業において実質的な壁を作るものではないでしょう。

まぁ、内的改革者とすることの利点を問うならさ。如何なる思想・体制においても少なからず問題はありますよね。その問題に対して内的改革者として【修正】を前提とするなら、現在進行として社会に当て嵌まる体制である以上、其々独立した存在として外的対立者として挑むよりも、より多くの支持を得る可能性があるじゃない。



ん・・・まぁ。これってさ。自由主義と共同体主義との議論を見ていても思うんだ。共同体主義なんて、自由主義を根本的に否定しているのではないでしょう。そうである以上、共同体主義とは自由主義における問題点に対する提起であって、つまりは内的改革者だと思うんだよ。

其々独立した存在として対立的構造で論じられるから、賛否に別れる形になる。つまり【言い負かす。】と言ったような雰囲気ができあがる訳じゃない。でも実際は共通する問題をテーマにして論じているのであって、そうである以上、統合を前提として論じられるべき存在だと思う訳さね。



まぁ。「国家として、どこに向かうか。」と言ったことを論じるなら、当然、主義主張を明確にして根本論を明かにする必要がある訳だから、対立的構造ができあがるのは当たり前なのかもしれないけどね。

 


新たな安全保証体制・・・日本の行末

2011-01-06 00:36:42 | 日記



はいはい。中国が・・・ん・・・。中国共産党が抱く恐怖って、全体主義からの脱却、民主化、まぁ、リベラル化、つまり一党独裁の終焉、それって既得権益の崩壊でしょう。その恐怖は論理とか当然として凌駕しますよ。ヤバくなれば先々のことなんて考える余裕なんてなくなる、目の前のことで一生懸命になる他はない。集団の維持意識って、そう言うもんでしょう。

権力集団の維持意識って最高に強いからね。盲目になりがちですよ。ほら〇〇党とか、「集団に属している。」とか、「集団に以前、属していた。」人なら身に染みて解るでしょう。特に集団から抜けた人なら、強く意識するんじゃないですか自浄の難しさをね。

んで基本的に中国国民は選択的に自由でありたいと望んでいるんじゃないですか。人間なんだからね。それを抑え込んでいるのって何よ。

生活が豊かになれば権利意識を持つのが人の常。物理的強制力は中国警察と人民解放軍と言う名の中国共産党軍でしょ。そして愛国教育と揶揄される教育。情報統制も、そうだね。まぁ、それだけならストレスが溜まる。ストレスと発散させる方法が必要な訳さ。

ほら、国民が素直なら素直なほど帰属意識が強い。帰属意識が強ければ全体至上主義的な思想を持ちがちになる。国家は、それを利用すれば良い。簡単な話、国内に通じる正義、まぁ、大義と言った方が良いかな、それを作り上げれば良い訳だよね。んで、それは何か。

多分、中国は敵性や目下を意図的に作り、それに勝って権力を得ること、つまり『覇権』だよね。経済や軍事的な成功体験を国民に披露することで愛国心を捕らえ求心力を保ってるんでしょう。更に、その愛国心は国民間で異論を自ら潰すような構造に発展しているんじゃない。

だから愛国心から過剰な反応を示した際に免罪符的にコントロールが効かなくなる。それって今はどうあれ日本だって、他の多くの国だってやって来たことでしょう。『強い〇〇国』ってフレーズ、民衆迎合的に使われるよね。それを徹底的にやれば、つまり絶対に負けられない国家ができあがる訳さ。

んで必要なのは経済的成功体験と武力的強制力による成功体験。より強い力を持っていると見せ付け国民の意識を政府に留めることでしょう。だから崩壊する時は早い。強さをアピールしなければ保てない求心力なら弱さを隠さざるを得なくなる。ギリギリまで弱さを隠し続ければ内側でテンションが高まる。んで蟻の一穴でダムは崩壊する。膨張しきった風船に針を指すが如くにはじけとぶ。

現時点で中国は負けられないないんじゃない。だから譲歩はできないし、武力的強制力の後退は望まない。対等な地域的安全保証体制に参加すると言うのは、つまり敵や目下がいなくなるってことですよ。それでは新たな求心力を作ることができなくなる。

ナトナ諸島で中国は大砲を突き付け自らの要求を飲ませた訳じゃないですか。中国にとっては現時点で、それが普通なのでしょう。対等な安全保証体制を築くと言うのは、中国にとっての普通ができなくなると言うことですよ。つまり実質的には領土問題での譲歩を意味する。

例えば、尖閣諸島とかでの違法操業漁船の逮捕・拿捕は、日本側から見て正当な行為でしょう。でも中国から見れば不当な行為になる。だからあらゆる手段を講じで最大限の抵抗を行う訳だけど、それが地域的安全保証の枠組みによって封じられれば、後に平和的手段で抗議などできたとしても、実質的に日本が行う逮捕・拿捕を容認した形になる訳だ。それは負けと同じ、従って求心力の低下を意味している。

求心力の低下は、中国共産党維持のために国民に仕掛けた一つのファクターが崩れると言うことでしょう。中国共産党の崩壊に繋がる恐れがあると言うことですよね。従って他方のファクター国民に向ける銃の数を増やさざるを得なくなるってことでしょう。銃の数を増やせば政府への不信感に繋がる。負のスパイラルに発展する訳さ。こんなことは誰だって解ることですよね。だから、そんな選択をするとは思えない。




さて、昨年度のペンタゴン報告に対して見解が出ているようですが、何れも中国の軍事力は日本の脅威になり得ると言ったものばかりですね。そう言った報告から見て、「中国の軍事力が地域の均衡を崩すものではない。」などと言うのはやはり、無責任なんでしょう。

特出されているのは開発中の東風21D対艦弾道ミサイルのようです。このミサイルは空母に対する大きな打撃力を持っていると言うことで、つまり、ジョージ・ワシントン打撃群のようなものの武力的強制力を削ぐものになると言うことでしょう。

更に中国の兵力の投射能力の増加と軍備・戦術として米軍関与への拒否力の増加。地域封鎖戦略の構築と、それを担保する部隊の構築。まぁ、アジアへ対する米軍の接近を阻止すると言うことでしょうね。つまり、米軍の拒否力を無効化したい。普通に考えれば当然の戦略です。

自らが領有を主張する地域を米軍が接近する前に占領して実行支配をなす。実行支配後の米軍の接近に対しては自衛権を発動して「あらゆる手段を講じる。」と言う体を採れるのだから、『全面戦争の恐怖・核戦争の恐怖』と言う抑止力を有効に使うことが出きるようになる。だからこそ、米側は【即応】を前提とした戦力投射を担保することが必要と言うことに帰結する。

中国は核弾頭を含めた大陸間弾道ミサイルや巡航ミサイルを保有している。更に潜水艦や軍艦に海上弾道ミサイルや巡航ミサイルを配備していると指摘されている。つまり米国が担保する報復力は武力的強制力として抑止力を越えないと言うことです。下手すると手が出せない状態になって、地域的な限定武力紛争が可能になる。

更に中国は最新兵器の研究開発を続け、新たな戦略の構築と兵力の訓練も行っているってことでしょう。逆に地域的に相当な武力的強制力を身に付けて行くことになりますよね。まぁ、こんなの一部の見解だろうから、楽観視するって人もいるでしょうけどさ。もし、これが真実だとするなら、「中国の軍拡って何のために。」の答えは自ずと「武力で地域を平伏させるため。」としか答えようがないでしょう。




対等な地域的安全保証体制に参加するのでは中国が目指す抑止力を越える武力的強制力の後退を意味している。中国が武力的強制力を捨て対等な関係を望むと言うなら、べつに構いませんけど、その武力的強制力で小国に一方的な譲歩を強要するのでは困る訳ですよ。

地域的安全保証体制をどうしても築きたいのなら、中国が自ら「対等な関係で構いませんから参加させてください。」と言ってくる体制を作るのが大前提ですね。日本を含めた小国が一方的に譲歩するのでは意味がない。

不公正な地域的安全保証体制を構築するくらいなら、アメリカとの連携を強め中国隔離の方向で地域的な結束を強めた方がよほど良い。それが長く続けば中国も緊張緩和の方向性を望むことになるでしょうからね。

まずは、ASEAN+日本+インド+オーストラリア+韓国、この辺を当事国として平時の兵器の共同開発や供与、合同演習など軍事協力と有事における総合共助条約の締結からでしょう。日本が参加する以上は物資的共助条約ってことでしょうね。弱いね。大きな魅力もない。とほほ・・・。

んで、より公正で対等性の強い付帯決議として条約当事国の承認を持って欧米諸国の締結と中国が入る余地を残すと言う方向性が一番望ましいでしょう。安保理常任理事国が持つ拒否権の失敗を繰り返す訳には行かないからさ。


あのさ。究極の選択。「安全保証を確実化するために、どちらかに譲歩しなければならないとするなら、アメリカと中国、どっちに対して行う。」俺は迷わずアメリカだね。アメリカ国内では【平和こそ愛国運動】とかやってるでしょう。つまり自浄作用もある。確かに、どっちも問題はあるだろうけど比較すればアメリカの方がましさ。

アメリカなら、最終的にはアメリカ国民に対する親近感が問われるのでしょう、民主制だからね。人は共感する。つまり日本国民のアメリカ国民に対するアプローチしだいで米国自体が良好な形で変化する可能性を秘めている訳さ。

でも、中国なら最終的には中国共産党に対する親近感が問われるんじゃない。日本国民の思いなんて党是によって否定される訳でしょう。中国共産党に対して親近感なんて一切抱かないね。




なんかね。民主主義でもない中国に経済的ファクターで押し切ろうなんて言うのはベクトルが違うと思う。

中国政府ってさ。抱く最大目標は中国共産党の維持でしょう。経済が駄目になっても、中国国民が飢えても、国家そのものが崩壊する日まで、後生大事に核兵器を抱き締め、強い人民解放軍を維持せざるを得ないと言うことになると思いますよ。

権力の根本は、物理的強制力と、それが与える恐怖感でしょう。対外的にも、対内的にも、人民解放軍が中国共産党と言う権力集団を維持する要なんだから、例え論理を越えたとしても、軍隊・軍部の膨張を軽視する選択はできない。縮小を選択すれば権力の掌握が危ぶまれる。厳密ではなくても軍事政権紛いとは、そう言うものですよ。もし、そうなら、踏まえて交渉の手段を考えないとね。

最大の恐怖が中国共産党の崩壊だってことなら経済なんてファクターがもたらす恐怖なんて簡単に凌駕するでしょうよ。



参考にさせていただきました

【産経ニュース】
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100929/amr1009292134010-n1.htm

【読売ニュース】
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110104-OYT1T00865.htm


新たな安全保証体制・・・国連

2011-01-05 01:38:30 | 日記



つまり、必要なのは正義ではなく公正なのさ。んで、今の国連には公正さが欠けていると思いませんか。常任理事国に権利が大きく偏っているでしょう。

だから改革が必要だと言うことになる訳だけど、その改革とは国連を機能させることだよね。つまり、国際法に公正を前提とした強制力を付加することだよ。んで、これに反対するのが大方、米中露。

ほら、カンパラ再検討会合で【侵略犯罪の定義】が決議され「日本もアメリカも侵略国だー!!、ワッショイ、ワッショイ!!」って所謂、左翼と自称する人達が浮かれていたけど、その実は運用に関してICCの問題点が浮き彫りになっただけな訳でさ。

んで、その「ワッショイ、ワッショイ!!」って浮かれていた自称左翼の人達が、単なる批判意外に何か具体多的な方策を示したかと言うと、そうではなくて、日本では、中道左翼と思われる人達の一部が問題意識を持っているに過ぎない訳さ。

国連における問題を解決する策なんて古くから言われているけど、そうね。一番手っ取り早いのは公正を国連憲章に求め意義に合致する別組織を構築することでしょうね。で、それって公正とは言えない不当行動を如何なる国に対してでも明確に否定できる組織ではければならない訳でしょう。つまり常任理事国、まぁ、特に米中露の利益に反する可能性が出てくる訳さ。

んで、法律は先にあるのだから必要なのは強制力。国連の強制力って今まで、加盟国の武力に頼ってきたでしょう。それを代替するものでなければならない。そうね。総会決議権限か、緊急時の発令は事務総長権限に帰属する組織であるべきってことになるでしょうから、最初から安保理の承認とは別に有志連合的な要素の元に自発的に行動する組織体が必要なのでしょう。

できるか否かと言う話になるとできるでしょうね。常任理事国の権限の偏りを快く思ってはいない国って多いでしょうから、後は、それを纏める国があれば良い訳で、時間はかかっても不可能だとは言えないはず。

戦争の違法化と、その違法化を担保する強制力が国連に備われば、その牽制により覇権主義などと言う方策を選択する国は減ると思いませんか。だって、そうでしょう。「先制攻撃なんてできない。」と言う状態が確実化すれば確実化するほど、武力的強制力の意味合いは薄れて行くのだからね。抑止力を越える武力的強制力は否定され威嚇とかできなくなる訳さ。

更に言えば『常設国際司法裁判所』『常設国際刑事裁判所』『常設国際仲裁裁判所』にテロリストなんて言われる人達も含めて誰でも訴えられる環境を作り、更に強制管轄権を付加して「紛争の非暴力的解決。」を常態化させることが出きれば、武力紛争は劇的に減りますよ。

より公正な武力的強制力って、つまり警察力でしょう。それと裁判機関の充実って、覇権を望まない日本にとって国益になりますよね。そのために何が必要かを考えるべきはどちらかと言うと寛容派なんじゃないですか。


新年

2011-01-02 21:44:15 | 日記


あぁ。そりゃそうさ。普遍的な正義なんてない。そして何が正解なんて誰にも解らない。解らない。だから、みんな自分の正義を語るんさ。それしかないしね。

其々が其々の正義を語り、それを聞いたものが共感する。その共感の輪が広がれば、それは、ある社会で共通の正義になる。でも、その正義が必ずしも人に利を与えるとは限らない、時には人から利を奪うことだってある。

まぁ、別の正義も存在するし、それが実は正解だってことだってあるだろう。だから其々の正義を語ることが重要なのさ。其々が語ることで幾多の正義の存在を知ることができる。