tontonjyoのブログ

yahooから引っ越して来ました。思ったことを適当に書いています

反論されれれ

2010-04-29 06:02:08 | 日記

反論されれば、当然、反反論したくなるものだけど・・・。

ただ・・・。

反反論が可能な部類とそうでないものがあるのも確かなのです。

相手は反論可能な部類だと思うから反論してくるのだろうけど、そうね・・・確かに「ごもっとも」な意見の場合もある。

そんな時は、反反論ができないはずなのだけど・・・そうですね、心情的部分でしょうね。ムキになって何や訳の解らない理屈をこねて、言い負かそうとしてしまったりするんだ・・・。

絶対と言えるだけの根拠がない以上、断定的な物言いはできない。根拠もないのに断定的に言い放つのは、まぁ、愚かと言われても仕方ないんだろね。

まさに、これは泥沼に足を突っ込む行為。



気持ちが収まらないのは解るんだけど、何か他の道を探す方が、妥当だなと思える場合も多いんだわ。

さて、どうする。いやさ。道は他にもあったりして、そう例えば、未来の可能性は否定できないなんて言うことを下地にロジックを展開すれば、案外上手く伝わる場合もあるんだよなぁ・・・。

また、我慢が前提の話もよく見かけるけど、これは人の心に訴えるべきものだからね。何やよく解らないロジックでは、逆効果になる場合もしばしばみたいよ・・・。あえて議論せずに、考える材料を提示するという体で臨むのも一つの道だと思う。




まぁ、考え方なんて人其々だから、単に思いの丈をぶつけて良いんだろうとは思うけどね・・・。それでも泥沼のやりとりなんて、何も良いことはないんだわ。見るものの不信感を煽るだけなんだよね。


 


平和ね・・・

2010-04-07 15:10:46 | 日記

正義には「他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること」何て意味もあるんだそうです。

まぁ、言葉の印象からすると、ずいぶん寛容とも採れる意味もあるのだと思うんだけど、大抵の人は『正しい道義』『人が従うべき正しい道理』なんて意味で使うんじゃないでしょうか。

正しい道義?、正しい道理?、これって普遍的価値になり得るものなのかなぁ・・・。
結局、宗教やら、文化やら、民情やら、環境やら、何やら、そう言ったもので変わってくるものでしょう?
もし、何れかの思想に基づく道義なり道理が、普遍的価値となるなら争いなんて起きませんよね。

相手には相手の正義がある。これは基本的事項だろなぁ。

要は、自らが見出す価値を守ることを正義って言うんでしょう。正義とは得てして主観的なんじゃないですか。

平和のために自らの犠牲も厭わないなんて平気で言うのは、要は日本人的価値観でしょう。

まぁ、平和は良いにしても、「自らの犠牲でしか成り立たない平和を人類の全てが望むものでしょうかね。」って話も出て来るんじゃないですか。結局、戦争が絶えないのだから、【それはない】と断言できるんじゃない。

人の感じるものに普遍的価値なんてものはない、それを基本にどうするべきかを人類は問われているんでしょう。

つまり、多様な価値観を平和的に共存させるべきってことになる。引いては強力な第三者仲裁機関の必要性に行きつくんでしょうね。

 


正義と正義のぶつかり合い

2010-04-06 14:04:49 | 日記

更新が途絶え、好きだった政治関連のブログの火が消えそう・・・。それも、幾度となく繰り返される、コメンター同士の記事違いの議論が原因で・・・。

俺は大方ロム専門だけど・・・それでも、そのブログの記事のフンワリ感が好きだったりするんだけどね・・・。



争いはたいてい、主観的正義と主観的正義のぶつかり合いでしょう?

頑迷に正義を振りかざす奴が一番怖い、そう言う奴が過激な行動にでる場合が多いと思うよ。そして、それは多くが認識していることであるはず。

相手を傷付けてまで得なければならない価値。そう行った価値基準も当然あるんだろうけど・・・。それでも元々が正義と正義のぶつかり合いなら、どこかに互譲の糸口もあると思えるんだけどね・・・。



自分の正義を振りかざすことが、味方さえ追い詰めることになる。それは例え誰かを庇うためと言う大儀に基づいているとしても、庇う対象を追い詰め萎縮させる結果に至る・・・。

頑迷な正義感が混乱を助長している・・・それに気付けないからいつまでも頑迷でいられる。

まったく皮肉なもんです。