日本共産党千代田地区副委員長 冨田なおき

衆院東京1区で3度出馬。17年総選挙は政策協定結び比例で立候補。22年参院選に比例代表から立候補を決意しました。

やっぱりあった核密約

2009-06-02 23:35:24 | 平和
2000年に不破哲三委員長(当時)が、米解禁文書をもとに国会で追及した核密約は、やはりあったことが確実となりました。

共同通信の報道によると、4人の歴代外務次官が認めています。官僚側の判断で、一部の首相・外相にだけ伝えていたそうで、日米安保関係の根幹にかかわることを政府首脳がまともに知らされなかったことは、民主主義の根幹にかかわる問題です。

外務次官経験者を国会に呼んで、真相を明らかにすることが必要です。


このブログを気に入っていただけましたら、こちらをクリックお願いします。

こちらにもクリックお願いします。
ブログランキング・にほんブログ村へ

こちらにもクリックお願いします。




日本共産党関連サイト更新情報 Feed-JCP


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮の核実験に抗議!元・都立高先生たちの話を聞いて

2009-05-25 23:22:35 | 平和


笠井亮衆議院議員(比例東京ブロック選出)、や職場後援会の方々と訴えた、新宿西口での街頭宣伝の様子です。近藤なつ子区議が司会をつとめました。若者など歩行者、運転中の方々からも声援が多く、大変励まされます。どうもありがとうございます!

被爆二世であり、学生時代から国際舞台で核廃絶を訴えてきた笠井さんも「感慨を持って受けとめた」というアメリカの変化など、世界で核兵器廃絶に向けた新たな流れが巻きおこっているさなか、北朝鮮が核実験を行いました。まさに被爆者の思い、世界の核廃絶に向けた努力への挑戦というほかありません。広島で、東京で、被爆者の方々の命がけの訴えをきき、「一緒に頑張りましょう」と誓ってきた私には、断じて許すことはできず、満身の抗議を表明したいと思います。

志位委員長の記者会見、記者との一問一答はこちらから動画をどうぞ。


週末、近藤区議地域の日本共産党対話演説会に参加、大山とも子都議とともに、私自身が友人の相談を受けたりしたなかで必要を実感している、国政の転換についてお話しました。

「経済的な理由で退学」が都立高校でも急増、この3月には、2年生があと1年で卒業なのに、そして本人も通い続ける意思があるのに、退学処分になった生徒がいるとの大山さんの話に、会場には怒りの声が。このケースでは、保護者は不安定な収入ながらも、一定の間隔を置きながらも授業料を払い続け、滞納額は5万円程度だったそうです!

参加したみなさんからたくさんの声が出されました。
この春まで都立高校の教師だった方は、授業料未納の生徒は卒業判定会議の対象に始めから外されているという実態を話して下さいました。この先生は生徒を退学処分から救うために「払う意思があるといっているじゃないか」と事務とやりとりしたり、親が払えなくても本人のバイト収入を納入にあてるよう話すなど、あの手この手で卒業させるための努力をはらってきたそうです。

担任など、その生徒を最後のところで守れる関係者の多くが、教育者としての誇りを持って、その生徒の将来のためにできうることをしておられることが伝わってきました。
同時に、授業料を払い、通学する意思のある自分の生徒を、5万円の滞納で退学処分にできてしまう教師がいるのだという事実。

職員会議での挙手を禁止したり、日の丸・君が代での強硬な処分、七生養護学校の独自の性教育の努力に乱暴な介入を加え、校長を一般教員に降格したり(東京高裁でも都は敗訴しています)と、現場の教職員の誇りと自主性、気概を奪いつづけている東京の教育行政のゆがみが、最悪の形で噴出していると感じるのは私だけでしょうか。

このブログを気に入っていただけましたら、こちらをクリックお願いします。

こちらにもクリックお願いします。
ブログランキング・にほんブログ村へ

こちらにもクリックお願いします。




日本共産党関連サイト更新情報 Feed-JCP

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島に向け平和行進がスタート!

2009-05-08 23:56:16 | 平和
今日から神田祭が本格的に始まりました!私も町会の神輿の御霊入れから参加、町内のみなさんと一緒に神輿を担ぎました。お祭りについては、明日以降も書きます。


51回目の原水爆禁止国民平和大行進が6日スタートしました。東京の夢の島と北海道の礼文島から2コースが出発。東京から広島を目指すコースが7日朝、港区役所前を出発!武井雅昭港区長からメッセージとペナントを頂きました。下の写真です。



通し行進者の方々、各団体のみなさん、おおつか未来さん港区議団とともに私も歩きました。

途中から雨が強くなりましたが、ドライバー、沿道の方々からの激励と注目が予想以上に多く、バスから窓を次々に開けて手を振る人たちもいてびっくり!

世界と被爆国・日本の長年の運動の積み重ねが、オバマ氏の核廃絶の演説にもつながりました。新たな時代の平和行進。成功させたいです。


このブログを気に入っていただけましたら、こちらをクリックお願いします。

こちらにもクリックお願いします。
ブログランキング・にほんブログ村へ

こちらにもクリックお願いします。




日本共産党関連サイト更新情報 Feed-JCP



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

港区にもたらした変化:4・17麻布米軍ヘリ基地撤去集会に参加しました(その3)

2009-04-19 23:54:28 | 平和
港区は昨年11月に基地周辺の33の町会・自治会アンケート調査を実施したそうです。

区長と区議会議長も、7月に続き11月に東京都を訪れ、「へリポート基地の早期撤去」「臨時へリポート用地の原状回復・返還」を求め、都の尽力を要請しています。

実行委員会によると、アンケート内容は「うるさいと感じたことはありますか」など9項目で、4月中には集計結果が明らかになる予定です。

40年も前から基地撤去を言い続けながらも、一方では被害実態を把握してこなかった港区が、その第一歩を踏み出したことは注目です。



デモ終了後、松平さん、おおつかさんと記念写真。
交流会では、要請に参加した方々から各省庁との生々しいやり取りを聞き、

松平さんの著書にも載っていない、現役時代の貴重なお話を伺うこともでき、

参加されたHさんが、隣のテーブルカナダ人一行と基地反対で意気投合するなど、実に楽し、く充実した語らいでした。


このブログを気に入っていただけましたら、こちらをクリックお願いします。

こちらにもクリックお願いします。
ブログランキング・にほんブログ村へ

こちらにもクリックお願いします。




日本共産党関連サイト更新情報 Feed-JCP



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルーブル展が灰になってもかまわない!? 4・17麻布米軍ヘリ基地撤去集会に参加しました(その2)

2009-04-18 20:31:19 | 平和


この集会は、都心の真ん中、港区六本木7丁目にある「麻布米軍ヘリ基地」を撤去して区民に開放させることをかかげて、1967年以来取り組まれてきました。

この土地は、1945年以来、米軍に奪われ、近隣の方々は墜落の危険や(近年も沖縄国際大学に墜落したことは記憶に新しいですね!)、離発着時の騒音に悩まされてきました。

1983年には、「環状3号線道路工事中の一時的使用」として、青山公園の一部をつぶし、「臨時へリポート」に拡張。

1993年3月にの道路工事が終わりましたが、米軍は「工事が終わったら返す」と約束した「協定」を無視、不法に占拠してから、今年で16年になります(実行委員会ニュースおよび集会決議による)。

一方、おととし、日米合同委員会で「国立美術館寄りの一部土地を返還する」との代替地返還の合意がされ、
これをもって、東京都は「問題の解決をはかる」として、事実上、「臨時へリポート」を返せとの要求を取り下げてしまいました。それから2年、いまだその「代替地」すら返還されていないのです。

これは都政の問題でもあり、日米安保条約にがんじがらめという、国政の大問題もあります。

昨年の集会の記事は、参考までにこちらからご覧いただけます。

この日の集会では、都庁、防衛省、外務省、文化庁、アメリカ大使館への要請行動の中身が報告されました。

いま、問題の土地と目と鼻の先、国立新美術館ではルーブル美術館展が行われています。

外務省に対して、この美術館にもし墜落して貴重な美術品が燃えたら、世界中から非難され、外交問題になりかねないが仕方ないのかと問うと、北米局日米安全保障条約条約課日米地位協定室・主席事務官は、「そういうことです」と、驚くべき返答だったそうです!「そんなにも米軍基地は無条件で大事なのか。。。これでは国民の生命、尊厳は守れない」と痛切に感じました。

防衛省は、「代替地」をいつ返すのかも、工事計画も、米軍との協議状況についても、何一つ明確な回答をせず、「担当者でないので分からない」との説明に終始。

東京都知事本局基地対策室の参事らは、「代替地」がいっこうに返還されないことについて、「早く戻るよう都としても国に要請している」と述べましたが、「三者協定」のときのような文書要請ではないことが分かりました。ヘリの飛行航路特定など、都としての被害実態把握は「検討する」との回答。

一方、地元の港区の変化を作り出していることも明らかになりました!(続く)

このブログを気に入っていただけましたら、こちらをクリックお願いします。

こちらにもクリックお願いします。
ブログランキング・にほんブログ村へ

こちらにもクリックお願いします。




日本共産党関連サイト更新情報 Feed-JCP



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4・17麻布米軍ヘリ基地撤去集会に参加しました

2009-04-17 23:59:35 | 平和
けさは新宿区の田中のりひで区議と落合駅前で宣伝。立ち止まってくれた若い女性から握手を求められました!

日中は沢田あゆみ区議と、戸塚東支部のメンバーと一緒に西早稲田を訪問。ある業界の役員の方とも話になりました。


夜は、港区の麻布米軍ヘリ基地撤去集会に、笠井亮衆議院議員おおつか未来さん共産党港区議団とともに参加しました。

写真は、毎年この集会に駆けつけてくれている労働者トランペッター(退職なさいましたが)の松平晃さんの演奏です。(続く)

このブログを気に入っていただけましたら、こちらをクリックお願いします。

こちらにもクリックお願いします。
ブログランキング・にほんブログ村へ

こちらにもクリックお願いします。




日本共産党関連サイト更新情報 Feed-JCP



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の窮状に9条! Peace Night 9に参加しました

2008-12-13 20:49:10 | 平和
 

昨日12日、早稲田大学大隈講堂で開かれた、第2回「Peace Night 9(ピースナイトナイン)」に、かえるネット新宿のみなさんと一緒に参加しました。

高校生や大学生の「9条とわたし」に続いて「早稲田からのPeaceメッセージ」ということで、学生が自分の言葉で「あなたにとって、平和とは?」の問いへの答えを画用紙に書いたものが画面に映し出されました。

「小さなことにくよくよできること」「日常である」「大事な人を愛せること」「空が青く見えること」(ちゃんとメモしてないので、不正確ですが)などなど、一人一人の普通の意見、感覚に共感できました。早稲田9条の会「Article 9」の発想に「これはいいなー」と内心感嘆していました。


「Prayer9」のダンスも!

「世界の窮状から」と題したコーナーでは、イラクの青年のビデオメッセージと、朝日新聞の元中東アフリカ総局特派員の吉岡一さんのイラク報告がありました。
「こんなにたくさんの若い人が」9条をテーマに集まったことに、「かなり感激してます」と冒頭におっしゃったのが印象的でした。

イラクで取材したのは7ヶ月だったが、PTSDに悩まされておられるとのこと。今も現地に住んでいるビデオの青年は、「結婚はしたくない。こんな絶望的な状況で子どもはつくれない」と語っていたそうです。

日本がこの戦争に加担するいわれはまったくなかったと、吉岡さんは断言しました。大量破壊兵器はうそだった(こちらは今では誰でも知ってますが)し、「石油のための戦争」もうそ!イラクの石油省を米軍が占領した映像が流れたが、その後米軍は撤退し、原理主義集団が占拠したそうです。クルド地域の油田に行ったら、アメリカ企業は来ていなかったそうです。「石油のためしょうがない」と日本の協力を取り付けるための世論誘導だったのではと、吉岡さんはみているそうです。

また、中東の人々は日本のアニメを見て育ち、9条を持つ日本を尊敬していたのに、派兵したことで、サマワ以外の中東の人々は本当に衝撃を受けたと話してくださいました。

学生と、井上ひさしさんのトークは、小森陽一さん(東大教授、9条の会事務局長)をコーディネーターに進められ、井上さんのストリップ劇場勤務時代のこと、現在宮本武蔵を題材にした芝居を書いている最中だが、歴代の剣の達人たちの結論は、武器を使わず勝つ、殺さず、殺されないことだという話、

学生の問いに答え、「学生でもできることはたくさんある。自分の専門をしっかり学んで、隣の人、バイト先の店長などに一人ずつ広げていこう」という話など、楽しい中に深いメッセージのこめられた話は、まさに井上ひさしの芝居に通じるものを感じました。

実行委員会からのアピールの採択のやり方ががまた、若者らしいというか、創意あふれるやり方で。

拍手で確認するのでなく、事前に司会の指示で携帯電話の「電源を入れて、マナーモードに」してあった参加者一堂が、携帯電話を舞台に向かって掲げました!写真を撮り損ねたのが残念でしたが、私もしっかり携帯を掲げました。この時、壇上の実行委員の一人が涙していたのが見えました。

学生の実行委員会の、参加者とまっすぐな思い、迷い、悩みなどいろいろな思いを共有しながら、現実を見つめ、日本と戦争とのかかわりを知り、9条の価値を選び取ることをかかげ、この企画を成功させたまっすぐさ、熱い思いに私も大変胸をうたれました。

9条を守り、活かす方法はさまざまだと思いますが、私は国政に挑戦する者として、正面から語りぬいていこうとの思いをいっそう強くしました。

かえるネット新宿のみなさんと。


東京12区の池内さおりさんと会場で会い、2ショット!

学生時代、阪神淡路大震災個人補償の取り組み以来の仲間、比例南関東ブロック、千葉4区重複の斉藤和子さん、東京6区の佐藤なおきさん、18区の小泉たみじさん、24区の長谷川あきらさんとも会場や帰り道で出会い、エールを交換しました。

蛇足ですが、会場外では、実行委員会と無関係な人たちが大挙して署名を集めるなどしていました。そのうちの一人が驚いた様子で、「冨田なおきだ!」と、呼び捨ててくれました。

新宿区あたりでのポスターや宣伝のおかげか、こういう方々にも少しは顔と名前を覚えていただいているのかと、認識を新たにした次第です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原水爆禁止世界大会・広島の報告(その5・平和記念式典と閉会総会)

2008-08-21 16:59:46 | 平和
 

広島での最終日は6日。新宿代表団のみなさんと記念写真です。佐藤佳一さんが写してくださいました。

閉会総会の前に、平和記念式典を見学に行きました。テレビで中継している式典です。
もちろん会場の外から。聞き耳を立てます。かなりの人だかりです。

広島市長の平和宣言(東京新聞HPから引用です)は、核廃絶の声が多数派であることを指摘し、日本政府が日本国憲法を遵守し、平和市長会議が発表した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府に働きかけるなど、イニシアチブを発揮するよう求めました。子どもたちの宣言も、事実を知って、語り継いでいくことを堂々とのべ、立派だなと感じました。

核抑止論について、記者会見の場では「当然」と言い切った総理大臣のあいさつは、「広島、長崎の悲劇を繰り返さない」といいながら、原爆症認定訴訟での国の10連敗にも触れず、私にはむなしいものでした。

閉会総会では、米軍基地撤去を決めたエクアドルの副大臣、キューバやノルウェー、ベネズエラなどの大使や、日韓の被爆者、中山高光さんとパク・ヨンギさんと歌手・野田淳子さんのセッション、立命館大学平和ミュージアム館長・安斎育郎教授と学生の鼎談、アメリカやエジプトで活動する反核活動家や、横須賀で住民投票にとりくんだ青年、東京・大阪の高校生など、内外の人たちの頑張りにはげまされつつ、新しい署名運動の呼びかけが採択されました。署名用紙はこちらです。

採択された宣言、特別決議はこちらです。

2010年のNPT再検討会議にむけ、新たな国際世論を、一人でも多くの人と力をあわせ、広げていきます。
最後になりましたが、送り出してくださった皆さんに、この場をお借りしてあらためてお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原水爆禁止世界大会・広島の報告(その4・原爆の史跡をたずねて)

2008-08-21 01:22:44 | 平和

2日目の夕方、新宿代表団のみなさんと史跡を見学しました。この原爆ドーム前での写真は、雨宮たけひこ区議と。
なお、新宿代表団には、日本共産党から佐藤佳一さんもお子さんと一緒に参加。私も大変お世話になりました。

 

原爆の子の像(広島市HPの説明はこちら)周辺には、写真のような中高生を含め、祈りをささげる人たちが絶えませんでした。
私もお預かりした千羽鶴を捧げました。



「原爆詩集」で知られる日本共産党員詩人、峠三吉の詩碑です。強烈に身が引き締まる思いがしました。吉永小百合さんの朗読が脳裏によみがえってきます。



被爆したアオギリの木です。いまでは被爆アオギリ2世も隣に育っています。


公園内では、翌日の平和記念式典に備え、吹奏楽の練習もしていました。技術だけでない、思いのこもった、水準の高い演奏だと感じました。

 
原爆の犠牲となったのは、日本人だけではありません。多くの朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)人も犠牲となりました。写真は韓国人慰霊碑です。10年前訪れたときは、別の場所にあったと記憶していますが、現在は平和記念公園の中にあります。


これは別の移動時に撮ったものです。宿のすぐそばにNTTの支店があり、そこにあった碑です。
東京でも、戦時中は多くの電話交換手(多くは女性)が犠牲になったと、NTT出身の方から聞かされました。


今日最後の写真は、戦後の建造物ですが、今年限りの広島市民球場です。広島カープが広島の人々にとって希望の象徴だったことは、こうの史代著「夕凪の街 桜の国」(双葉社)の1シーンでも伺えます。

話は脱線しますが、この作品が映画化された(昨年の夏上映)時は、帰省時に山形の映画館「フォーラム」で観ました。1本の映画の中で、これほど心を揺さぶられ、涙した作品とは出合ったことがありませんでした。
主演の1人、麻生久美子さんは、国民平和大行進にメッセージを寄せています。
この映画館「フォーラム」についてはまた機会があれば触れたいと思います。
写真はありませんが、この日は、平和記念資料館を見学しました。
私は資料館は2度目の見学です。1度目は大学卒業時の貧乏旅行。今後共産党の専従となり、訪れる時間がもてないかもしれないと思い、広島に行ったのでした。

実際には、その後、今回を含めて世界大会に2回送り出していただき、有難い限りです。

訪れた誰もが言うように、誰もが一度は訪れるべき場所だとあらためて思います。
入館料は、100円でおつりが来ます!

この日の夜は、港区の代表団のみなさんの交流会におじゃましました。

次回は、広島からの報告の最終回です。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原水爆禁止世界大会・広島の報告(その3・被爆者のお話を聞いて)

2008-08-19 19:37:06 | 平和








原つとむさん、佐藤なおきさん縮小JPEG.JPG 八幡さんJPEG.JPG  集合写真再縮小JPEG.JPG 安藤、U縮小JPEG.JPG







2日目は青年の分科会に参加、グループに分かれて被爆者の方を訪問、直接お話を伺いました。会場に着くと、東京6区の佐藤なおきさん、少し前まで同じ赤旗出張所員同士の墨田区議・原つとむさんと再会、写真をパチリ。



ほかの分科会よりも集合時刻が30分早かったのですが、あまりの参加者の多さに(800人!)、まずはグループに分かれるまでがスタッフの皆さんの大仕事でした。



私のグループは、ほかの2グループと一緒に、若いスタッフの方の先導で、バスに乗って観音(かんおん)という地区へ。2人の被爆者がお話をしてくださいましたが、予定では5人見えるはずだったとのこと。高齢の被爆者のみなさんは、闘病しながら、体調がすぐれないなか、日々を生活していることを、まず思い知らされました。



2枚目の写真の八幡保さんは、原爆が落とされたときは15歳。広島市から13キロ離れた呉市にいました。8月17日に、お母さんの使いで、いとこの安否をたずねて広島市に入ったのですが(後に「悪かったのう」と言って亡くなったそうです)、昭和54年(1979年)まで、自分は被爆者ではないと思っていたそうです。



30歳から70歳代まで労働組合の専従として、被爆者の救援活動に携わる日々。あるとき、「人のこと一生懸命だけど、あんたも入市したなら、被爆者手帳もらわないのか」といわれ、いろいろ思い出したそうです。



原爆の年の10月に頭が禿げたこと、家族からも差別されたこと、翌年の夏に海水浴に行き、皮膚をかいたらぼろぼろになり、医者に「手術のあとだ」と思われたこと。



当日、その場にいなくても、被爆し、身体を、心をむしばむ。放射能は、そこがほかの被災者と違うところだと繰り返し強調されました。



写真でかかげている被爆者手帳は、「2号」被爆者のものだそうです。2週間以内に、中心部から2キロ以内に3~4時間以上滞在したことが条件。1号は直接被爆、3号は救護で被爆した人だそうです。



八幡さんは「4号被爆者制度をつくれと私は言ってるんです」と。おつれあいは被爆したとき、「黒い雨」が降った地域を走って帰宅し、被爆しました。「黒い雨地域」で被爆したおつれあいは「そう騒がないで」と言っていたのが「こうなったら、手帳ほしいわね」とおっしゃるようになりました。しかし、被爆者手帳を交付されない(国が被爆者と認めない)うちに、がんが転移し、痛さ、苦しさに耐え切れず、最後は10階から飛び降りて亡くなりました。しかも、八幡さんが突き落としたとの疑いで、警官が5、6人でやってきたそうです。



八幡さんは、「核も戦争もない地球にしたい。戦争前夜は、人の権利は無視される。「腹が減った、飯を食わせろ」と言えば非国民と言われた。いまもそういう危険な動きがある。若いみなさんには、できるところから協力してほしい。町で署名を集めていたら、少なくとも自分の署名はしてほしい」と力強く締めくくりました。



もう一人、被爆体験を語ってくださったのは木村はるしさん。投下翌日の8月7日、市内を一回りしたら、建物は2、3しかなく、兵士は死体をもっこで「1、2の3」で川に投げ込んでいたそうです。男性の遺体は上を向いて、金玉からあぶくがでていたとのこと。



新日本婦人の会(新婦人)観音班の石井なつ子さんは、広島の新婦人が出し続けている被爆体験集のお話をされました。42集を数えます。第1集に文章を寄せた、中心的な方は、戦後生まれたご自分の子どもが白血病になり、一度も小学校に通うことのないまま、7歳の8月になくなり、出し続けられない時期もあったけれど、乗り越えて続けてこられました。







なぜ出し続けているか。今も、被爆の体験を話すことができない方が、たくさんいるからとのことでした。今年も、11人の方が、初めて書いてくれたそうです。





石井さんは、「第1集から42集まで、持ってきました。どれか読んでいただき、心のヒバクシャになってほしいです」とおっしゃいました。



被爆体験をしていない、身内に被爆者がいるわけではない(祖父母の戦争体験は聞いてきましたが)、広島や長崎の人間ではない、戦後世代のさらに子どもである自分は、どう、被爆体験を伝えていけばよいのか、説得力はあるのか、ということを考えたりもするのですが、ご出身は福岡で、広島に転居して、広島でこの運動を続けている石井さんに、優しくバトンを渡されたような気持ちがしました。



地元のご町内の60歳代の男性は、「普段ニコニコしている人も、話を聞くと悲惨な体験をしている。被爆の悲惨さとともに、なぜ日本はこんな戦争をしたのかをぜひ考えてほしい。われわれが意識を変えないと。日米安保でアメリカに従属している現状を変えないと」と力説されました。



司会の地元の原水協の方からは、国の認定基準、「原因確率論」のおかしさが指摘されました。



ご自身の叔母さんは被爆時10歳。被爆者手帳はもらえず。その弟2人は、もらえた。なぜ兄弟で違うの?




国の理屈はこうです。



「2、3歳なら救護していた母親の背中におぶわれていたはずだから、内部被爆(ちり、ほこりなど、口の中からの被爆。国は当初認めていなかった)だ。10歳なら、母親の身体から離れていたはず」



みなさん、自分がこう言われて、納得できますか?



この調子で、被爆し、今もなお国が認めようとしない被爆者が数多く、私の住む東京にも数多くいます。見た目に分からない方も多く、「元気なのに、なんであの人は、被爆者だというだけで、医療費払わないの?」と無理解からの心無い言動を聞くこともあります。



しかし、各地での原爆症認定訴訟は、国が10連敗しています。国のやってきたことは、裁判所からはっきり断罪されていると言っていいでしょう。それでも、舛添厚労大臣、福田総理大臣は裁判を継続するそうです。余命少ない被爆者の方々が、亡くなるのを待っているのでしょうか。先日話を伺った港区内在住の女性は、「亡くなった姉のためにも、負けられない、あきらめない」とおっしゃっていました。「東京おりづるネット」のHPにリンクを張らせていただきます。裁判の経過、そしていまの運動について、勉強になります。



話を戻します。



グループで感想を出し合いました。



「生のお話をきくのは本当に大事。わざわざここに来て、つらい過去を伝えてくださった。この思いを大事に受け止め、伝えたい」(公立保育士)



「ここに参加しなければ、こういうお話を聞く経験はできなかった。被爆者の方が生きていられるうちに、私も、一歩でも前進させるため、署名など、活動したい」(公立保育士)



「初めて参加し、お話を聞いて、元気が出た。日本で生活していると、戦争はみんなイヤだと思う。それなのに、9条改憲の動きがあるなんて、信じられない。地道に運動してきた人たちがいたから、これまで9条を守ってこれたことも感じた」(自治体職員)



「私の病院には被爆者外来があり、被爆者の方が、多くは癌で入院している。病院で憲法9条の学習もあったが、これまで関心がなかった。患者さんの話が少し具体的に感じた。これまでは「昔あったこと」としか聞けなかったけど、もっと患者さんに近づいて話が聞ける気がした。戦争や核のこと、誰かが発信しないと、だめなんだと思った」(病院・栄養士)



「民青をやってる友人に引っ張られて参加した。被爆者のお話を聞けてよかった。北朝鮮なんか見ると、必要な戦争もあると思っていたけど、「戦争は権利を奪うものだ」とのお話をきいて、対話が大事だと思った」(学生)



などなど、初対面ながら、貴重な交流ができました。すごく勉強になったし、同年代の(ほとんど私より若いですね(^^;)皆さんの前向きなパワーに元気をもらいました。「被爆体験の風化」などというニュース報道もありますが、戦争、被爆を体験した世代の思いをひきついで、同時に、戦争そのものも客観的に、被害にも、加害にも、向き合っていくこと。すなわち、いかなる理由においても、戦争を許さない、核兵器をゆるさない、まずは核のない世界を実現することが、私たちの世代にはできるはずです。



移動中の雑談のなかで、若い保育士さんが、自治体の民営化がすすめられているなか、組合と保護者と連携を図りながらがんばっていることを聞き、子どもを保育園に預ける親としても、大いに元気をもらったのでした。



4枚目の写真は、品川区議の安藤たい作さんと、ともに出張所でがんばってきた赤旗品川出張所長の内田さんです。(続く)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする