日本共産党千代田地区副委員長 冨田なおき

衆院東京1区で3度出馬。17年総選挙は政策協定結び比例で立候補。22年参院選に比例代表から立候補を決意しました。

原水爆禁止世界大会・広島の報告(その3・被爆者のお話を聞いて)

2008-08-19 19:37:06 | 平和








原つとむさん、佐藤なおきさん縮小JPEG.JPG 八幡さんJPEG.JPG  集合写真再縮小JPEG.JPG 安藤、U縮小JPEG.JPG







2日目は青年の分科会に参加、グループに分かれて被爆者の方を訪問、直接お話を伺いました。会場に着くと、東京6区の佐藤なおきさん、少し前まで同じ赤旗出張所員同士の墨田区議・原つとむさんと再会、写真をパチリ。



ほかの分科会よりも集合時刻が30分早かったのですが、あまりの参加者の多さに(800人!)、まずはグループに分かれるまでがスタッフの皆さんの大仕事でした。



私のグループは、ほかの2グループと一緒に、若いスタッフの方の先導で、バスに乗って観音(かんおん)という地区へ。2人の被爆者がお話をしてくださいましたが、予定では5人見えるはずだったとのこと。高齢の被爆者のみなさんは、闘病しながら、体調がすぐれないなか、日々を生活していることを、まず思い知らされました。



2枚目の写真の八幡保さんは、原爆が落とされたときは15歳。広島市から13キロ離れた呉市にいました。8月17日に、お母さんの使いで、いとこの安否をたずねて広島市に入ったのですが(後に「悪かったのう」と言って亡くなったそうです)、昭和54年(1979年)まで、自分は被爆者ではないと思っていたそうです。



30歳から70歳代まで労働組合の専従として、被爆者の救援活動に携わる日々。あるとき、「人のこと一生懸命だけど、あんたも入市したなら、被爆者手帳もらわないのか」といわれ、いろいろ思い出したそうです。



原爆の年の10月に頭が禿げたこと、家族からも差別されたこと、翌年の夏に海水浴に行き、皮膚をかいたらぼろぼろになり、医者に「手術のあとだ」と思われたこと。



当日、その場にいなくても、被爆し、身体を、心をむしばむ。放射能は、そこがほかの被災者と違うところだと繰り返し強調されました。



写真でかかげている被爆者手帳は、「2号」被爆者のものだそうです。2週間以内に、中心部から2キロ以内に3~4時間以上滞在したことが条件。1号は直接被爆、3号は救護で被爆した人だそうです。



八幡さんは「4号被爆者制度をつくれと私は言ってるんです」と。おつれあいは被爆したとき、「黒い雨」が降った地域を走って帰宅し、被爆しました。「黒い雨地域」で被爆したおつれあいは「そう騒がないで」と言っていたのが「こうなったら、手帳ほしいわね」とおっしゃるようになりました。しかし、被爆者手帳を交付されない(国が被爆者と認めない)うちに、がんが転移し、痛さ、苦しさに耐え切れず、最後は10階から飛び降りて亡くなりました。しかも、八幡さんが突き落としたとの疑いで、警官が5、6人でやってきたそうです。



八幡さんは、「核も戦争もない地球にしたい。戦争前夜は、人の権利は無視される。「腹が減った、飯を食わせろ」と言えば非国民と言われた。いまもそういう危険な動きがある。若いみなさんには、できるところから協力してほしい。町で署名を集めていたら、少なくとも自分の署名はしてほしい」と力強く締めくくりました。



もう一人、被爆体験を語ってくださったのは木村はるしさん。投下翌日の8月7日、市内を一回りしたら、建物は2、3しかなく、兵士は死体をもっこで「1、2の3」で川に投げ込んでいたそうです。男性の遺体は上を向いて、金玉からあぶくがでていたとのこと。



新日本婦人の会(新婦人)観音班の石井なつ子さんは、広島の新婦人が出し続けている被爆体験集のお話をされました。42集を数えます。第1集に文章を寄せた、中心的な方は、戦後生まれたご自分の子どもが白血病になり、一度も小学校に通うことのないまま、7歳の8月になくなり、出し続けられない時期もあったけれど、乗り越えて続けてこられました。







なぜ出し続けているか。今も、被爆の体験を話すことができない方が、たくさんいるからとのことでした。今年も、11人の方が、初めて書いてくれたそうです。





石井さんは、「第1集から42集まで、持ってきました。どれか読んでいただき、心のヒバクシャになってほしいです」とおっしゃいました。



被爆体験をしていない、身内に被爆者がいるわけではない(祖父母の戦争体験は聞いてきましたが)、広島や長崎の人間ではない、戦後世代のさらに子どもである自分は、どう、被爆体験を伝えていけばよいのか、説得力はあるのか、ということを考えたりもするのですが、ご出身は福岡で、広島に転居して、広島でこの運動を続けている石井さんに、優しくバトンを渡されたような気持ちがしました。



地元のご町内の60歳代の男性は、「普段ニコニコしている人も、話を聞くと悲惨な体験をしている。被爆の悲惨さとともに、なぜ日本はこんな戦争をしたのかをぜひ考えてほしい。われわれが意識を変えないと。日米安保でアメリカに従属している現状を変えないと」と力説されました。



司会の地元の原水協の方からは、国の認定基準、「原因確率論」のおかしさが指摘されました。



ご自身の叔母さんは被爆時10歳。被爆者手帳はもらえず。その弟2人は、もらえた。なぜ兄弟で違うの?




国の理屈はこうです。



「2、3歳なら救護していた母親の背中におぶわれていたはずだから、内部被爆(ちり、ほこりなど、口の中からの被爆。国は当初認めていなかった)だ。10歳なら、母親の身体から離れていたはず」



みなさん、自分がこう言われて、納得できますか?



この調子で、被爆し、今もなお国が認めようとしない被爆者が数多く、私の住む東京にも数多くいます。見た目に分からない方も多く、「元気なのに、なんであの人は、被爆者だというだけで、医療費払わないの?」と無理解からの心無い言動を聞くこともあります。



しかし、各地での原爆症認定訴訟は、国が10連敗しています。国のやってきたことは、裁判所からはっきり断罪されていると言っていいでしょう。それでも、舛添厚労大臣、福田総理大臣は裁判を継続するそうです。余命少ない被爆者の方々が、亡くなるのを待っているのでしょうか。先日話を伺った港区内在住の女性は、「亡くなった姉のためにも、負けられない、あきらめない」とおっしゃっていました。「東京おりづるネット」のHPにリンクを張らせていただきます。裁判の経過、そしていまの運動について、勉強になります。



話を戻します。



グループで感想を出し合いました。



「生のお話をきくのは本当に大事。わざわざここに来て、つらい過去を伝えてくださった。この思いを大事に受け止め、伝えたい」(公立保育士)



「ここに参加しなければ、こういうお話を聞く経験はできなかった。被爆者の方が生きていられるうちに、私も、一歩でも前進させるため、署名など、活動したい」(公立保育士)



「初めて参加し、お話を聞いて、元気が出た。日本で生活していると、戦争はみんなイヤだと思う。それなのに、9条改憲の動きがあるなんて、信じられない。地道に運動してきた人たちがいたから、これまで9条を守ってこれたことも感じた」(自治体職員)



「私の病院には被爆者外来があり、被爆者の方が、多くは癌で入院している。病院で憲法9条の学習もあったが、これまで関心がなかった。患者さんの話が少し具体的に感じた。これまでは「昔あったこと」としか聞けなかったけど、もっと患者さんに近づいて話が聞ける気がした。戦争や核のこと、誰かが発信しないと、だめなんだと思った」(病院・栄養士)



「民青をやってる友人に引っ張られて参加した。被爆者のお話を聞けてよかった。北朝鮮なんか見ると、必要な戦争もあると思っていたけど、「戦争は権利を奪うものだ」とのお話をきいて、対話が大事だと思った」(学生)



などなど、初対面ながら、貴重な交流ができました。すごく勉強になったし、同年代の(ほとんど私より若いですね(^^;)皆さんの前向きなパワーに元気をもらいました。「被爆体験の風化」などというニュース報道もありますが、戦争、被爆を体験した世代の思いをひきついで、同時に、戦争そのものも客観的に、被害にも、加害にも、向き合っていくこと。すなわち、いかなる理由においても、戦争を許さない、核兵器をゆるさない、まずは核のない世界を実現することが、私たちの世代にはできるはずです。



移動中の雑談のなかで、若い保育士さんが、自治体の民営化がすすめられているなか、組合と保護者と連携を図りながらがんばっていることを聞き、子どもを保育園に預ける親としても、大いに元気をもらったのでした。



4枚目の写真は、品川区議の安藤たい作さんと、ともに出張所でがんばってきた赤旗品川出張所長の内田さんです。(続く)



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