日本共産党千代田地区副委員長 冨田なおき

衆院東京1区で3度出馬。17年総選挙は政策協定結び比例で立候補。22年参院選に比例代表から立候補を決意しました。

秋は来ぬ!?

2008-08-27 19:11:56 | 町のみなさんと


あいさつ.JPGimg height="177" alt="新婦人の皆さんと歌うJPEG.JPG" src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/d4/fb15d1377ef12863c3b27642b192781b.jpg" width="251" border="0">

だいぶ涼しくなって、夏も終わりが近いと感じさせられますね。
大の汗っかきで、暑がりの私も、夏そのものは好きなので、さみしいものがあります・・・

朝の宣伝では「共産党さん、がんばってよ」「以前佐藤ふみのりさんにお世話になったのよ」など声をかけて頂いたり、日中の訪問、しんぶん赤旗の購読のおすすめなどを通じても、実に幅広い方々から励ましを頂きます。

例えば、ある自民党員の商店会の役員の方は、「大企業を応援しないと、国際競争力がつかない」とおっしゃっていましたが、「規制緩和の影響はどうですか?」と聞くと「あれは、まちがいです。」ときっぱり。「24時間営業は、おかしい。そもそも24時間営業のニーズはないよ。労働のあり方をこわしている。」と怒りを表明されました。

「アメリカに留学していて、ジャップ呼ばわりされ、バスにも乗せてもらえなかった」経験をお持ちで、アメリカいいなりは、「敗戦国だから仕方ない」とおっしゃっていても、「イラク派兵やクラスター爆弾を日本の自衛隊が持つなんて、あってはならないことだよ」「今日は楽しかった。話し合うことはいいことだね。またいつでも来てください」と意気投合しました。

なかには、「私は国政ではおたくと反対なんですよ。核武装すればいいと思ってる」「拉致問題は、北朝鮮に軍隊を出して連れ帰ればいい」という町会長さんと対話。
しかし、拉致問題を国会で初めてとりあげたのは日本共産党だということをご存知でした。
築地市場移転問題を特集した
「冨田なおき事務所ニュースNo.9」を見て、「おたくのいうとおり!これは一致します。一致点で力をあわせればいいんです」と言ってくださり、保守層の方々との「響きあい」を実感します。

写真は、23日に行われた、千代田では恒例の後援会行事、私の地元地域でもある、
福山和夫区議宅でのバーベキューです。家族と参加しました。
右の写真は、新日本婦人の会のコーラス「アカシア」のみなさんと。歌唱指導の先生と、アコーディオン奏者の方もおみえでした!
私も息子と一緒に、歌の輪に加わらせてもらいました。

この日もそうでしたが、雨が続いて、準備が大変!おつかれさまでした!
新宿では、24日に
大山とも子都議あざみ民栄区議と富久町の盆踊りに、松ヶ谷まさお区議の地元、山吹町の盆踊りにも大山さんとおじゃましましたが、どちらも、雨の中、不屈に踊っていらっしゃいました。大山さんとともに、少しその輪に加わって踊らせていただきました!

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原水爆禁止世界大会・広島の報告(その5・平和記念式典と閉会総会)

2008-08-21 16:59:46 | 平和
 

広島での最終日は6日。新宿代表団のみなさんと記念写真です。佐藤佳一さんが写してくださいました。

閉会総会の前に、平和記念式典を見学に行きました。テレビで中継している式典です。
もちろん会場の外から。聞き耳を立てます。かなりの人だかりです。

広島市長の平和宣言(東京新聞HPから引用です)は、核廃絶の声が多数派であることを指摘し、日本政府が日本国憲法を遵守し、平和市長会議が発表した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府に働きかけるなど、イニシアチブを発揮するよう求めました。子どもたちの宣言も、事実を知って、語り継いでいくことを堂々とのべ、立派だなと感じました。

核抑止論について、記者会見の場では「当然」と言い切った総理大臣のあいさつは、「広島、長崎の悲劇を繰り返さない」といいながら、原爆症認定訴訟での国の10連敗にも触れず、私にはむなしいものでした。

閉会総会では、米軍基地撤去を決めたエクアドルの副大臣、キューバやノルウェー、ベネズエラなどの大使や、日韓の被爆者、中山高光さんとパク・ヨンギさんと歌手・野田淳子さんのセッション、立命館大学平和ミュージアム館長・安斎育郎教授と学生の鼎談、アメリカやエジプトで活動する反核活動家や、横須賀で住民投票にとりくんだ青年、東京・大阪の高校生など、内外の人たちの頑張りにはげまされつつ、新しい署名運動の呼びかけが採択されました。署名用紙はこちらです。

採択された宣言、特別決議はこちらです。

2010年のNPT再検討会議にむけ、新たな国際世論を、一人でも多くの人と力をあわせ、広げていきます。
最後になりましたが、送り出してくださった皆さんに、この場をお借りしてあらためてお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

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原水爆禁止世界大会・広島の報告(その4・原爆の史跡をたずねて)

2008-08-21 01:22:44 | 平和

2日目の夕方、新宿代表団のみなさんと史跡を見学しました。この原爆ドーム前での写真は、雨宮たけひこ区議と。
なお、新宿代表団には、日本共産党から佐藤佳一さんもお子さんと一緒に参加。私も大変お世話になりました。

 

原爆の子の像(広島市HPの説明はこちら)周辺には、写真のような中高生を含め、祈りをささげる人たちが絶えませんでした。
私もお預かりした千羽鶴を捧げました。



「原爆詩集」で知られる日本共産党員詩人、峠三吉の詩碑です。強烈に身が引き締まる思いがしました。吉永小百合さんの朗読が脳裏によみがえってきます。



被爆したアオギリの木です。いまでは被爆アオギリ2世も隣に育っています。


公園内では、翌日の平和記念式典に備え、吹奏楽の練習もしていました。技術だけでない、思いのこもった、水準の高い演奏だと感じました。

 
原爆の犠牲となったのは、日本人だけではありません。多くの朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)人も犠牲となりました。写真は韓国人慰霊碑です。10年前訪れたときは、別の場所にあったと記憶していますが、現在は平和記念公園の中にあります。


これは別の移動時に撮ったものです。宿のすぐそばにNTTの支店があり、そこにあった碑です。
東京でも、戦時中は多くの電話交換手(多くは女性)が犠牲になったと、NTT出身の方から聞かされました。


今日最後の写真は、戦後の建造物ですが、今年限りの広島市民球場です。広島カープが広島の人々にとって希望の象徴だったことは、こうの史代著「夕凪の街 桜の国」(双葉社)の1シーンでも伺えます。

話は脱線しますが、この作品が映画化された(昨年の夏上映)時は、帰省時に山形の映画館「フォーラム」で観ました。1本の映画の中で、これほど心を揺さぶられ、涙した作品とは出合ったことがありませんでした。
主演の1人、麻生久美子さんは、国民平和大行進にメッセージを寄せています。
この映画館「フォーラム」についてはまた機会があれば触れたいと思います。
写真はありませんが、この日は、平和記念資料館を見学しました。
私は資料館は2度目の見学です。1度目は大学卒業時の貧乏旅行。今後共産党の専従となり、訪れる時間がもてないかもしれないと思い、広島に行ったのでした。

実際には、その後、今回を含めて世界大会に2回送り出していただき、有難い限りです。

訪れた誰もが言うように、誰もが一度は訪れるべき場所だとあらためて思います。
入館料は、100円でおつりが来ます!

この日の夜は、港区の代表団のみなさんの交流会におじゃましました。

次回は、広島からの報告の最終回です。







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帰省しました

2008-08-20 14:06:24 | 家族・子育て
 

広島の報告はまだ続きますが、一休みして(しすぎ!?)、別の話題です。

家族と山形に少しばかり帰省してきました。息子は数週間前から「しんかんせん、のりたいよ」と言っていましたが、乗った後も言っています。

帰京後、上野動物園に行きました。こどもと動物のふれあいコーナーで、ヤギにえさをやりながら、びびっている息子です。確かに、ものすごい勢いで加えてきます!
不用意にパンらしき食べ物をかばんに入れていて、ヤギにとられた女性が、むきになって傘の先を(!)使って、取り返していました。悲しい光景でした。

別のふれあいコーナーでは、ウサギや、ハツカネズミにさわらせてもらいました。

最後の写真は、動物園内にあった、動物の慰霊碑です。建立は戦前で、普通に病気などで死んだ動物が発端のようですが、「かわいそうなぞう」で有名な、戦争中に殺されていったたくさんの動物たちをも慰める碑です。千羽鶴がたくさん供えられていました。
末武芳一さんの「上野浅草昔ばなし」の抜粋が「上野動物園」を検索すると8番目に出てきます。涙なくしては読めない歴史です。

戦争で犠牲となるのは、こうした動物や子ども、女性、病人、障害者といった弱い者たちです。そのことを、風化させず、語り継いでいくことで、9条改憲などできない状況をつくってゆけるのだと思います。
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原水爆禁止世界大会・広島の報告(その3・被爆者のお話を聞いて)

2008-08-19 19:37:06 | 平和








原つとむさん、佐藤なおきさん縮小JPEG.JPG 八幡さんJPEG.JPG  集合写真再縮小JPEG.JPG 安藤、U縮小JPEG.JPG







2日目は青年の分科会に参加、グループに分かれて被爆者の方を訪問、直接お話を伺いました。会場に着くと、東京6区の佐藤なおきさん、少し前まで同じ赤旗出張所員同士の墨田区議・原つとむさんと再会、写真をパチリ。



ほかの分科会よりも集合時刻が30分早かったのですが、あまりの参加者の多さに(800人!)、まずはグループに分かれるまでがスタッフの皆さんの大仕事でした。



私のグループは、ほかの2グループと一緒に、若いスタッフの方の先導で、バスに乗って観音(かんおん)という地区へ。2人の被爆者がお話をしてくださいましたが、予定では5人見えるはずだったとのこと。高齢の被爆者のみなさんは、闘病しながら、体調がすぐれないなか、日々を生活していることを、まず思い知らされました。



2枚目の写真の八幡保さんは、原爆が落とされたときは15歳。広島市から13キロ離れた呉市にいました。8月17日に、お母さんの使いで、いとこの安否をたずねて広島市に入ったのですが(後に「悪かったのう」と言って亡くなったそうです)、昭和54年(1979年)まで、自分は被爆者ではないと思っていたそうです。



30歳から70歳代まで労働組合の専従として、被爆者の救援活動に携わる日々。あるとき、「人のこと一生懸命だけど、あんたも入市したなら、被爆者手帳もらわないのか」といわれ、いろいろ思い出したそうです。



原爆の年の10月に頭が禿げたこと、家族からも差別されたこと、翌年の夏に海水浴に行き、皮膚をかいたらぼろぼろになり、医者に「手術のあとだ」と思われたこと。



当日、その場にいなくても、被爆し、身体を、心をむしばむ。放射能は、そこがほかの被災者と違うところだと繰り返し強調されました。



写真でかかげている被爆者手帳は、「2号」被爆者のものだそうです。2週間以内に、中心部から2キロ以内に3~4時間以上滞在したことが条件。1号は直接被爆、3号は救護で被爆した人だそうです。



八幡さんは「4号被爆者制度をつくれと私は言ってるんです」と。おつれあいは被爆したとき、「黒い雨」が降った地域を走って帰宅し、被爆しました。「黒い雨地域」で被爆したおつれあいは「そう騒がないで」と言っていたのが「こうなったら、手帳ほしいわね」とおっしゃるようになりました。しかし、被爆者手帳を交付されない(国が被爆者と認めない)うちに、がんが転移し、痛さ、苦しさに耐え切れず、最後は10階から飛び降りて亡くなりました。しかも、八幡さんが突き落としたとの疑いで、警官が5、6人でやってきたそうです。



八幡さんは、「核も戦争もない地球にしたい。戦争前夜は、人の権利は無視される。「腹が減った、飯を食わせろ」と言えば非国民と言われた。いまもそういう危険な動きがある。若いみなさんには、できるところから協力してほしい。町で署名を集めていたら、少なくとも自分の署名はしてほしい」と力強く締めくくりました。



もう一人、被爆体験を語ってくださったのは木村はるしさん。投下翌日の8月7日、市内を一回りしたら、建物は2、3しかなく、兵士は死体をもっこで「1、2の3」で川に投げ込んでいたそうです。男性の遺体は上を向いて、金玉からあぶくがでていたとのこと。



新日本婦人の会(新婦人)観音班の石井なつ子さんは、広島の新婦人が出し続けている被爆体験集のお話をされました。42集を数えます。第1集に文章を寄せた、中心的な方は、戦後生まれたご自分の子どもが白血病になり、一度も小学校に通うことのないまま、7歳の8月になくなり、出し続けられない時期もあったけれど、乗り越えて続けてこられました。







なぜ出し続けているか。今も、被爆の体験を話すことができない方が、たくさんいるからとのことでした。今年も、11人の方が、初めて書いてくれたそうです。





石井さんは、「第1集から42集まで、持ってきました。どれか読んでいただき、心のヒバクシャになってほしいです」とおっしゃいました。



被爆体験をしていない、身内に被爆者がいるわけではない(祖父母の戦争体験は聞いてきましたが)、広島や長崎の人間ではない、戦後世代のさらに子どもである自分は、どう、被爆体験を伝えていけばよいのか、説得力はあるのか、ということを考えたりもするのですが、ご出身は福岡で、広島に転居して、広島でこの運動を続けている石井さんに、優しくバトンを渡されたような気持ちがしました。



地元のご町内の60歳代の男性は、「普段ニコニコしている人も、話を聞くと悲惨な体験をしている。被爆の悲惨さとともに、なぜ日本はこんな戦争をしたのかをぜひ考えてほしい。われわれが意識を変えないと。日米安保でアメリカに従属している現状を変えないと」と力説されました。



司会の地元の原水協の方からは、国の認定基準、「原因確率論」のおかしさが指摘されました。



ご自身の叔母さんは被爆時10歳。被爆者手帳はもらえず。その弟2人は、もらえた。なぜ兄弟で違うの?




国の理屈はこうです。



「2、3歳なら救護していた母親の背中におぶわれていたはずだから、内部被爆(ちり、ほこりなど、口の中からの被爆。国は当初認めていなかった)だ。10歳なら、母親の身体から離れていたはず」



みなさん、自分がこう言われて、納得できますか?



この調子で、被爆し、今もなお国が認めようとしない被爆者が数多く、私の住む東京にも数多くいます。見た目に分からない方も多く、「元気なのに、なんであの人は、被爆者だというだけで、医療費払わないの?」と無理解からの心無い言動を聞くこともあります。



しかし、各地での原爆症認定訴訟は、国が10連敗しています。国のやってきたことは、裁判所からはっきり断罪されていると言っていいでしょう。それでも、舛添厚労大臣、福田総理大臣は裁判を継続するそうです。余命少ない被爆者の方々が、亡くなるのを待っているのでしょうか。先日話を伺った港区内在住の女性は、「亡くなった姉のためにも、負けられない、あきらめない」とおっしゃっていました。「東京おりづるネット」のHPにリンクを張らせていただきます。裁判の経過、そしていまの運動について、勉強になります。



話を戻します。



グループで感想を出し合いました。



「生のお話をきくのは本当に大事。わざわざここに来て、つらい過去を伝えてくださった。この思いを大事に受け止め、伝えたい」(公立保育士)



「ここに参加しなければ、こういうお話を聞く経験はできなかった。被爆者の方が生きていられるうちに、私も、一歩でも前進させるため、署名など、活動したい」(公立保育士)



「初めて参加し、お話を聞いて、元気が出た。日本で生活していると、戦争はみんなイヤだと思う。それなのに、9条改憲の動きがあるなんて、信じられない。地道に運動してきた人たちがいたから、これまで9条を守ってこれたことも感じた」(自治体職員)



「私の病院には被爆者外来があり、被爆者の方が、多くは癌で入院している。病院で憲法9条の学習もあったが、これまで関心がなかった。患者さんの話が少し具体的に感じた。これまでは「昔あったこと」としか聞けなかったけど、もっと患者さんに近づいて話が聞ける気がした。戦争や核のこと、誰かが発信しないと、だめなんだと思った」(病院・栄養士)



「民青をやってる友人に引っ張られて参加した。被爆者のお話を聞けてよかった。北朝鮮なんか見ると、必要な戦争もあると思っていたけど、「戦争は権利を奪うものだ」とのお話をきいて、対話が大事だと思った」(学生)



などなど、初対面ながら、貴重な交流ができました。すごく勉強になったし、同年代の(ほとんど私より若いですね(^^;)皆さんの前向きなパワーに元気をもらいました。「被爆体験の風化」などというニュース報道もありますが、戦争、被爆を体験した世代の思いをひきついで、同時に、戦争そのものも客観的に、被害にも、加害にも、向き合っていくこと。すなわち、いかなる理由においても、戦争を許さない、核兵器をゆるさない、まずは核のない世界を実現することが、私たちの世代にはできるはずです。



移動中の雑談のなかで、若い保育士さんが、自治体の民営化がすすめられているなか、組合と保護者と連携を図りながらがんばっていることを聞き、子どもを保育園に預ける親としても、大いに元気をもらったのでした。



4枚目の写真は、品川区議の安藤たい作さんと、ともに出張所でがんばってきた赤旗品川出張所長の内田さんです。(続く)



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原水爆禁止世界大会・広島の報告(その2・青年のつどい)

2008-08-12 15:37:05 | 平和


青年のつどい.jpga target="_blank">青年 001.jpg

この写真は、 世界大会1日目の夜開かれた、「核兵器なくそう・世界青年のつどいinヒロシマ」です。
世界と日本全国から参加した青年代表は1500人!

「イギリス核軍縮キャンペーン」のブルース・ケントさんは、元兵士。79歳と自己紹介されましたが、「生きているうちに変革を起こすことはできる。進歩は可能と楽観している」「核兵器は、(後々の)すべての世代において文明を破壊するもの」と話されました。

秋葉忠利・広島市長が分刻みのスケジュールのなか、「青年のつどい」にもかけつけ、あいさつしてくれました。
「被爆者の平均年齢は75歳をこえました。当時12、3歳の子どもたちだった方です。
核廃絶の運動は、当時の子どもたちの思いを引き継ぐ、子どもたちの運動といっても過言ではない」との話は印象的でした。

そのうえで被爆者の足跡を
1.たとえ死を選んでも誰も非難できないほどの、常識が通用しない被害を受け、それでもなお生を選んできた事実。想像力で補って理解することの大事さ
2.被爆者は思い出したくない(今なお、語れない方、今始めて語る方もいます)被害を、語るためにそれでもあえて思い出し、語ってきた。その勇気が核兵器の連鎖反応的な「3度目」の使用を防いできた。
3.核爆弾投下後、アインシュタインは「世界は変わってしまった。変わらなかったのは人間の考え方だ」と言ったそうですが、アインシュタインは被爆者の言動を知らなかったから。被爆者は「こんな思いは、他の誰にもさせてはならない」と、報復でなく、和解の哲学を示している。
と強調されました。

また核兵器はどんなに残酷で、恐ろしいかについては、人類共通の認識になっていない(たとえばホロコーストはまったく違う)。そこで、世界と日本の大学で、体系的に、組織的に学んでもらうために、「ヒロシマ・ナガサキ講座」を開講してもらうよう努力を強めているそうです。

「平和市長会議に世界131カ国2368年が加盟していることは、秋葉さんの開会総会と「青年のつどい」での話で初めて知りました。5年で2000市近くが加盟したそうです。最も市民と近い存在である都市の動き、非核地帯条約が約120カ国に広がる事実、アメリカでも核廃絶に6~7割が賛成する時代でもあります。秋葉さんは、世界の圧倒的多数の人たちは核廃絶を願っているし、実現が不可能ではない状況を作ってきたのは被爆者と世界各地での運動だということが、確信になる話でした。

原爆症認定集団訴訟・熊本原告団事務局長の中山高光さんと、ボーカリストの形岡七恵さんの対談もありました。
一番伝えたいこととして、「核兵器をなくすことができる時代だ」とおっしゃり、5年前、インドのムンバイで開かれた社会フォーラムに130カ国から12万人が参加、「もうひとつの世界は可能だ」と大成功を収めたことは、NHKも一般紙も報道しなかったことにもふれ、日本のメディアが国民に希望を持たせない点を批判。だから、世界各国と比べ、日本の世論調査では「核廃絶できると思わない」人が多いのだと述べられました。

アメリカ・ネバダやアラモゴード、韓国などの被爆者、核実験場などを訪れた際、日本の加害を率直に日本国民の一人として謝罪し、そのうえで核兵器の間違いを訴えると、反応がまったく違う、共感されるとの話が私には一番印象に残りました。

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原水爆禁止世界大会・広島の報告(その1・趣味編から開会総会へ)

2008-08-11 11:49:43 | 平和
    ←4枚目の列車を横から見た図。すみません、吉永小百合さんのファンなもので。

報告が大変遅くなってすみません。先日の記事で少し書きましたが、4日から6日まで、「原水爆禁止2008年世界大会・広島」に、新宿代表団の一員として参加しました。広島駅から広島電鉄の路面電車で、宿と会場へ。

ここまで写真をご覧になった方、カンパで送り出してくださった方々に、「電車の写真を撮りに広島までいったのか?」と思われそうですね。本題へ急ぎます。

   開会総会では、ご存知、秋葉忠利広島市長が発言、生き残った被爆者の心の傷はいえないこと、核兵器から身を守る手段は核廃絶しかないことを強調しました。

クラスター爆弾の禁止条約が結ばれたことや、カリフォルニア州や広島市の温暖化対策の実例を挙げ、21世紀は、市民の力、都市単位で問題を解決する時代だとも述べていたのが印象的でした。

国連から、事務総長の代理として初参加したのがセルジオ・ドゥアルテ軍縮問題担当上級代表。
ブラジルの外交官時代も含め、40年以上軍縮に携わってきたそうです。「核廃絶は、失敗したのではなく、進行中の努力。無意味だと思ったらこんなに長年取りくまない、人類の営みの中で、最も崇高な活動のひとつだ」との発言に胸をゆさぶられました。

アメリカの核開発を進めてきたキッシンジャー氏やシュルツ元国務長官なども核廃絶を主張していることなど、核廃絶は不可能な理想なのではなく、世界の流れとして強く大きな流れとなっていることに確信を持ちました。被爆者にお会いして伺った話など、まだ続きます。
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住吉町などの祭りに参加しました

2008-08-09 14:48:16 | 町のみなさんと
 ←右端はあざみ民栄区議。

 

広島でのことをお伝えしたいのですが、その前に、前回の記事で予告した写真を紹介します。

私の事務所を置かせていただいている、地元住吉町のまつりでは、大山とも子都議と一緒に、盆踊りの輪に入って、踊らせてもらいました。

2、3枚目の写真は、地元の共産党後援会「あけぼの会」のみなさんが準備したところてんです。おかげ様で完売しました!

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今、広島にいます

2008-08-06 00:07:50 | 平和
更新が遅くなりました。

先週末は、千代田の地元の町会、新宿の町会、商店会などの納涼パーティーや盆踊りにおじゃましました。写真は東京に帰ってからアップさせていただきます。

4日から、冨田は広島で行われている原水爆世界大会に参加しています。
被爆者の方や、参加している特に若いみなさんに元気をもらっています!

くわしくは後日お伝えしたいと思います。

明日は8月6日です。

おやすみなさい。
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