Goo Blog 美ら島沖縄

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Peace to the pacifism world

3月28日 今日の報道記事

2010年03月28日 21時21分55秒 | 最近の報道から
        3月28日 今日の報道記事




◎ 中北部の小児救急5病院、医師5人減 対応一部制限も検討
  本島中北部の小児救急に対応する5病院で、小児科医が4月から計5人減ることが27日までに琉球新報の取材で分かった。
22人から17人に減り、当直回数の増加など1人当たりの業務負担が増えるだけでなく、24時間救急に対応している
  沖縄県立中部病院では救急の一部制限も検討している。

◎ 沖縄県外への全面移設断念が濃厚に 防衛相、沖縄県内含め分散移転の方針
  北沢俊美防衛相は27日、米軍普天間飛行場の移設先について「(普天間所属の)60機全部を引き受けてくれるところはない。
  2カ所くらいに配置を変える」と述べ、沖縄県内の1カ所、沖縄県外の1カ所に分散移転する方針を示した。
  平野博文官房長官も普天間の代替主要施設は沖縄県内で確保する方針を固めており、
  政府内で沖縄県外への全面移設断念の動きが濃厚になった。
  第4次(琉球)沖縄処分か!

◎ 名護・久辺3区、シュワブ陸上移設なら区有地契約拒否
  米軍普天間飛行場の移設問題に関し、政府が5月末にキャンプ・シュワブ陸上部への移設を最終決定した場合、名護市の辺野古、久志、豊原の久辺3区が、
  シュワブ内に保有する区有地について、軍用地契約が切れる12年5月以降、契約を結ばない方針であることが27日分かった。

◎ 59%が沖縄県外移設求める 安全保障に関する面接全国世論調査
  本社加盟の日本世論調査会は13、14の両日、面接による全国世論調査を実施し、安全保障に関する国民の意識を探った。
  米軍普天間飛行場の移設先は38%が日米合意を見直し、日本国外へ移設するよう求めた。
  「沖縄県以外の日本国内」が21%。国外と合わせて59%が沖縄県外を求めた。
  次いで、日米同意に沿って沖縄県名護市の「キャンプ・シュワブ沿岸部に移設」が18%。
  シュワブ沿岸部以外の沖縄県内移設は12%だった。

◎ 在沖米海兵隊員を現行犯逮捕 酒気帯び運転、本人は否認
  那覇署は27日、道交法違反容疑(酒気帯び運転)で在沖米海兵隊嘉手納分遣隊所属の伍長フランク・メドラーノ容疑者(25)を現行犯逮捕した。
  容疑者の呼気から基準値(1リットル中約0・15ミリグラム)の2倍弱のアルコールが検出されたが、容疑者は「自分が飲んだ量や時間帯ではこれだけの
  アルコールは出ない」と容疑を否認しているという。

◎ 南部工の久米、重量挙げ男子77キロで優勝
  石川県金沢市総合体育館で行われている第25回全国高校重量挙げ選抜大会で、
  男子77キロ級の久米大輝(南部工)がトータル249キロで優勝した。

◎ bjリーグ第41戦 キングス快勝、大分に82―73
  プロバスケットボールbjリーグの琉球ゴールデンキングス(西地区1位)は27日、宜野湾市真志喜の市立体育館で今季第41戦となる
  大分ヒートデビルズ(同5位)との第5戦を行い、82―73で快勝した。
  戦績は27勝14敗で、地区首位を堅持した。
  2位のライジング福岡も勝ち、ゲーム差は2のまま。
  キングスは28日午後2時から同会場で大分と戦う予定。

◎ bjリーグ第42戦 キングス敗れる 大分に71―78
  プロバスケットボールbjリーグの琉球ゴールデンキングス(西地区1位)は28日午後、宜野湾市立体育館で今季第42戦となる
  大分ヒートデビルズ(同5位)との第6戦を行い、71―78で敗れた。
  通算戦績は27勝15敗で地区首位のまま。
  2位のライジング福岡は勝ち、ゲーム差は1に縮まった。

◎ 普天間の沖縄県内移設、閣内で阻止 社民の阿部政審会長、連立離脱に否定的
  社民党の阿部知子政審会長は28日午前、米軍普天間飛行場を沖縄県内などに移設する複数の政府案について
  「現実にそれを行わせないために閣内にいて頑張ることもある」と述べ、正式決定されても連立離脱すべきではないとの考えを示した。

◎ 大学院大学 学長候補に複数の外国人 10年度早い段階で決定
  沖縄科学技術研究基盤整備機構の第9回運営委員会が28日、恩納村の機構本部で開かれた。
  運営委員会後の会見で、有馬朗人共同議長は、沖縄科学技術大学院大学学長の選考状況について「複数の外国人の候補者が挙がっている」と報告。
  確定時期については、10年度の早い段階で決めるとした。

◎ 宮里藍、54位に後退 米女子ゴルフツアー第3戦第3R
  米女子ゴルフツアーの今季第3戦、起亜クラシックは27日、カリフォルニア州で第3ラウンドを行い、宮里藍は76とスコアを崩し、通算6オーバーの54位に後退した。
  上田桃子は73で通算2オーバーの27位。

◎ 白鵬、2場所ぶり13度目の優勝 把瑠都の大関昇進、事実上決定
  大相撲春場所千秋楽で、横綱白鵬が大関日馬富士を下し、全勝で2場所ぶり13度目の優勝を決めた。
  また、東関脇把瑠都の大関昇進が春場所千秋楽の28日、事実上決まった。
  31日午前の夏場所番付編成会議と理事会で正式に「大関把瑠都」が誕生する。
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3月28日 沖縄今日の歴史

2010年03月28日 20時58分13秒 | 歴史の証言
     3月28日 沖縄今日の歴史



△(1881年)
  太政官が両先島村吏の役俸支給を従来通り認める。

△(1922年)
  沖縄県営鉄道の那覇―嘉手納線開通。

△(1977年)
  文化庁の文化財保護審議会、伊是名村の「銘苅家住宅」を重要文化財指定。

△(2002年)
  ハンドボールの第25回全国高校選抜大会の女子は九州代表の陽明優勝。
  沖縄県勢女子で初。

△(2003年)
  米英軍などのイラク攻撃を受け、沖縄県内の米軍関連施設や空港など約50カ所の警備に当たる
  本土からの応援機動隊員約300人、車両約50台沖縄入り。


        沖縄県外


△(1939年)
  スペイン人民戦線内閣に対し反乱を起こしたフランコ将軍らの保守派がマドリードを陥落させた。
  国際的なファシズム対民主主義の戦いとなった内戦は、ドイツなどの支援を受けた反乱軍の勝利に終わり、
  フランコ長期独裁政権が誕生する。

△(1960年)
  ローマ・カトリック教会の東京大司教・土井辰雄が枢機卿に任命された。
  枢機卿は法王に次ぐ高位聖職者で、日本人では初めて。
  1938年に東京大司教となり、「邪教」などと迫害された戦前、
  戦時中に日本のカトリック教会を守った。
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歴史の荒波に翻弄され続けて来た「沖縄」

2010年03月28日 19時23分48秒 | 歴史の証言
歴史の荒波に翻弄され続けて来た「沖縄」


鳩山首相「沖縄県外道筋考えたい」 沖縄の負担理解求めと 言っているが、本音は?

 鳩山由紀夫首相は3月26日の記者会見で、米軍普天間飛行場の移設先について、
「沖縄の過重な負担を考えると、極力、沖縄県外に移設をさせる道筋を考えていきたい」と表明しているが、本当のところ本音か如何か?

政府は3月末までに対米、対地元交渉の土台となる政府方針を固める考えで、3月末の期限まで1週間を切った段階で沖縄県外移設を目指す姿勢をあらためて強調した。

 鳩山首相は沖縄県外移設が、全面的な基地そのものの移設なのか、一部機能の移転なのかは、言及を避けている。
 3月末の政府方針とりまとめ期限が迫る中、シュワブ陸上案や勝連半島沖案など沖縄県内移設を軸としての案が浮上する中での首相の発言は、
「さらに沖縄県外移設を求める沖縄県民の期待を高める」ことになる。

 沖縄県外移設が実現できなかった場合の責任について問われた首相は
「沖縄県外移設ができなかった場合の謝罪の議論は時期尚早だ。今、釈明を考えるいとまがあれば、極力そうならないように全力を尽くすということがすべてだ」と述べて、沖縄県外移設実現への自信について「3月末の期限が迫っているだけに、それなりに強い思いを高めていくことができつつある」と自信をのぞかせているが、此れまでの発言を聞いていると、迷走のシナリオが尚も混迷しているように見える。

 鳩山首相は「今まで沖縄の皆さんに大きな負担をしてきていただいた問題だ。
これをぜひ、全国の国民にも、「沖縄に過重な負担があったんだということを学んでいこうではないか」という理解を示していただければ大変ありがたい」と呼び掛けた。

今日の沖縄の問題を知るには、過去の「沖縄の歴史背景を知る必要」がある。
その歴史は

  明治12年、廃藩置県により国王・尚泰(しょうたい)が恭順上京して明治政府の琉球処分は一応の片がついたが、対外的な問題として琉球の日清両属問題はなおくすぶりつづけていた。
それ以前清国は琉球が清国に対して行なってきた進貢冊封を日本が禁止したことに強く抗議をつづけ、琉球のいわゆる頑固党もまた清国の救援をまち、明治政府に対する頑強な反抗をつづけていた。

 こうした中で明治12年3月、処分官松田道之によって廃藩が断行されたので、清国は明治12年5月、おりから世界旅行中の前アメリカ大統領グラント夫妻が清国に立ち寄ったのを好機と、捕らえ、グラント前アメリカ大統領に琉球帰属問題の調停を依頼した。

 このとき、宮古、ハ重山の住民にとって由々しき大問題がもち上がった。
歴史上有名ないわゆる「分島問題」がそれで、このときあやうく両先島は清国に身売りさせられるところであった。

 清国の依頼をひきうけたグラントは再三にわたって伊藤博文らと会見、また明治天皇と会った析にも琉球問題について意見をのべ、
「琉球を分割して一部を清国に譲って事態収拾する分島案」を進言した。

 これは両国の譲歩による妥協をすすめたものだが、翌明治13年、明治政府はこの分島案を具体化して、
「宮古、ハ重山の両群島を清国に割譲」、ひきかえに「日支通商条約を改修」することを清国に提議した。

 「改修とは日本商人に西洋人と同じく中国内地にはいって貿易することを得しめる条項の追加を求めたもので、いわゆる『分島改約』の提案であり、「宮古、ハ重山両島の土地人民」と中国内地の貿易の利権とを交換しようというのであった」のだ。

 沖縄を「物」扱いの上、内地人の利益の為の「道具」扱いである。

 このあと清国側は、日本の提案の上に立ってさらに独自の「琉球三分案」を考え、日本に示したが日本はこれをはねつけ、あくまで「分島改約」を主張、ついに明治14年1月をもって「分島改約を発効」させることで話し合いがつき、清国側は、皇帝の裁可をまつのみとなっていた。

 ちなみに清国側が提案して日本が拒絶した「琉球三分案」とは、

「琉球を三分」して
1、北部(奄美大島)を日本に、
2、中部(沖縄)は琉球王に復させて王国を再興、
3、南部(宮古、八重山)は清国に帰属させるというもので、
日本案にしても、またこの清国案にしてもいずれの場合も「宮古、ハ重山は清国へ帰属させる」というものであるから、宮古、八重山の住民にとっては同じようなものである。

 もちろんこのような経緯を経て、日本側提案の分島改約案で双方の意見が一致し、効力発生の期限まできめられたことは
当の「宮古、ハ重山の住民」はもちろん「沖縄の一般住民」はだれ一人知るよしもなかった。

 日清政府間でこういう問題がおこり、交渉が行なわれているということは、沖縄側では尚泰と極めて少数の親近者がおぼろげに感知して希望的観測をなす外、廃藩置県の現実を見ている
「一般住民はもちろん、当の宮古・ハ重山島民」のだれ一人として自分らに近づきつつある運命について「何一つ知らなかった」のである。

 また改約によって「利益を得るはずの者は、そのころの沖縄人はだれ一人もいなかった」。

  第二次大戦後の昭和26年、「日本の独立」と交換に結ばれた「対日講和条約」によって沖縄全住民の意思と無関係に沖縄をアメリカに「身売り」させた日本政府のあり方と軌を同じくするものであり、歴史の皮肉を感じさせる。

 明治政府によってまさになされようとした「宮古、ハ重山の清国帰属を中心とする琉球分割条約」は、清国皇帝が裁可をのばしたため正式調印のはこびにならず、ウヤムヤのうちに葬られた。

この間、琉球王国再興の救援陳情のため福建省にきていた名城里之子親雲上(なしろさとぬしぺーちん:林世功)が、自刃して琉球救援を訴えるなど、頑固党の執拗な抵抗はつづいたが、時代の流れをかえることはできなかった。

 結局、分島改約は実現せず、宮古、ハ重山も清国の属領にならずに済んだが、70年後の昭和26年には、
再び日本政府の意思によって「沖縄ぐるみ米国に売り飛ばされた」のだ。

 明治14年1月をもって「宮古、ハ重山」が清国に帰属されて宮古、ハ重山の人びとが中国人となっていたらどうなっていたことだろうか?。
おそらく明治27、8年の日清戦争で台湾とともに再び清国から割譲をうけて日本領となり、さる大戦による日本の敗戦で、沖縄は米国の統治になるが、「宮古、ハ重山」は再び台湾とともに中国へかえされ、今ごろは中国大陸を締め出された台湾政府の一属島として太平洋の孤児になっていたことだろう。

 思えばささいな歴史の歯車のズレから予想もつかぬ方向へ押しやられてしまうことのおそろしさを、いまさらのように感じさせられるし、いつの時代でも自分の意思とは無関係に力のある者の意思だけで翻弄されてきた沖縄県民の悲しい宿命を怒りをもって抗議せずには居られない。

 薩摩に搾取された時代。 
 そして明治時代に「沖縄併合」され、以降、日本による皇民化政策・教育の徹底により今度は琉球の文化までも奪われ、日本に同化させられていった沖縄。 
 そして日本のために沖縄史上最も悲惨なアメリカ軍と日本軍の地上戦。 
 数々の出来事を見聞きするにつれ、日本の所業に対して「沖縄が被った損失」はあまりにも大きいことに気づいて欲しい。

 辺戸岬に建っていた「祖国復帰闘争碑」は、沖縄人自らの日本への復帰運動であった記念碑である。 
それに対し一部では有ったが「反復帰論」者も居たが、アメリカの横暴も一因だったとはいえ、今思えば、多くの沖縄人は日本同化政策に毒されての復帰運動だったのではないだろうかと考えてしまう。

さらに、沖縄の歴史をさかのぼって見ると、

琉球の黄金時代

 尚真王の治世は琉球の黄金時代であった。

 金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。
尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。

 しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位六ヶ月で退位し、越来(ごえく)に引退した。
その年の内に薨去したとも伝えられる。

 1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。
尚真王は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。
さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。
また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。

 第二尚氏は第一尚氏に引き続き、15世紀から16世紀前半にかけて活発な海上政策を行った。
中国の福建(福州)に拠点をもち、明王朝と朝貢貿易を行ったほか、明の軍事的な権威を背景に積極的な貿易を行い、日本本土の諸港にも交易船を送った。

 琉球の海上政策は朝貢による明王朝の軍事的な庇護と同時に、海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行ったものだが、北方民族との戦いを続ける明の要求によって、琉球からは火薬の材料である硫黄と物資輸送用の軍馬が主に捧げられた。

 またマレー半島のマラッカ王国、パタニ王国、タイのアユタヤー王朝など東南アジア諸国とも活発な外交・貿易を展開した。
政権が安定すると、かねてから内属していた周辺島嶼の支配を強化した。

 石垣島の按司オヤケアカハチが琉球の官吏に、政治改革や改宗を迫られた為に反抗、琉球への朝貢を拒否して反旗を翻したため、尚真王は1500年に征討軍を送った。
宮古島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)は琉球軍の先鋒を勤め、石垣島に侵攻してアカハチを殺害し、先島諸島が完全に領有された。

 与那国島は女首長サンアイ・イソバ(実在したかは不明)の下で独立が続いたが、琉球王府の承認の元、宮古島の仲宗根により1522年に制圧された。
この経緯から、当初は八重山と与那国島の直接の支配権は仲宗根豊見親が握っていたが、2年後には琉球王府の直接統治へと移行していった。

 1524年には、園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)の長として就任させているが、これが王府による先島統治の最初である。

 奄美諸島については、1447年、尚思達王が奄美大島を従わせ、1450年から1462年まで喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃していた。
1466年、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。

 1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。

 1571年には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島の領主達を制圧している。
この間、権益の奪還を目指した日本本土勢との間に、多数の戦闘が発生していた。

 この時代が琉球の黄金時代であったが、16世紀後半には明が中国船の海外渡航を日本を除いて許可し、中国商船が活発に東南アジア諸港で活動を始めたことや、スペインやポルトガルなどの南蛮勢力が台頭したこともあり、琉球と東南アジアとの交易は急速に衰退し、1570年には東南アジア貿易を廃止した。

 また、ハンス芋(藩薯芋)が野国総管の手によって中国から持ち込まれたのは1605年のことである。
これは麻平衡・儀間真常により琉球中に広められた。

 琉球ではトウイモ(中国から来た芋なので唐芋)と呼ばれ、琉球全土の食糧事情を劇的に改善して餓死者を減少した。
野国総管の功績は現在も称えられている。
 因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では薩摩から来た芋としてサツマイモ(薩摩芋)と呼ばれ、現在はその名称が定着している。
一方、薩摩(現在の鹿児島県)の島津氏は、戦国時代を通じて疲弊した自家の財政を立て直したいと考え、琉球を通じて明と貿易することを望んだ。

 1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。
この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。

続 その2 へ
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歴史の荒波に翻弄され続けて来た「沖縄」

2010年03月28日 19時22分45秒 | 歴史の証言
続 その2

歴史の荒波に翻弄され続けて来た「沖縄」


江戸幕府の明通商計画

 琉球の衰退に対し、琉球を通じて明と貿易を望んだ薩摩国などを統治する島津氏は、豊臣秀吉による天下統一の頃から琉球王国への要求を強める様になった。
秀吉も朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じるなど、日本側の圧力は強まっていった。

 1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになるが、対等な外交を認めない中華帝国である明との通航には、明へ服属しなければならず、これを避けるために琉球を介した間接貿易を画策した。

 1602年と1603年に相次いで琉球の辺民が漂着したため、彼等を届ける見返りとして間接貿易に応じるように琉球王府へ働きかけたが、承諾は日本への服属(日本による貿易操作)を意味することと王府は考え、幕府の申し出を拒否した。

 これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

薩摩の侵攻

 第二尚氏第7代尚寧の1609年3月4日、樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。
3月8日に奄美大島へ上陸し、地元按司の反撃を受けたものの制圧、3月22日に徳之島、3月24日に沖永良部島を攻略し、3月26日には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。

 琉球側は4,000名以上の兵を動員したが、日本国内の戦国時代を経験し強兵であった薩摩の本格的侵攻に対し、本土勢力との戦いは境界付近での小競合い程度で薩摩ほど経験を持っておらず、大貿易時代の終結で国力が低下していた琉球軍は抵抗及ばず首里城は陥落する。

 尚寧は和睦を申し入れ首里城から下城した。
島津軍は4月5日に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に帰った。

 翌1610年、尚寧は首里城を離れて、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。
途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。

 忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美諸島(度々独立戦を起こし、琉球は持て余していた)を割譲させ直轄地とし、割譲後も表面上琉球領の体裁を採らせるため、王府の役人の派遣を続けさせた。

 1611年、尚寧は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山をのぞく)の重臣に、島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、国家の存続が認められた。
また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。

 こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。
以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。

 すなわち、薩摩藩の密貿易である。

 薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続け、薩摩藩は琉球が清との交易で得た利益で潤った。
薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させ、異国ということを意図的に強調させた。

 これは、幕藩体制下の日本において、異国である琉球をともなっている、薩摩藩の権威と地位を向上させるという狙いがあり、幕府にとっても中国の中華思想に基づく朝貢貿易と同じ性格の関係を琉球と持つことにより、中国と対等であるという意識を持てると言う利点もあった。

王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

 島津侵攻から約50年後の1665年、羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。
『羽地仕置』(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。
また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。

 他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。
羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。

 蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。
改修された河川は数十にも上った。

 蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。
また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。
他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

 この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。
また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。
羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

中継貿易の衰退

 幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。
1844年にイギリスとフランスが通商を求めて琉球を訪れた。

 薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争(1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可する。

 1847年、薩摩が琉球を英仏に開港した。
1853年には米国のマシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。
続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。

 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。
その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

 清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩~沿海州、対馬藩~李氏朝鮮、長崎~清・オランダ、薩摩藩~琉球~清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。

 そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

 なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。
米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。

琉球王国最後の国王・尚泰王

 1871年に全国で廃藩置県を実施した日本の明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。
これは琉球国を国家としてではなく令制国として扱うという形を取った物である。
しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。
当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。

 これに対し、日本は「万国公法」にある近代的な「国民国家」理論を適用し、「日清重属」であった琉球を取り込もうとした。
日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった(宮古島島民遭難事件)。

 1879年(明治12年)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。
明治12年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。

 一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。
しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。
国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。

 第二尚氏家系は現在も続いている。

清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。
翌1880年(明治13年)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し、清へ割譲する案を提示したが、清が拒絶したため頓挫。

 最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。
琉球処分以降の中華民国の尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は日本領として正式に承認し両国間では一応の決着がついていたことが判明している。

 その証拠として1920年に中華民国から日本の石垣村に送られた感謝状には『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』という記載がある。

 また70年代頃まで中華民国で使われていた教科書や台湾の国防研究所と地学研究所が作成した地図でも尖閣諸島を日本領として明確に記載していた。
現在でも、中華人民共和国は公式の場にて日本の沖縄に対しての領有権を認めており、日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を表明している。

 一方で、第二次世界大戦後、台湾に渡った中華民国政府(国民政府)は沖縄返還協定が結ばれた際にプロセスに参加できなかったことを不服として琉球の本土復帰を承認しておらず、また日中国交正常化に伴って日本と断交したため、正式には日本の琉球領有権を認めていない状態にある。

 現在でも政府文書などで時折日本と琉球が別の色で表示されている事などがある。
中華人民共和国に於いても、在野の学者が沖縄の領有を主張することが度々行われている。

 これらの琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを琉球処分と呼び、琉球藩設置を第一次琉球処分、廃藩置県を第二次琉球処分ということもある。

 正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。
先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。

 運動は1890年代に沖縄県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、沖縄県政の改善や参政権を要求した。
この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10~25年遅れて施行した。

 1920年(大正9年)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。
また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。

 第一次世界大戦による戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家ではソテツの実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況となった。

 この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(特に大阪市大正区には、沖縄からの出稼ぎ労働者が多く移住してきたため、現在でもその一部とその子孫らが暮らしている)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった。

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歴史の荒波に翻弄され続けて来た「沖縄」

2010年03月28日 19時21分30秒 | 歴史の証言
続 その3

歴史の荒波に翻弄され続けて来た「沖縄」


 戦前の沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。

明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。

 しかし、昭和時代に入ると道路整備の発達により、新たにバス会社が参入すると、鉄道の輸送人員は減少し、1930年代後半に次々と廃業、さらに追い打ちをかけるように、沖縄戦によりレールなどの鉄道の全施設が破壊された。

  そして、戦後になっても2003年に沖縄都市モノレールが開通するまで復旧することなく消滅した。

米軍に捕縛された民間人

 太平洋戦争(大東亜戦争)では、1944年(昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、上陸戦開始まえに知事の努力で行なわれた本土疎開でも、学童疎開の対馬丸の被雷喪失など、被害が発生していた。

 1945年(昭和20年)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。

 4月1日に米軍は60万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。
圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。

 第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な戦闘は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。

また、戦争に伴って行われたマラリア発生地域への住民の強制疎開や、物資の移動、栄養状態の悪化、マラリアの集団罹患が発生した。

沖縄本島における収容所

 戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。
しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。
旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。
いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。

 1952年(昭和27年)4月28日発効の日本国との平和条約で、潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。
アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。

  アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、沖縄県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから沖縄県民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。

 なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、返還する気は全く無かったようである。

 1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。
また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。
一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。

 1968年(昭和43年)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。
この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

 日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45年)に予定される安保延長と共に、沖縄県の本土復帰を緊急の外交課題とした。
このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。

 しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、沖縄県民の真意を汲み取ることにはならなかった。

 1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機に「コザ暴動」が発生した。
常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上アメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

 アメリカ政府にとっては、日頃温厚と見ていた人々が暴動をおこした事に強い衝撃を受けた。

 1969年(昭和44年)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。
屋良朝苗や復帰賛成派の沖縄県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。

 1972年(昭和47年)5月15日に琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰した。
また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。

 特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7,500万ドルが含まれていた。

 沖縄県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。

 このため一部の沖縄県民には、「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者もいる。
また、この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と成った。

米軍の普天間飛行場

 日本への復帰を記念して、1973年(昭和48年)には若夏国体、1975年(昭和50年)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。
しかし、観光以外にこれといった大きな産業がなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。

 このため、沖縄県では1998年(平成10年)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。

 その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。
また、2000年(平成12年)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

 文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄アクターズスクールが安室奈美恵をはじめとする多数の歌手を輩出し、全国的な人気を博した。
その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。

 一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセント(面積比)が沖縄県に集中するという歪な構造となっている。
これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による沖縄県民への暴行事件などがしばしば起きている。

 とくに1995年(平成7年)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄県警が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。
強姦事件により沖縄県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9年)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。

 2004年(平成16年)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故(→沖国大米軍ヘリ墜落事件)は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。
2006年(平成18年)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。
一方、永久に続く超大国は歴史上なく、遠い将来仮に米軍が撤退すれば沖縄県に基地が集中することは、なくなるだろうが、国境地帯という立地にかわりはない。

 今も尚続く米兵の事件事故で、沖縄県民感情は「爆発直前」の時限爆弾の様相を呈している。
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