Goo Blog 美ら島沖縄

個人の趣味で、沖縄の諸々の情報を掲載

Peace to the pacifism world

今日は 10.10 空襲の日

2007年10月10日 21時01分45秒 | My投稿
今日 10月10日は沖縄県民にとっては忘れられない日です。

 ミッドウェー海戦において大勝した連合国軍(米軍)は、その後、南太平洋上の島嶼にあった日本軍の基地を次々に撃破・占拠し、更に、南方から日本本土への資源・物資などの輸送の重要拠点であるフィリピン・レイテ島の奪回・占拠を目指した。
レイテ島侵攻に当たり、日本軍の後方支援基地からの援軍を断ち切るため、南西諸島にあった出来たばかりの飛行場や台湾の基地を攻撃することにした。

太平洋戦争開戦以来、比較的平穏であった南西諸島の島々に、1944年(昭和19年)10月10日未明から突然、米空母機動部隊の艦載機による空襲が行なわれた。
第1次・第2次の空襲は、出来たばかりの飛行場や港湾に停泊中の艦船に対して行われ、第3次以降は港湾施設や市街地への空襲で有った。
 特に、第4次・第5次の空襲は、那覇市へ集中的に行われた。空襲は、未明から夕方まで断続的に行われ、被害は飛行機や艦船だけでなく、一般県民の家屋や港湾に陸揚げされたばかりの食糧にまで及び、特に那覇市では、市内の家屋の9割が全焼・全壊するなど多大な被害を受けた。
 5次にわたる空襲(飛行機による爆弾攻撃)にて旧那覇市街は壊滅した。
戦況の状況を知らされていなっかった人々は、空襲を演習と思っていた。
那覇市だけでも死者255名を出した。
この空襲で安里の養蚕試験場にあった司令部も焼け首里城に司令部壕が掘られる事になる。
 連合国軍(米軍)はその後、台湾にあった日本軍の基地を攻撃し、更にフィリピンを攻略し奪回した。

連合国軍(米軍)は、翌年1945年(昭和20年)3月26日、慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸した為に悲劇が起きた。
1945年(昭和20年)4月1日には守備陣の薄い本島中西部で、飛行場のある読谷村と嘉手納町を狙って上陸した。
上陸地点からこの首里城の司令部までの間はおおよそ12~3キロの距離を連合国軍(米軍)は約50日掛って進撃した。

連合国軍(米軍)の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、
司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。
ひめゆり学徒隊の悲劇もこの南部地域で起きました。
ひめゆり学徒隊は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている方々が多い。
しかし南部戦線は米軍にとっては敗残兵狩りに等しい戦いであり、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場であった。

沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄の住民も思っていた。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していたのですが、本土防衛、国体護持の時間稼ぎのために1945年(昭和20年)5月22日に沖縄守備軍の司令部の南部撤退が決定され、多くの住民が避難していた所にただ戦争を続けるために沖縄守備軍が逃げてきて、壕などを強制的に徴用したため住民は砲弾のなかに追い出される事となり多くの沖縄県民が犠牲になっていった。

下記を参照して下さい。

http://yantake-web.hp.infoseek.co.jp/page36.html