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Peace to the pacifism world

63回目の慰霊の日

2008年06月23日 16時50分11秒 | 歴史の証言
6・23は沖縄 慰霊の日

沖縄から世界へ「命どう宝」(ぬちどうたから)を,日本で唯一地上戦があった沖縄県。
多くの尊い命が奪われた地上戦の惨禍を体験したことから、一切の戦争をなくしたい沖縄県民の想いを慰霊の日に託し世界へと発信し続けます。

今からちょうど63年前、日本は戦争をしていました、第ニ次世界大戦です。
沖縄は日本で唯一地上戦が行われた場所となり、沖縄本島は米軍の上陸によって南北に分断されてしまいました。
南北約110㎞の細長い沖縄本島に打ち込まれた砲弾の数だけでも、艦砲弾約60万発、地上砲弾約17万発と言われ、山の形が変わるまで「鉄の暴風」が3ヶ月以上も吹き荒れました。
自分たちの住んでいる土地に米軍が上陸し、戦場となり、20数万人の人々が悲惨な最期を遂げています。
軍人よりも沖縄県民の犠牲者がはるかに多いのが、沖縄戦の特徴です。

1945年(昭和20年)6月23日未明、日本軍の沖縄守備隊、第32軍 司令官の牛島満中将と同参謀長の長勇中将が、糸満の摩文仁で自決し、日本軍の組織的戦闘は終わりました。
最高司令官が自決したことにより、日本軍の沖縄守備隊は解体し、事実上の組織戦は終了しました。
しかし、悲劇はまだ終わりではありませんでした。むしろ、ここからが悲惨をきわめました。
県民の4人に1人が犠牲になった戦闘は、沖縄の梅雨の季節に重なり、住民はガマと呼ばれる壕から壕へと命をつないでいった。
ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んでいた住民が、敗走してきた日本軍に追い出され、砲弾の下をさまよった。
日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告していた。
実際に、米軍に連れ去られて帰された少年と農民が日本兵に殺されるなど、スパイとみなされる住民が相次いだ。

守ってもらえるはずの軍はないまま、山中などに隠れた日本兵の抵抗は続き、そのような戦場に放り出された住民たちは、逃げ場もなく、鬼畜米英と教えこまれ、捕虜になったら何をされるか分からないといわれていた事と「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告された事等で。投降して捕虜になることもできませんでした。

そのため、日本軍より支給された手榴弾を使い家族親戚で集団自決をしたり、支給された青酸カリを飲み自殺を図ったりしました。また、崖から飛び降り自殺をして、多くの人々が尊い命を絶ちました。
沖縄戦で死亡した総数のうち、6月23日以降に死亡した人たちは、かなりの数にのぼると言われています。

 1945年(昭和20年)9月2日、日本政府が連合軍との降伏文書に調印し、さらに、9月7日に南西諸島の日本軍が降伏文書に調印して、沖縄戦は正式に終結しました。

最高司令官が自決した6月23日をもって、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、「沖縄・慰霊の日」が制定されました。
この6月23日の慰霊の日は、沖縄戦の戦没者の霊を慰めて平和を祈る日として、米国統治下時の本土復帰前(1972年以前)は休日と定め、各行政機関や学校、企業に定着していましたが、1972年の本土復帰以降は日本国の法律が適用されて慰霊の日は休日としての法的根拠を失ってしまいました。
しかし、1991年に地方自治法が改正され、沖縄県では、沖縄戦が年ごとに忘れ去られていることへの反省と、世界の恒久平和への希求、戦没者の霊を慰めることを目的として、慰霊の日を休日と定める県条例が制定されました。

 これにより、沖縄県庁、市町村役場、公立の小・中学校、高校などは公休日となっています。

日本が独立したのは、1951年のサンフランシスコ講和条約の調印によってだった。沖縄はこの条約に基づいて米国の施政下に置かれた。
旧安保条約の調印もなされた。戦後は沖縄が米軍事戦略の「要石」といわれ続けた63年間だった。
冷戦が終わってからも久しいのに、今日なお日本全国の米軍施設の75%は、日本国土の0・6%に過ぎない小さな島沖縄県内に集中している。その意味で6月23日は、日本の戦争と平和にとって忘れてはならない日であるといえる。


●1945年6月23日 牛島司令官の自決により、日本軍の組織的戦闘が終了する

☆ 18日の牛島満司令官による「ゲリラ戦への移行」命令を受けた日本軍沖縄守備隊(第32軍)の組織的な戦闘は22日にまでにほぼ終了していた。
司令部としての機能も果たせなくなったのを機に、この日牛島司令官とその腹心の長参謀総長が、摩文仁の司令部壕入り口付近で自決した(一説には24日夜とも言われる)。
 1945年4月1日から始まった米軍上陸に対する第32軍による組織的戦闘は、司令部が消滅した6月23日をもって完全に終結したが、実際にはすべての戦闘がこの日で終了したわけではなく、投降を拒む一部の日本兵たちによる、米軍への散発的な攻撃が続いていく。

そうした残存勢力を一掃しようとアメリカ軍は各地で積極的に掃討戦をおこない、1週間後の30日にようやく沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)の完了にこぎつけた。
 90日間に及ぶ激しい戦闘の結果、日本軍の戦死者は10万人、米側も6万5千人を失った。沖縄県民の犠牲者はさらに多く、15万人とも20万人ともいわれている。

〈解説〉 米軍は6月中旬ごろから、連日数万枚ものビラを空からまいたり、すでに捕虜となっている日本兵や、日系米兵らによるスピーカー放送を通じて、生き残った日本兵に対し投降勧告を続けていた。この結果、20日ごろを境に1日あたり数千人の兵士が次々と任務を離れ、アメリカ軍の下へ投降を始める。過去の激戦地では生き残ることを潔しとせず、全軍玉砕を繰り返してきた日本兵の姿ばかりを目の当たりにしてきた米兵にとって、意外なことであった。牛島中将が発した、組織的戦闘からゲリラ戦への移行命令も、疲れきった兵士たちの感情に影響を与えたと言われる。