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鳩山氏「抑止力は方便」辺野古回帰理屈付け

2011年02月14日 12時17分42秒 | 政治不信と政党
strong>鳩山氏「抑止力は方便」辺野古回帰理屈付け,普天間移設戦略の欠如で陳謝

 鳩山由紀夫前首相は12日までに沖縄の新聞社のインタビューに応じ、
米軍普天間飛行場の移設をめぐる政権時の取り組みや対米交渉の全容を語った。

 移設先を名護市辺野古と決めた理由に挙げた在沖海兵隊の抑止力について
「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈付けしなければならず、
考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った。
方便と言われれば方便だった」と弁明し、抑止力論は「後付け」の説明だった事を
明らかにした。

 さらに「海兵隊自身に抑止力があるわけではない。(陸海空を含めた)四軍が
そろって抑止力を持つ、そういう広い意味では(辺野古移設の理由に)使えるな
と思った」と語った。

 前首相が抑止力を後付けとする理屈を挙げたことで、あらためて日米合意の
是非に関して論議を呼びそうだ。

 2009年12月上旬に現行案での決着を逡巡(しゅんじゅん)したと明かした上で、
その時点でホテル・ホテル訓練水域の制限解除など、昨年5月の日米合意に盛り
込まれた負担軽減策の骨格は米側から引き出せていたと指摘。

 「軽減策とのパッケージで辺野古に理解がもらえるか考えたが、政治的に
持たないと判断し(移設先決定を)延期した」と述べた。

 日米合意の直前には沖縄、日本政府、米国の三者による協議機関の設置構想
を持ち、5月の2度目の来県時に仲井真弘多知事へ打診したと明かした。

 知事が「知事選前にそのようなことはできない」と話したため、構想を断念
したという。

 決着期限を2010年5月としたのは7月の参院選の争点化を避けるためだった
と明言、5月の大型連休に渡米しオバマ米大統領との直接交渉を検討していた
とし、実現できなかったことを「後悔している」と振り返った。

 2009年の衆院選で「最低でも県外」と掲げたことについては「民主党の
沖縄ビジョンに書かれていることを言った、順序立てた見通しがあったと
言うより『しなければならない』という使命感だった」と述べ、戦略性が欠如
していたことを認めた。

 結果的に実現できなかったことには「詰めの甘さがあった。
申し訳なく思っている」と陳謝した。

 県外の移設先として鹿児島県徳之島を模索し始めたのは2009年内の
決着を先送りした直後だったとし「地上部隊を沖縄に残してヘリ部隊だけを
移すとなると距離的にギリギリと考えた」と説明、徳之島が自身の「腹案」
だったと明かした。

「脱官僚」内実は依存、閣内も意思統一されず「普天間合意」の再構築

 米軍普天間飛行場を「最低でも県外」に移設すると明言し、最終的に断念
した鳩山由紀夫前首相の話からは、自らの思いとは裏腹に、官僚の抵抗に
遭いながら政府内で思いを共有できず挫折した構図が浮かび上がる。

 迷走を重ねた末に、名護市辺野古に回帰する理由として挙げた海兵隊の
抑止力論も、実はつじつま合わせの「方便」だった。

 昨年5月に「学べば学ぶほど」県内移設しかないと悟ったという鳩山氏の
説明が合理的理由にならないことは明らかだ。

 鳩山政権の後を継いだ菅直人首相は辺野古に移すとした日米合意を
堅持し、負担軽減策などで県民の理解を得るとしている。ただ、合理的理由
のない県内移設案で県外移設を求める県民の理解は得られない。

 むしろ、日米合意のリニューアルをホワイトハウスに働き掛けることが、
普天間問題解決の早道だろう。

 民主党政権は政権交代の象徴として「政治主導」と「脱官僚依存」を
掲げていた、だが内実はわずか数カ月で、現行案にこだわる米側の意向を
背景とする官僚側に押される形で名護市辺野古移設に戻されていた。

 その「米側の意向」も、あくまで外務、防衛両省を通して官邸に
伝えられた情報だ。

 辺野古以外の県外・国外の可能性は本当に皆無だったのか、政治家が
独自に情報を入手するルートを持てなかったことが官僚に頼らざるを
得ない状況に追い込まれた一因と言える。

 鳩山氏はインタビューで、持論の「常時駐留なき安全保障」が
県外・国外移設を訴えた原点だと明かした。

 しかし政権奪取後、党内で自身の考え方が浸透せず「封印」したという。
少なくとも政権発足前に関係閣僚との間で基本認識の共有を図ることが
必要だった、その上で、鳩山氏が悔やむように、ホワイトハウスに乗り込んで
オバマ大統領と直談判し、政権として断固とした姿勢を示していれば、
違った展開になった可能性はゼロではない。

 関係閣僚が日替わりで発言し、閣内の意思統一がままならないと外部の
目に映るようでは、対米交渉の土台が不十分だったと言われても仕方がない。

 政権発足時に最重要課題へ立ち向かう準備不足がつまずきの発端だった
とはいえ、一国の首相でさえ、自らの考えを実現できない政治家と官僚組織
の関係性も問われている。

 先月に来日したゲーツ米国防長官が言及したように、普天間移設の行方次第
で日米関係が壊れるという考え方は誤りで、沖縄の基地問題はあくまで両国の
懸案事項の一部にすぎない。

 インタビューによって浮かび上がった普天間問題をめぐる政治の構図を、
あらためて問い直す必要がある。

 交渉の過程でどのような政治力学が働いたのか。
何が問題の解決を妨げているのか。

 「最低でも県外」「常時駐留なき安保」「対等な日米関係」「政治主導」。
いずれも鳩山氏の政治家としての信念に根ざした主張だった。

 実行に移そうとすれば、米国との摩擦、官僚との摩擦は避けられない。
鳩山前首相はその備えもないまま米国や官僚と相まみえ、壁にぶつかっては
跳ね返され、閣内をまとめることもできず、迷走を続けた。

 鳩山政権の動きに警戒感を募らせた米国は硬軟織り交ぜ、さまざまな圧力を
新政権にかけた、全国紙の米国特派員は「米国が怒っている」という類いの記事
を流し続けた、外務省や防衛省の官僚は非協力的だった。

 「鳩山の失敗」に身震いした菅直人首相は、米国にも官僚にも逆らわず政権を
長続きさせるという道を選んだ。
政権交代時に掲げた理念の大幅な後退である。

 2009年9月に鳩山首相が誕生してから今日に至るまで、普天間問題の
節目節目に浮かんだ言葉がある。

 西郷隆盛と西南戦争について取り上げた「丁丑(ていちゅう)公論」の中で
福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と指摘した。

 政治学者の丸山真男は、日本の新聞社の「政治部」について「『政界部』と
いうふうに直した方がいい」と批判した。

 大ざっぱな言い方をすれば、米国と官僚と全国メディアは鳩山政権誕生以来、
三位一体の連携で辺野古移設を主張してきた、といえるのではないか。

 鳩山前首相はこの強固な壁に押しつぶされ、あえなく「憤死」したのだ。
総理の強いリーダーシップと閣内の結束、党内の一致協力があれば、状況は
変わったかもしれない。

 1994年2月、細川護熙内閣の下に防衛問題懇談会が設置され、1994年8月、
村山富市首相に報告書が提出された。

 報告書は、国連の下での多角的協力を重視した内容だったため、
「米国離れの動き」だと米国から警戒された。

 米国が定めた枠組みから日本がはみ出したり飛び出したりするのを米国は
警戒する、対米、対中、対ロ、いずれも菅政権の外交の足腰はふらついている。
嘆かわしいことだが、それが普天間問題を取り巻く今の状況だ。
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