不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Goo Blog 美ら島沖縄

個人の趣味で、沖縄の諸々の情報を掲載

Peace to the pacifism world

沖縄での台風ボランテイア

2007年08月31日 16時26分51秒 | My投稿
沖縄県は台風のコースになっており、沖縄観光で訪れた観光客の方々が此れまでは台風時に空港で足止めにあい、不自由な時間をすごさねばならない事態がしばしば有りました。特にお年寄りや子供連れの方は大変ご苦労されておりましたので、少しでもお役に立てればと
台風時観光客支援ボランティア・ヒューマンネットワーク」
2004年9月、県内の複数のベンチャー企業が
台風のマイナスイメージをプラスに変えるよう。力を結集しよう」
と呼び掛け、22の個人・団体が実行委を組織。
基金を創設し、企業などからの寄付で運営している。
空港内でのライブをはじめ、ホームステイ事業では、
台風時に空港1階に窓口を開設し親子連れやお年寄り、
身障者を対象に希望者を募って
ホームステイ班に約50世帯が登録し
観光客を受け入れております。

此方を▼御覧▼下さい。

クリック→台風時観光客支援ボランテイア友の会←クリック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆の楽しみ

2007年08月27日 16時15分53秒 | My投稿
お盆は、太陰太陽暦である和暦(天保暦など旧暦という)の7月15日を中心に日本で行なわれる祖先の霊を祀る一連の行事。一般に仏教の行事と認識されているが、仏教の教義で説明できない部分も多く、日本在来の民俗行事に仏教行事の「盂蘭盆」が重なり現在の形が出来たと考えられています。
昨日は盆の「中日」で、自分の祖先や親が祀られている本家である兄の家へ行きました。
兄は名護市の東側で、海上基地建設問題でゆれる、旧久志村の三原にあり、我が祖先は昔沖縄が琉球と屋ばれた時代に、この土地へ移り住んだそうです。
幼い頃の三原は何処を向いても○○の性でおまけに「同姓同名」が多く、屋号で呼び合っていました。
屋号+名前で何処の誰と誰もが判るので、悪い事は出来ない「良い環境」で、やんばる(山原)では何処のでも同じ様な呼び方をしておりましたので、他の人でも、直ぐに判るのです。
名+屋号+名前で総てが判明しますので、365日家は戸締りせず、戸は開けっ放しで、夏の夜は蚊帳をつるし、外からそよ風が入り、虫の鳴き声や星空を見ながら寝てました。
盆正月は親類縁者が集い大宴会が行われる様な賑わいが有りましたが、今は昔の面影が少なくなり寂しい気もします。
此れも時代の移り変わり同様大きく変貌して来ました。仕事に追われ、親類縁者も生活の場を田舎から都会へ、親兄弟も一緒に住まなくなり、一同に会するのも難しい時代へ成りつつあります。
親類縁者が一同に会する機会行事もめっきり減りましたが、僕は時々しか会えない縁者に合うのが楽しみで、宅配便等による配達は一切頼まず、訪問を楽しんでいます。
 三原に来る楽しみの一つに、来る道すがら「汀間」の外れにある、食事処「さらばんじ」で美味しい食事が出来る事です。ここ田舎は何処の家に寄っても「カメーカメー」(食べなさい食べなさいと食事を勧める風習があります。)と嬉しい攻撃を受けます。食べないと怒りますが、「さらばんじ」で食べてきましたと言えば、「あまぬかみむんや、まあさくつやー」(さらばんじの食事は美味しいからね)と許してもらえ、無理やり食べさせられる事が無いからです。
昨日は「ゴヤーチャンプるー」を食べてきました。
お店の方より、今後、美ら島沖縄HPの「さらばんじ」の記事のコピーや、当Blogの画面を携帯電話等で表示させ、店の方へ見せて下されば、小鉢か飲み物のサービスをしましょう。とお話を頂きましたので、皆様へご報告致します。
楽しいドライブがてら、有効にお使い下さい。
今日は「ウークイ」で後日、ウークイの話は書きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お盆

2007年08月24日 20時33分35秒 | My投稿
明日はお盆です。
盆は沖縄本島では「シチグァチ」と呼ばれ、旧暦の7月13日~15日の三日間に渡って行われる盆行事です。
 沖縄県でも地域により13日~16日、または17日まで行う処も在ります。
お盆はもともとは祖先の霊(精霊)を家に招いて、その年の豊作に対する感謝、家内の無事に感謝し、翌年の豊作と家内無病を祈願する行事でした。
 盆の行事は地域に寄って行われ方や供え物等に多少の違いは有りますが本筋はそんなに違いません。
盆の事は後日書く事として、この季節になると思い出す事があります。
3~40年程前までは、沖縄芝居なる移動巡業がありました、乙姫劇団等沢山の巡業グループがあり、各地域には芝居小屋なる劇場が沢山ありました。
 幼い頃母に連れられて、盆公演沖縄芝居を見に行った時の事で、旧暦の13日祖先の霊を家に迎えてから送る時までの出来事であったが、いま思い出しても面白いの紹介しましょう。
芝居の設定は戦争後のある年の盆である。
南洋島で戦争に巻き込まれて家族が逃げ惑う内に、皆が何時しかちりちりばらばらに成り、戦争が終わっても皆がそろわない、其の内沖縄への引き上げが始まり、生き残って再会を果たした者が達が、無くなった人の遺骨を持って引き揚げて来たが、生死不明の者もいた。
生死不明の者、生きている者、無くなり仏壇へ祭られている霊のコントである。
 仏壇に祭られた霊を「おじい」生死不明の者を「おばー」、仏壇を持つ生きているの者を「さぶろー」としよう。
さぶろう→仏壇に手を合わせておじいへ語る。
  おじい、おばーに合えたか?
おじい→あの世でアッチこっち探したが居ない。
さぶろう→ちゃんと探したか?
おじい→天国を隅々まで探したが見つからなかった。
さぶろう→来年までに、天国の戸籍係にもう一度たずねて探してみて、と話して15日にあの世へ見送った、
良き年の盆
さぶろう→天国で方々探したが見当たらなかった。さぶろうよ、この世に居ないか探してくれないか、
さぶろう→判った探してみようね、
おじい→あの世の役所で、いとこのさんだーと会ったが、さんだーも、おばーは見てないて
年は何年か過ぎたある盆
さぶろう→おじい、おばー居たか?
おじい→まったく行方不明、
さぶりうはユタを買いに行くと、ユタは、おばーは元気に生きている、皆が死んだと思い、現地人と結婚していると告げられて
さぶろう→おじい、おばーは他の人と結婚しているよとユタの話をした。
おじい→あの世からは現世が良く見えるが、おばーは眩しくて見えなかった、と語った。
盆が終わり、さぶろうはおばーに会いに行ったら、さぶろう含め全員の位牌を作り拝んでいた。
真心込めて拝んでいた為に、おじいからは眩しい「神様」に見えていた。
つまりは、心を込めて祖先を大事にし、祭りなさいとの教訓芝居であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学童疎開船「対馬丸」撃沈

2007年08月22日 22時59分29秒 | My投稿
今日8月22日は学童疎開「対馬丸」が撃沈され多くの学童が海のもくずと消えた日である。
その、学童疎開「対馬丸」とは、状況を簡単に説明すると、
1944年にサイパン島が玉砕陥落したことにより、米軍は同島から爆撃機B-29を出撃させることで、無着陸で北海道・東北北部を除く日本のほぼ全土を空襲できるようになった。
これを受けて、政府より沖縄県知事に宛て本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女・児童計10万人を本土または台湾への疎開させよとの命令が通達され、疎開が行われる事になった。
対馬丸を含む船団は他に和浦丸・暁空丸が居たが対馬丸は他2隻よりも大きな船で、おまけに一番古く大正時代に竣工した老朽船のため、性能は他の船に比べかなり落ち、全速でも13ノットしか出なかった。
疎開に当たり、児童の親などからは軍艦をと要請する声もあったが、日本海軍には既にこれに当てる戦力余裕など無く、民間船舶に頼らざるを得なかったのである。
1944年8月20日、台風による激しい風雨の中5隻は長崎へ向け那覇港を出航した。
乗客の多くは上り下りが出来る階段一つと緊急の縄梯子があるだけの船倉に割り当てられた。また配られた救命胴衣も子供には大きすぎたことなども犠牲者の数を大きくした原因となった様だ。
1944年8月22日、戦闘準備中の沖縄県より疎開のため一般・学童合わせて1788名(対馬丸資料館調べ)を載せ長崎へ向けて航海中、鹿児島県トカラ列島悪石島沖でアメリカ海軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
乗員乗客合わせ1418名(資料館発表、氏名判明者のみ)が死亡した。
22日午後10時、アメリカ海軍の潜水艦ボーフィンは対馬丸に対して魚雷攻撃を行った。
1発目はしのいだが、2発目と3発目が続けざまに右舷に命中した。
魚雷命中により海水が流入、縄梯子は流され、階段へいち早く登った者や暑さに耐えかね甲板に上がっていた者は船倉からは脱出できた。
だがその階段もすぐに海水につかり使えなくなった。
また脱出した者も、舷側が高く恐怖から海に飛び降りることができなかった人が大勢いた。
胴衣をうまく使いこなせず溺れた人もいた。
魚雷命中から11分後、対馬丸は大爆発を起こし沈没。
船の爆風で救命ボートが転覆し、生存者は台風襲来の荒海で漂流しながら救出を待つことになった。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍から連絡を受けた奄美大島や鹿児島県揖宿郡山川町(現:指宿市山川町)などの漁船に救出された。
一番長い人は10日間も漂流して救助された者も居た。
犠牲者の亡骸の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いた。現地には慰霊碑が建立されている。
他の船は爆雷を投下しながら全速力で潜水艦の攻撃をかわした。
船団は漂流者を救助せずその場を去った。
数日後、船団は目的地・長崎港に着いた。
対馬丸が撃沈されたことは、閑古令が布かれた、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。
このため一時は疎開に対する反発などがあったが1944年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
沖縄からの疎開船178隻中、アメリカ海軍潜水艦の犠牲になったのは対馬丸のみであるが、目的は別として、実際は湖南丸(大阪商船船籍。1943年12月21日沈没、乗客の多くが少年兵志願者。乗客・乗員死者684名、生存者5人)、大阪(神戸)~沖縄間の定期旅客船だった嘉義丸(1943年5月26日沈没。大阪商船船籍・乗客500人、死者321名)など沖縄・奄美近海に眠る船は27隻ある。また生き残った暁空丸もこの任務により1945年撃沈された。
和浦丸もまた同年7月20日、釜山港で機雷に触れ座礁した。
疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県・宮崎県)や台湾で終戦を迎えた。
戦後も日本政府は永年対馬丸沈没の事実を隠し通していた。
近年ようやく、対馬丸の沈没を認めている。
何故対馬丸遭難を隠す必要が有るのか疑問が残る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日の那覇空港の中華航空機炎上事故

2007年08月21日 12時57分21秒 | My投稿
昨日の那覇空港の中華航空機炎上事故は右翼の第二エンジンから炎が上がり、約三分後、胴体下の地上に漏れ落ちた燃料を伝って左翼側に引火、爆発した様である。中華航空機は那覇空港に着陸したが、着陸までの管制との交信では異常は報告されていないようで、中華航空120便ボーイング737―800型は那覇空港に着陸後誘導路を通り国際線用スポットに停止した。
地上の整備士二人が右翼の第二エンジンから燃料が漏れ、煙が出ていることに気付き、機長に連絡。猷機長は、操縦席でエンジンを止め、消火剤を噴射する操作レバーを引いたが間に合わなかった様で、目撃者によると、炎と黒煙は次第に激しくなり、前方と後方の左右計四つの非常用ドアが開いて脱出用シューターが展開、乗客が次々と滑り降りた。パイロットは操縦席の窓から脱出。
 最後の乗客群が後部ドアから出て、機体を背に数十メートル走って逃げたころで、胴体直下から左翼の第一エンジン側へ大音響とともに引火、爆発し、機体中央部が「く」の字に折れ激しく炎上した。
 これほど大きな事故で死亡者が出なかったのは不幸中の幸いで、奇跡に近い。
しかし、これほど大きな航空機の爆発炎上事故に那覇空港は消防への通報連絡はしていなかった事が判った。
 たまたま瀬長島にいた非番の消防士からの119番通報で那覇消防本部は独自に事態を把握。那覇消防から、那覇空港事務所に電話して確認し、非番を含めた全職員を緊急呼び出しすとともに、豊見城市、浦添市、糸満市、島尻、東部の五消防に連絡し、応援を受け消火救難活動に当たった。
現場では、最初に那覇空港事務所や航空自衛隊の化学消防車が消火活動を始めた。乗員が機内に取り残されているとの情報が錯綜し、那覇市消防本部の特別救助隊が鎮火前と後の二回、機内に突入して誰もいないことを最終確認した。
 那覇市消防本部の仲田敏也副消防長は「航空機の火災は特殊。水では消せないので、泡状の化学消火剤で火を覆い、窒息消火した」と説明。
 事故機のボーイング737―800型は米ボーイング社が開発した短中距離用双発ジェット旅客機737のうち、―600、―700、―800、―900は「ネクストジェネレーション(次世代型)」と呼ばれる最新型。
今や航空機は重要な移動手段の一つであり、原因を早急に究明し二度と事故が起きない様な安全対策を講じてほしい。
事故に合われた皆さま、お見舞い申し上げます。消火救難活動に当たられた関係者の皆さま、有り難う御座いました。ご苦労様。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七夕でお墓掃除へ

2007年08月19日 18時10分43秒 | My投稿
今日は旧暦の七夕です。

約8ヶ月振りにお墓へ行くが、雑草が大分伸びているだろーと妻と息子の三人で想像しなが向いました.


案の定、お墓は雑草の中、我が家のお墓は小さなお墓である。

生きて生まれれば、今頃は多くの子供を生み育てていたでしょうが、昭和40年、この世を一目も見ずに行ってしまいました。

子供を生み育てる楽しみを知らないままの旅立ちであるが、縁が無かったとは言え、僕の子供として生まれるはずであったのだから、丁寧に祀ってあげなくてはならない。

早速3人がかりで草刈を初め、掃除をし、花を生け、線香を手向け「盆には帰ってお出で」と語りかけて家路着いた。

家から墓のある場所までは、車で30~40分の所で、近くには有名な観光地「東南植物園」もあるが、嘉手納基地の飛行コースの真下で飛行機の騒音がひどい処でもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本兵による住民虐殺記録

2007年08月18日 04時45分45秒 | My投稿
日本兵による住民虐殺記録

渡野喜屋での住民虐殺
 本部半島八重岳の戦闘(4月13~18日)で敗れた宇土部隊は、その後敗残兵となり各地に出没して住民から食糧を奪ったりした。5月には大宜味村渡野喜屋(現在の白浜)で読谷山村出身の避難民を含む数人を虐殺し、残りの避難民家族を浜辺に集め、手りゅう弾を投げ込んで虐殺した。「G2レポート」5月13日の報告は渡野喜屋での住民虐殺を次のように記している。「5月12日夜間、塩屋の渡野喜屋で曹長に率いられた日本兵10人が、住民35人を殺し、15人に負傷させる。そのほとんどが婦女子である。この集団は、その村落の指導者4、5人を連れて山に戻った」。このときの避難民は読谷山村、浦添村、那覇市などの住民だったという。生き残った人たちからの聞き取りが『沖縄戦学習のために』(安仁屋政昭著、38頁)、『沖縄県史 沖縄戦記録2』(569頁)、『浦添市史 第五巻』(290頁)などに収録されている。またドキュメンタリー「空白の戦史 沖縄住民虐殺35年」(1980年日本テレビ制作、ディレクター森口豁)では、宇土部隊の通信兵だった元日本兵が戦後沖縄を訪れ、渡野喜屋での虐殺について証言している。
 宇土隊長が米軍に投降したのは10月で、「G2レポート」10月3日の報告に次のように記されている。「辺土名と鏡地の一帯で、国頭分隊の日本軍将校12人、日本兵86人、軍夫1人が投降。国頭分隊の指揮者は、宇土武彦大佐である」。
 読谷村史編集室では、2002年8月、生き残った家族の方に電話でのインタビューに協力してもらった。以下に掲載する。

証言 (昭和16年生、女性)
 当時、私は4歳だったので何も覚えてないが、兄は8歳だったので、全部見ていたそうだ。私は20歳の時、兄から両親のことを聞いた。
 私たち家族は、当時、大宜味村渡野喜屋(現在白浜)の民家にいた。その日、父は米軍からもらったメリケン粉を皆に配っていたそうだ。おそらく日本軍は、昼間、山の上の方からそれを見ていたんだろうとのことだった。
 夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が5人来ていたそうだ。
 父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、500円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
 男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。
 幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。
 父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。
 20歳の頃、私は兄から戦争中のことを聞き、渡野喜屋(大宜味村)を訪ねた。こうこういう理由で読谷から来たと話したら、地元の方が案内してくれたが、あんまり話は聞けなかった。
 私は、現在、本土で結婚して暮らしているが、盆正月には仏壇のことが気になって毎年帰っていた。夫が「男、女ってないから仏壇を持って来なさい」と言ってくれたので、ユタを頼んで拝んでもらい、今は本土に仏壇を持ってきてある。主人はいい人だが、私は、父を殺した大和の人と同じ大和の人と結婚していることを気にしている。仏壇に向かって、いつも「こんなこんなだから許して下さい」と言って拝んでいる。

読谷村史>「戦時記録」下巻>第四章 米軍上陸後の収容所 より

※補足 1945年(昭和20年)沖縄戦最中の出来事ですが、北部では敗残兵(日本軍)による蛮行が方々で行われていた中の一つの事件であり、アメリカ兵は住民を保護、日本兵が沖縄住民を虐殺している。
 高校の歴史教科書問題は、この様な日本兵が行った蛮行の総てを揉み消すのが目的であり、史実を曲げての教育は、再び同じ間違いを起す事になる。
 正しい教育は、将来の日本を築く源では無いでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦後沖縄に幾つの飛行場が有ったの?

2007年08月17日 11時10分58秒 | My投稿
終戦後沖縄に幾つの飛行場が有ったの?その後の基地は?

僕は1944年生まれだから、記憶に有るのはの後であるが、1950年代当時の記憶を辿ると、米軍関係の飛行場は大、小合わせるとかなりあった.

沖縄本島のみの記憶ですが、北から順に書くと、
1,本部飛行場、
2,伊江島飛行場、
3,読谷飛行場、ここには2つ有った、一つは現在の読谷村役所のある所、あと一つ箇所は、ホテル日光アリビラの有る所で残波岬はミサイル基地で有った。
4,嘉手納飛行場、
5,泡瀬飛行場、
6,ハンビー飛行場、現在は商業地域として「サンエーハンビータウン」等変貌している。
7、普天間飛行場、
8、牧港飛行場(現在の浦添市)
9、西原飛行場、
10、那覇飛行場、とかなり多い、それらは米軍が使用し。日本本土爆撃の発信基地で有った様ですが、一部はそうでも無い様に思う、ハンビーは小さい飛行場で軽飛行機やヘリ基地で有った、その他にも、飛行場と呼べるかどうかは定かではないが、国頭村の桃原や、恩納村の万座毛近くに軽飛行機が離着陸していた覚えが有るが、はっきりしない、金武町の今の基地内にも有った様ですが、僕の記憶には無い、現在も使用されているのは、伊江島飛行場、嘉手納飛行場、普天間飛行場、那覇飛行場である、基地も当時と比べるとかなり減っては居るが、それでも沖縄県面積の約11%ある、日本全国に有る米軍基地の75%は沖縄に有るのが実情だが、それを知って居るのはどれだけの方であろうか?知らない方が多いのであろう!その上更に基地を押し付け様とするのはおかど違いでは無いでしょうか、夕暮れから朝までは、基地建設の為の作業は行わないと、沖縄県と約束を交わし居るにも拘らず、辺野古の海上では、密かに夜間行動で、建設準備作業を強行している、本土では報道されて居ないかも、これが日本政府の、沖縄への態度である、本土の人間は「自分達には関係無い」と見て見ぬふりしているとしか思えないのが、実情である。
歴史は見ている、沖縄は本土を守る為の捨石では無い。
二度と捨石扱いさせない運動が必要かも!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄戦の戦闘終了は何時?

2007年08月16日 14時09分19秒 | My投稿
日本守備軍が降伏 沖縄戦、公式に終了

沖縄県における戦闘の終了は、多くの方々は6月23日の「沖縄県慰霊の日」と思って居られますが、本当は何時なのか沖縄の方々も知らない方が多いのに驚きました。
 では、沖縄戦の正式な戦闘終了日は何時なのか?
現在の嘉手納基地内で当時の越来村森根で降伏文書に調印した「1945年9月7日」なのです。
では、概略を説明しますと

 日本側代表団と連合国側代表は1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本と連合国の武力による交戦状態は終結を見た。
日本の降伏調印に伴って1945年9月7日、沖縄本島を含む南西諸島の日本軍代表3人は、越来村森根の米第10軍司令部前広場(現在の嘉手納基地内)で降伏文書に調印し、沖縄における戦闘が正式に終結した。(沖縄戦の終了)
1945年9月14日以降、宮古、石垣、奄美大島、南北両大東島の日本軍は武装解除され、米軍は既に4月から沖縄本島で日本の行政権を停止し軍政を開始。南西諸島の日本軍の降伏調印によって、北緯24度以北、同30度以南の南西諸島全域を日本から分離し、米国の直接支配が始まった。宮古、八重山群島は1945年12月から軍政が施行された。
1945年9月7日の降伏文書調印で南西諸島全域で米国の直接支配が始まった。
 1945年9月2日の日本の降伏調印後、連合国軍最高司令官が日本本土、海外の日本軍の降伏相手をそれぞれ指示し、日本軍の武装解除を命じた。
米軍は1945年3月26日に慶良間諸島に上陸すると、海軍軍政布告第一号(ニミッツ布告)を公布し、日本政府のすべての行政権、司法権の停止を宣言して占領行政を開始。沖縄本島に上陸した1945年4月1日に同様の軍政布告第一号を公布し、南西諸島およびその近海と居住者に対する日本政府の一切の機能を停止。政治、行政責任は米国海軍のC・W・ニミッツ元帥に帰属すると宣言、軍政を始めた。
 1945年9月7日の南西諸島の日本軍の降伏調印後、米軍は宮古、石垣、奄美などに軍政を拡大し、南西諸島全域を直接統治、米国は軍政を敷く沖縄を、海外の戦略拠点と位置付け、既に長距離爆撃機が発進可能な飛行場を各地で建設して現在に至っている。
 
1945年6月23日牛島司令官の自決により、統制の乱れた守備軍はゲリラと化して、散発的に交戦が続けられていたのです。
1945年9月7日の降伏文書調印で正式な戦闘終了と成ったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄には火山があるの?

2007年08月15日 11時34分00秒 | My投稿
沖縄の火山

沖縄県に火山があるのを知っていますか? 
 地球の内部は高温で、大量の熱エネルギーが蓄えられています。そのエネルギーを大気中へ放出する現象が火山活動です。
  火山活動の活発な火山を『活火山』と呼び、「おおむね過去1万年以内に噴火した火山および現在活発な噴気活動のある火山」と定義しています。
  地球上には約1,500の活火山があるといわれています。そのうち日本には108の活火山があり、沖縄県には「硫黄鳥島」と「西表島北北東海底火山」の2つの火山があります。

①硫黄鳥島→硫黄鳥島(いおうとりしま)は南西諸島の島。行政区画は沖縄県島尻郡久米島町。
         火山活動度ランクCの活火山で、火山名として沖縄鳥島と呼ばれたこともある。
         沖縄県最北端に位置する硫黄鳥島は、那覇の北約200㎞(鹿児島県の徳之島の西約60㎞)に浮かぶ絶海の孤島で、現在も噴煙を上げています。約100年前の大噴火で全島民が久米島に避難・移住したため、現在は沖縄県久米島町に属する無人島となっています。
         地理 那覇市の北北東約190km、徳之島の西方約65km、沖永良部島北西約65kmに位置する。
             行政上は沖縄県であるが、奄美諸島にも近く[1]、周囲の島の行政区画は鹿児島県である。
             北部にある硫黄岳と、南部にあるグスク火山の2つの火山が接合している。
             硫黄岳は今も水蒸気を噴出する成層火山で、有史以降にマグマの噴出は確認されてない。
             グスク火山は、二重式の成層火山であり中央火口丘として溶岩円頂丘があるが、
             周囲には発火口跡があり、かすかに噴気を認める。
             島は断崖に囲まれた台地状になっており、島中央部に上るためには急峻な断崖を登らなければならない。
         歴史 琉球王国の時代には硫黄の採掘が行われ、中国への進貢貿易に用いていた。
             硫黄採掘は戦後になっても行われており、現在でもその採掘跡を認めることができる。
             1959年に噴火のおそれがあるとして、全島民が久米島へ移住。
             1967年にも噴火し、硫黄採掘の従事者も撤退。以降、完全な無人島となっている。
             久米島町にある「鳥島」の集落は硫黄鳥島から移住した人々でつくった集落である。

②西表島北北東海底火山 →海面下 北緯24度34分 東経123度56分
1924年(大正13年)10月31日に西表島の北北東約20kmの沖合で海底噴火が起こり、翌日には付近の海面一帯に多量の軽石が漂流し、その後黒潮の流れで日本各地に漂着しました。
        概 要 1924年10月31日に島の北北東約20kmの沖合で突如海底噴火、
            翌日は付近海面一帯に多量の軽石が漂流、その後黒潮の流れで日本各地に漂着。
        火山活動の記録→1924年10月31日(大正13年)海底噴火 多量の軽石が漂流。
            1991年(平成 3年)群発地震
            1月23日島の北部~沖合で地震群発開始。
            以後1992年(平成 4年)12月頃まで大きく 3回群発地震発生。
            非常に活発な群発地震で、西表測候所で多数有感。

沖縄県には火山が無いと思われて居られる方が多いと思いますが、沖縄県には二つの火山が存在しております。
火山が存在しており、当然地震も発生します。津波の被害も起きてしまいます。
過去にどの様な津波被害が有ったのか調べてみた。

明和の大津波・・・・1771年〔明和8〕年4月24日午前8時頃、八重山・宮古両諸島を襲った津波。
            低平な珊瑚礁の島々は三回も繰り返した大波に蹂躪され、未曾有の惨害を被った。
            地震の規模はM7.4〔参考までに関東大震災はM7.8〕、震源地は石垣島の南南東40キロといわれている。
            災害は石垣島の東面と南面で激甚を極め、宮良村で海抜85.4メートル、白保村で60メートル、大浜村で44.2メートル、伊原間で32.7メートル、平得村で26メートル、登野城村で12.2メートル、新川村で8.2メートルの波高を記録し、島の四か所で波が横断した。
            石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村が全壊し、石垣島の人口は、津波前で17,394名、津波後は8,910名と48%の人が死亡または行方不明となった。
            大浜では、当時の大浜の人口は、津波前で男670名、女732名の計1,402名、津波後での死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、実に91.8%の人口を失い、人口が12分の1に減少する壊滅的な被害をうけ、その後、波照間島や黒島等からの移住書が入り、現在に至っている。
1960年5月23日のチリ沖のチリ地震津波は、記憶に残る、
津波は沖縄本島中部・北部の各地,石垣島,宮古島,その他の離島に襲来したが,被害は沖縄沿岸に大きく,その他では軽微であった。本島では名護市(旧久志村,旧羽地村)石川市その他の中・北部の各地で24日05時半ころから数回にわたり津波があり06時30分ころ最高水位に達した。最高水位は大浦湾に挑む杉田で385cm(平均海面上)に達した。宮古島平良市の漲水港においても最高水位233cm(平均海面上)に達したが被害は僅かであった。全沖縄の被害を要約すると死者3人,負傷者2人,住家非住家全壊28戸,同半壊109戸,住家床上浸水602戸,同床下浸水813戸,橋梁破壊9カ所,道路決壊11カ所,田畑の冠潮436町歩,船舶(5トン未満)8隻その他である。

 過去の災害を教訓に沖縄でも地震や津波の対策が必要ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄国際大学への、ヘリ墜落事故から3年

2007年08月14日 15時11分55秒 | My投稿
沖縄国際大学への、ヘリ墜落事故から3年

 米軍ヘリ墜落事故から3年を迎えた沖縄国際大学で13日、学生や教員ら約150人が集会を開いた。
「事故を風化させず、記憶を語り継いでいこう」と事故発生時刻に近い午後2時、墜落現場付近で始まった。
 教員有志でつくる「米軍ヘリ墜落事故を考える会」は、事故翌月から三年間、毎月13日に欠かさず続けてきた集会を普天間飛行場が撤去されるまで続けると決意を新たに表明した。
 教員らは口々に「われわれに時効はない」「基地閉鎖は夢物語ではない」と声を大にして訴えていた。
同大の教員三人はそれぞれの研究室から星条旗を逆さに掲げ、抗議の意思を示した。八月末まで毎日続けると言う。
 また普天間飛行場第二ゲート前で市民集会が開かれ「基地撤去即時返還を求め」500人が抗議行動した。
米軍ヘリの沖国大への墜落事故から3年たった13日、事故に抗議する「動かせ普天間!許すな県内移設!8・13抗議集会」(主催・沖縄平和運動センターなど)が宜野湾市、真栄原の普天間飛行場第二ゲート前で行われ、労組関係者や市民ら五百人が集まり、同飛行場の即時返還を求め、県内移設反対の声を上げた。
 崎山嗣幸平和運動センター議長は「事故から3年。飛行ルートが変わっても、住宅や学校の上空で訓練が行われる。
今後も運動を強化しなければならない」と呼び掛けていた。

 普天間の危険極限と伊波市長が会見

 沖縄国際大学に米軍CH53D大型輸送ヘリが墜落した事故から満3年を迎えた13日、宜野湾市の伊波洋一市長は市役所で記者会見し、「普天間飛行場の危険性は極限状態だ。
今後も危険性が放置されることは許されない」と述べ、同飛行場の早期閉鎖・返還に引き続き全力で取り組む考えを示した。
 日米両政府が合意した同飛行場の新しい場周経路について、伊波市長は「防衛施設庁は米側の説明をうのみにしている。
住宅地上空のヘリ飛行を容認するもので、点数で評価すると零点かマイナスだ」と述べ、市が求める危険性除去策にはつながらないとの認識を示した。
 「政府の説明はフェンス内での飛行訓練が前提で、詭弁でしかない」と指摘。
「現実には、三種類のヘリによって高度や飛行ルートなどが異なっており、住宅地上空で訓練を繰り返しているのが実情である。
飛行経路をカメラで撮影し、政府の言う『安全の根拠』を示すよう求めていく」と強い語調で語った。
 今後の取り組みとしては「普天間の現状を国会レベルで訴え、米国議員にも、より深く問題を理解してもらう。
部隊をグアムに移すことが最善の方法だ」と語った。
 ケビン・メア在沖米国総領事が事故の容疑者の氏名公表に「なぜ名前を知りたいのか疑問を感じる」との認識を示したことには、「私たちの思いを受け止めていない。県民感情を逆なでしている」と批判した。
 アメリカは、自分達が加害者と認識が無い様に感じられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪雨沖縄各地で被害

2007年08月12日 21時21分32秒 | My投稿
豪雨沖縄各地で被害
 沖縄地方は10日から11日にかけて、気圧の谷の影響で雷を伴う記録的な豪雨が続いた
「台風でもないのに、こんなに降るなんて…」「水がこんなに、あふれるのは初めて」。十日から降り続く大雨と突風に、被害に遭った人たちは驚きや戸惑いを見せた。増水した川の水が住宅地に流れ込んだ所や、冠水した道路で立ち往生した車に一時閉じ込められた人もあった。崩れてきた土砂が車庫や車を押しつぶし、民家に迫り、道路を寸断。空や海の便も一部で影響が出た。降りやまない雨に不安を募らせ避難している人たちも出ている。
 沖縄本島地方は11日、東シナ海の熱帯低気圧と南西や南の海上にある熱帯低気圧の谷間の影響で県内各地で大雨が続いた為に本島各地で土砂崩れや家屋浸水、車両水没などの被害が相次いだ。
 24時間降水量として、年間を通しては2番目、8月では観測史上最高となる421ミリの豪雨となりました。
沖縄県内全体では避難の指示や勧告が少なくとも119世帯に出された。
 沖縄県警によると、土砂崩れが県内12カ所で起きた。本部町並里の県道84号が全面通行止めとなったほか、中城村津覇で1世帯が避難、北谷町上勢頭で土砂に車両1台が埋まるなど道路冠水で水没で動けなくなった車両の被害が出ている。
 床上や床下の家屋浸水は那覇市牧志や首里石嶺町、大道、今帰仁村の仲宗根と湧川、南城市玉城字百名などで発生。
少なくとも34棟の建物が被害に遭い、避難している住民も多い。
 航空会社の離着陸便にも欠航や遅延が生じた。
沖縄自動車道でも那覇―石川の上下線で全面通行止め、那覇空港道でも西原JCT―南風原南の上下線で通行止め、国道58号でも砂辺―嘉手納マリーナが冠水のため交通規制が敷かれた。
 地球規模の天候異変、天災か自然現象か、何れにしろ困ったもんだ。!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終日激しい雨

2007年08月11日 23時52分41秒 | My投稿
今日は朝から激しい雨、雨、雨である。
台風時以外に、こんなに激しく降る雨は沖縄県でもまれである。
那覇市の安里では、降り過ぎた雨水で道路が冠水、床上浸水の被害、駐車車両の水没被害がかなり出た。
沖縄気象台は
「低地での浸水や河川の増水、はん濫、土砂災害に警戒し、
高波や強風、落雷、突風、高潮にも注意が必要です。 
本島地方では、発達した積乱雲の下での
落雷や突風に注意して下さい。
本島地方や先島諸島では、気圧の傾きが大きく、
南よりの風が強く吹き、本島地方と与那国島地方では、
非常に強い風が吹く見込みです。
引き続き曇りや雨の荒れた天気で、
所により雷を伴い非常に激しく降るでしょう。」
との、警戒予報も久しぶりにでた。
此れはやはり、温暖化の影響なのか心配だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間抜けなブロガーですが

2007年08月10日 11時22分55秒 | My投稿
BLOG挑戦したものの、今一使い方が判らず右往左往の連続、いじりまわしてようやく記事が書けたが、書き込みされた方への返事が出来ない、
何処にどう書けば、書き込みされたご本人様へ届くのか、
まったく違う方に届いてしまっては失礼だし、
 今まで幾度と無くBlog開設前には、他の方々のBlogを見てきたので、直ぐにも出来そうで有ったが、何故か難しい。
 無料のHPでは、直ぐに返事がダイレクトに出来るのだが、Blogでは、度とにどう書けばダイレクトにご本人様へ届くのか、
 初めてに方へ使い方ガイドを読んでも判らない、
其の内慣れると出来ると思いますが、コメントを書いて下さった方々には失礼だし。
 コメントを下さいました、皆様、その様な理由でなかなか思う様に行かず失礼しております事をご理解とお許し下さいね。
 http://mizunomai.gaiax.com/home/tom1944
の掲示版(BBS)にでも書いて下されば、ご返事が出来ます。
 間抜けなブロガーですが、今後とも気長にご指導ご教示をお願い致します。
沖縄県の沖
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の昼の食事は、

2007年08月09日 23時31分42秒 | My投稿
今日の我が家の昼食は「ゴーヤーと麩」を使った「ゴヤー麩チャンプルー」です。
植物性たんぱく質の麩、チャランチン、カロチン、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄、ビタミン
C、ナイアシン、葉酸、パントテン酸、 共役リノール酸、食物繊維、モモルデシチン等が豊富に含んでいるゴーヤーの料理で健康やダイエットに最高な食事ですよ。
 外食の時には「ゴヤーチャンプルー」か「フーチャンプルー」を良く頼みます。
特に「ゴヤーチャンプルー」は名護市の東海岸、汀間にある「さらばんじ」が一番美味しいです。
僕は料理は出来ませんが、食べるのは上手ですよ、、、ハイ、、
作り方を簡単に説明します。
それぞれの家庭によって味に違いはあると思いますが、
我が家の一番簡単な方法は
1 麩を水に戻してやわらかくし、手でよく麩を絞ります。
2 卵を解きほぐし麩をいれて数分漬け込みます。(卵を解きながら塩で下味をつける。)
3 フライパンに油を引いて上の卵に付け込んだ麩を炒め、炒めた卵麩は別に取って置きます。
4 フライパンに油を引いてキャベツ・もやし等(他の野菜類でもOK)をさっと炒めます。
  サバ缶とかコンビーフ・にら等を加えて炒め、別に取って置いていた炒めた卵麩を加えます。
  だしとか醤油等で全体的に味付けします。(好みで調整してください。)
はい、出来上がりです。
材料は人数により調整して下さい。
沖縄では、材料は家庭により違いますので、皆さんも色々と試してみては如何でしょうか。
沖縄では、夏のスタミナ料理の一つです。
料理の出来ない小生の説明では判り難かったと思いますが、何事もチャレンジが大切と思いか居てみました。
我が屋の奥様は料理が旨いです。最後はおのろけでご免なさい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする