宮森小学校米軍機墜落事故
1959年6月30日にアメリカ占領下の沖縄の石川市(現・うるま市)で発生したアメリカ空軍機の航空事故である。
事故の概要
1959年6月30日午前10時40分頃に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットは空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。
事故直後から軍警消の各部隊が事故現場に急行し救助活動に当たった。
被害者の治療のために沖縄本島中部在住医師のほとんどが駆けつけた。
事故による火災は1時間後に鎮火したが、 死者17人(小学生11人、一般住民6人)、 重軽傷者210人、 校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、 校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。
事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。
当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。
特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、 火だるまになった子供達は水飲み場まで走り、 そのまま次々と息絶えたと伝えられている。
事故の原因
事故を起こした米軍機は、事故直前に中華民国(台湾)で整備が行われた後、沖縄の嘉手納基地に戻って整備不良が発見されたため、整備し直して試験飛行している最中に操縦不能に陥った。
米軍機は機首を人家のない丘陵地帯に向けた後、操縦士はパラシュートで脱出した。
ところが事故機は右に旋回したため宮森小学校に墜落した。
墜落直前に50kg爆弾を海上投棄していたことが、1999年になって判明した。
事故の補償
事故直後から全沖縄で反米感情が高まり、折りしも米軍による土地接収が強行されていた時期と重なって激しい抗議行動や補償要求が行われた。
また当時の市長は賠償交渉を円滑に進める意図で事故の復旧に貢献したとして米軍に感謝状を贈っている。
米軍はこの事故の補償として総額11万9066ドルを支払った。
死者は4500ドル、重傷者は障害に応じて2300~5900ドルが支払われた。
ただしこの額は被害者側の要求の1割程度に過ぎない。
沖国大米軍ヘリ墜落事件
2004年8月13日に在日米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した事件である。
事故の概要
2004年8月13日午後2時15分頃、アメリカ軍普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターCH-53Dが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落、炎上した。
搭乗していた乗員3名は負傷したが、1号館内にいた大学職員20数名、他民間人に負傷者は出なかった。
この墜落事故により同大学は電話・インターネット回線等を切断され、また接触した1号館はローターによる損傷と炎・ススによる被害を受け、またその周辺の木々も焼かれてしまった。
このため一号館は、翌2005年7月30日までに取り壊され(その後汚染土壌も除去された)、2006年11月11日に再建工事が竣工した。
沖縄県で住宅地にアメリカ軍のヘリコプターが墜落したのは1972年の復帰後初めてのことであった。
近くの民家やガソリンスタンド、保育所などにヘリコプターの部品が落下したこともあり、事故に対しては宜野湾市をはじめとした沖縄県内の各方面から非難が相次いだ。
墜落直後の米軍の対応
事故直後、消火作業が終わった後にアメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者が現場に一切立ち入れなかったことも反発を招いた。
さらに当該機のローターブレードには氷結などによる亀裂・劣化を検出するために放射性物質であるストロンチウム90が1個ずつ(CH-53のローターブレードは6枚なので合計6個)のステンレス容器に納められており、そのうちの1つが今回の事故で機体の燃焼により損壊し放射能汚染を引き起こした疑いが持たれている。
ただし、米国大使館は報道機関に対して、ストロンチウム90は機体の燃焼、熔解で気化した可能性が高いと回答している。
そして、アメリカ軍によって土壌や機体は回収されてしまったことで詳細を解明することは困難になった。
事故の原因
日米合同の事故分科委員会は、「回転翼の後部ローターを接ぐボルトに重要な部品を装着していなかった整備ミスが事故発生の原因である」との調査報告書を提出した。
アメリカ側は整備員がヘリコプターの回転翼の角度を調節する駆動部と油圧システムとを接続するボルトに装着すべきコッター・ピン(くさび状のピン)の取り付けを怠ったため、飛行中にそのボルトが抜け落ち、後部の回転翼が操縦不能に陥ったと説明している。
事件後
事故からおよそ1か月後の9月12日には事故現場の沖縄国際大学で抗議集会が行なわれ、主催者発表で3万人が参加した。
これは、1995年10月に開催された沖縄米兵少女暴行事件抗議県民総決起大会(8万5千人参加-主催者発表)以来の大規模なものであった。
事件はSACO合意に基づく普天間基地の辺野古への移設や、V-22配備に反対する世論を強めることになった。
事件発生時の米軍による規制によって、大学関係者や宜野湾市当局はおろか沖縄県警察すらも現場に入れない状況が続いた。
そのため、日本の施政権・大学の自治を侵害する事件であるとして、大学関係者のアメリカ軍への抗議は2010年現在も続いている。
沖縄県警察は航空危険行為等処罰法違反で、公訴時効いっぱいの3年間捜査を行なったが、日米地位協定の壁に阻まれ全容解明はならなかった。
2017年8月、乗員のアメリカ海兵隊軍曹ら4人を氏名不詳のまま書類送検したものの、同月10日、那覇地方検察庁はその全員を不起訴処分とした。
1959年6月30日にアメリカ占領下の沖縄の石川市(現・うるま市)で発生したアメリカ空軍機の航空事故である。
事故の概要
1959年6月30日午前10時40分頃に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットは空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。
事故直後から軍警消の各部隊が事故現場に急行し救助活動に当たった。
被害者の治療のために沖縄本島中部在住医師のほとんどが駆けつけた。
事故による火災は1時間後に鎮火したが、 死者17人(小学生11人、一般住民6人)、 重軽傷者210人、 校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、 校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。
事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。
当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。
特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、 火だるまになった子供達は水飲み場まで走り、 そのまま次々と息絶えたと伝えられている。
事故の原因
事故を起こした米軍機は、事故直前に中華民国(台湾)で整備が行われた後、沖縄の嘉手納基地に戻って整備不良が発見されたため、整備し直して試験飛行している最中に操縦不能に陥った。
米軍機は機首を人家のない丘陵地帯に向けた後、操縦士はパラシュートで脱出した。
ところが事故機は右に旋回したため宮森小学校に墜落した。
墜落直前に50kg爆弾を海上投棄していたことが、1999年になって判明した。
事故の補償
事故直後から全沖縄で反米感情が高まり、折りしも米軍による土地接収が強行されていた時期と重なって激しい抗議行動や補償要求が行われた。
また当時の市長は賠償交渉を円滑に進める意図で事故の復旧に貢献したとして米軍に感謝状を贈っている。
米軍はこの事故の補償として総額11万9066ドルを支払った。
死者は4500ドル、重傷者は障害に応じて2300~5900ドルが支払われた。
ただしこの額は被害者側の要求の1割程度に過ぎない。
沖国大米軍ヘリ墜落事件
2004年8月13日に在日米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した事件である。
事故の概要
2004年8月13日午後2時15分頃、アメリカ軍普天間基地所属の大型輸送ヘリコプターCH-53Dが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学1号館北側に接触、墜落、炎上した。
搭乗していた乗員3名は負傷したが、1号館内にいた大学職員20数名、他民間人に負傷者は出なかった。
この墜落事故により同大学は電話・インターネット回線等を切断され、また接触した1号館はローターによる損傷と炎・ススによる被害を受け、またその周辺の木々も焼かれてしまった。
このため一号館は、翌2005年7月30日までに取り壊され(その後汚染土壌も除去された)、2006年11月11日に再建工事が竣工した。
沖縄県で住宅地にアメリカ軍のヘリコプターが墜落したのは1972年の復帰後初めてのことであった。
近くの民家やガソリンスタンド、保育所などにヘリコプターの部品が落下したこともあり、事故に対しては宜野湾市をはじめとした沖縄県内の各方面から非難が相次いだ。
墜落直後の米軍の対応
事故直後、消火作業が終わった後にアメリカ軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者が現場に一切立ち入れなかったことも反発を招いた。
さらに当該機のローターブレードには氷結などによる亀裂・劣化を検出するために放射性物質であるストロンチウム90が1個ずつ(CH-53のローターブレードは6枚なので合計6個)のステンレス容器に納められており、そのうちの1つが今回の事故で機体の燃焼により損壊し放射能汚染を引き起こした疑いが持たれている。
ただし、米国大使館は報道機関に対して、ストロンチウム90は機体の燃焼、熔解で気化した可能性が高いと回答している。
そして、アメリカ軍によって土壌や機体は回収されてしまったことで詳細を解明することは困難になった。
事故の原因
日米合同の事故分科委員会は、「回転翼の後部ローターを接ぐボルトに重要な部品を装着していなかった整備ミスが事故発生の原因である」との調査報告書を提出した。
アメリカ側は整備員がヘリコプターの回転翼の角度を調節する駆動部と油圧システムとを接続するボルトに装着すべきコッター・ピン(くさび状のピン)の取り付けを怠ったため、飛行中にそのボルトが抜け落ち、後部の回転翼が操縦不能に陥ったと説明している。
事件後
事故からおよそ1か月後の9月12日には事故現場の沖縄国際大学で抗議集会が行なわれ、主催者発表で3万人が参加した。
これは、1995年10月に開催された沖縄米兵少女暴行事件抗議県民総決起大会(8万5千人参加-主催者発表)以来の大規模なものであった。
事件はSACO合意に基づく普天間基地の辺野古への移設や、V-22配備に反対する世論を強めることになった。
事件発生時の米軍による規制によって、大学関係者や宜野湾市当局はおろか沖縄県警察すらも現場に入れない状況が続いた。
そのため、日本の施政権・大学の自治を侵害する事件であるとして、大学関係者のアメリカ軍への抗議は2010年現在も続いている。
沖縄県警察は航空危険行為等処罰法違反で、公訴時効いっぱいの3年間捜査を行なったが、日米地位協定の壁に阻まれ全容解明はならなかった。
2017年8月、乗員のアメリカ海兵隊軍曹ら4人を氏名不詳のまま書類送検したものの、同月10日、那覇地方検察庁はその全員を不起訴処分とした。