福岡で発生した飲酒運転による兄弟3人死亡事件の公判で、遺族の写真がプロジェクターで法廷に映し出され、検察官が兄弟の母の供述調書を読み上げて涙した。その調書の中で検察官は、母に「絶対に(最高刑の懲役)25年の刑が下されることを確信しています。一年でも短ければ犯人を私が殺します」と言わしめた…光市事件にも通じる「遺族の被告人への感情至上主義」は、結局、本来、取るべき対策を免れるためのものでしかないことが、はっきりしたと思う。
飲酒運転、危険ですよね、私も一度、完全にふらふらしてきた車にはねとばされそうになった覚えがあります。いや、もう、歩道に乗り上げてこんばかりの勢いで、本当に怖かった。ですから、飲酒運転に対する怒りは、もっともだと思う。飲酒して運転すれば、まさに走る凶器です。
しかし、では、飲酒運転が繰り返されるのはなぜか、それは、簡単、飲酒運転ができるような車が売られているからだ。今の技術を持ってすれば、①呼気のアルコール濃度、②運転の際のハンドル操作の異常さ(ふらふら運転)を検知して、強制的にスピードを緩めて停止する装置を設けるくらいのことは簡単だと思う。
このような装置を付けることは、飲酒運転での事故を起こした際の刑を厳しくするよりもよほど効果があるし、そのような装置を付けることは、本来、何らの不利益もないはずだ。
それにもかかわらず、いまだに、走る凶器と化すことを許している…。
私は、本来、3人の父母が叫ぶべきは、なぜ、飲酒運転のできる車を販売するのか!直ちに、そういう車を売れないような法律をつくってほしい!…ということだと思う(そういう訴えも同時に行っているのかもしれませんが…)。
それにもかかわらず、事件を担当した検察官は、飲酒運転をした被告人にすべての罪を負わせて、社会の非難の対象とするかのうような調書を作成し、涙しながら朗読する。こんなことをしても、飲酒運転をする人全員が飲酒運転をやめるはずはないのに…。
てなことを書くと、包丁だって凶器になるのだから、要はやっぱり使う側の問題ではないかなどと反論する人がいる。果たしてそうだろうか。
包丁を使っていて、過失で自分の指を切ることはあっても、人の体を刺すことはないよね。ここが肝心です。
車は、過失で簡単に人を殺すことができるのです。普通の市民が日常的に使用するもので、そういう商品、過失で人を殺してしまう商品、はほかにあるだろうか?
車を運転する人は、だれも、そう飲酒運転する人も、人を傷つけようと思って車の運転をするわけではない。大丈夫だ、そう思うから車の運転をするわけだ。
そうそう、飲酒運転だけではない。疲労による居眠り運転、こっちの方が分かりやすいかもしれない。疲れていても、ちょっと無理をして乗ってしまうことはあるはずです。そのとき、自分が人を殺すことになるかもしれないから、運転を控えようと思うでしょうか?レジャーからの帰りを急いだり、納期に間に合わせるために、疲労運転をすることはないわけではない。
この疲労運転を撲滅することも、簡単だ。疲労運転も、ハンドル操作が異常になるのだから、それを検知したら、速度を落として、停止するような装置を付けることはできる。
そういう車を作らないのは、①コストの問題、②そういう車は売れなくなる(呼気を感じる装置のぶさいくさ…などなどの理由で)…からだろう。
ようやく、【政府は飲酒運転防止策として、飲酒運転の常習者に対し、アルコールを検知するとエンジンがかからなくなる装置「アルコール・インターロック」の自動車搭載を義務づける方向で検討に入った。
準備作業として、内閣府が来年度予算の概算要求に、インターロックの飲酒運転防止に対する有効性の実証実験のための費用を盛りこむ】(読売)という流れが出てきたが、これだって、飲酒運転の常習者を対象としたものにすぎない。なぜ、あらゆる車にこの装置を付けようとしないか、私には理解できない。
世界一の車生産台数を誇る某メーカーをはじめとする車メーカーは、飲酒運転による犠牲者の上に、いや、年間死亡者一万人という犠牲者らの上に、現在の繁栄がある…敵は、●●にあり!
光市の事件だって同じことだ。家庭内暴力で母が自殺した一家、この異常な事態を放置するのではなく、何らかの形でフォローし、残された家族ができるだけ健やかに生活をすることができるようにすること、本来は、ここへ焦点があてられるべきであるにもかかわらず、犯人憎しでガス抜きされている…。
何が根本的な対策かに目をふさぐ、被告人=大悪人の風潮は、決して、市民にとって歓迎すべきことではない。
まったくテーマは変わりますが、メディアの問題もおなじこと…人頼りの改善ではなく、システムを変えないと…
↓
「図解!これがとことん不自由な日本のメディアの全容だ~先進国とは思えない国辱的な非民主的システム」 http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/59df2623d2dbe2c0c3569bd9862508df
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
※このブログのトップページへはここ←をクリックして下さい。過去記事はENTRY ARCHIVE・過去の記事,分野別で読むにはCATEGORY・カテゴリからそれぞれ選択して下さい。
また,このブログの趣旨の紹介及びTB&コメントの際のお願いはこちら(←クリック)まで。転載、引用大歓迎です。なお、安倍辞任までの間、字数が許す限り、タイトルに安倍辞任要求を盛り込むようにしています(ここ←参照下さい)。
飲酒運転、危険ですよね、私も一度、完全にふらふらしてきた車にはねとばされそうになった覚えがあります。いや、もう、歩道に乗り上げてこんばかりの勢いで、本当に怖かった。ですから、飲酒運転に対する怒りは、もっともだと思う。飲酒して運転すれば、まさに走る凶器です。
しかし、では、飲酒運転が繰り返されるのはなぜか、それは、簡単、飲酒運転ができるような車が売られているからだ。今の技術を持ってすれば、①呼気のアルコール濃度、②運転の際のハンドル操作の異常さ(ふらふら運転)を検知して、強制的にスピードを緩めて停止する装置を設けるくらいのことは簡単だと思う。
このような装置を付けることは、飲酒運転での事故を起こした際の刑を厳しくするよりもよほど効果があるし、そのような装置を付けることは、本来、何らの不利益もないはずだ。
それにもかかわらず、いまだに、走る凶器と化すことを許している…。
私は、本来、3人の父母が叫ぶべきは、なぜ、飲酒運転のできる車を販売するのか!直ちに、そういう車を売れないような法律をつくってほしい!…ということだと思う(そういう訴えも同時に行っているのかもしれませんが…)。
それにもかかわらず、事件を担当した検察官は、飲酒運転をした被告人にすべての罪を負わせて、社会の非難の対象とするかのうような調書を作成し、涙しながら朗読する。こんなことをしても、飲酒運転をする人全員が飲酒運転をやめるはずはないのに…。
てなことを書くと、包丁だって凶器になるのだから、要はやっぱり使う側の問題ではないかなどと反論する人がいる。果たしてそうだろうか。
包丁を使っていて、過失で自分の指を切ることはあっても、人の体を刺すことはないよね。ここが肝心です。
車は、過失で簡単に人を殺すことができるのです。普通の市民が日常的に使用するもので、そういう商品、過失で人を殺してしまう商品、はほかにあるだろうか?
車を運転する人は、だれも、そう飲酒運転する人も、人を傷つけようと思って車の運転をするわけではない。大丈夫だ、そう思うから車の運転をするわけだ。
そうそう、飲酒運転だけではない。疲労による居眠り運転、こっちの方が分かりやすいかもしれない。疲れていても、ちょっと無理をして乗ってしまうことはあるはずです。そのとき、自分が人を殺すことになるかもしれないから、運転を控えようと思うでしょうか?レジャーからの帰りを急いだり、納期に間に合わせるために、疲労運転をすることはないわけではない。
この疲労運転を撲滅することも、簡単だ。疲労運転も、ハンドル操作が異常になるのだから、それを検知したら、速度を落として、停止するような装置を付けることはできる。
そういう車を作らないのは、①コストの問題、②そういう車は売れなくなる(呼気を感じる装置のぶさいくさ…などなどの理由で)…からだろう。
ようやく、【政府は飲酒運転防止策として、飲酒運転の常習者に対し、アルコールを検知するとエンジンがかからなくなる装置「アルコール・インターロック」の自動車搭載を義務づける方向で検討に入った。
準備作業として、内閣府が来年度予算の概算要求に、インターロックの飲酒運転防止に対する有効性の実証実験のための費用を盛りこむ】(読売)という流れが出てきたが、これだって、飲酒運転の常習者を対象としたものにすぎない。なぜ、あらゆる車にこの装置を付けようとしないか、私には理解できない。
世界一の車生産台数を誇る某メーカーをはじめとする車メーカーは、飲酒運転による犠牲者の上に、いや、年間死亡者一万人という犠牲者らの上に、現在の繁栄がある…敵は、●●にあり!
光市の事件だって同じことだ。家庭内暴力で母が自殺した一家、この異常な事態を放置するのではなく、何らかの形でフォローし、残された家族ができるだけ健やかに生活をすることができるようにすること、本来は、ここへ焦点があてられるべきであるにもかかわらず、犯人憎しでガス抜きされている…。
何が根本的な対策かに目をふさぐ、被告人=大悪人の風潮は、決して、市民にとって歓迎すべきことではない。
まったくテーマは変わりますが、メディアの問題もおなじこと…人頼りの改善ではなく、システムを変えないと…
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★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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通常、交通事故の供述調書は車は何キロで走行させていたとか、子供はシートベルトを着けいていたかとか、後続車の状況を認識していたかとか、事故が起きた時に認識していた事実の陳述だと思います。
報道ではこういった部分を省略してのものかもしれませんが、通常の刑事裁判でもこんなに遺族の感情部分を供述調書なり証言で展開するものなのでしょうか?今回のまさにショーアップされた検察側のやり方に非常に違和感を感じます。被害者の供述調書の形を借りた刑事裁判に直接参加する被害者参加制度の事前実行そのものだと思います。
第2パラグラフ以降は弁護士らしい知見をご披露いただけるものも期待したいです。
# 核弾頭つき巡航ミサイルを装着したB-52にもアルコール検知に連動した操縦制御装置は付いていません。
光市関連の記事からこちらにたどり着き、時々拝見させてもらっています。
私現在大学院生で、自動車のシステムについての研究をしているものです。
そういった観点から今回の記事に少し疑問を感じましたので、コメントさせていただきます。
飲酒運転させない車は簡単につくれる、といったお考えのようですが、実はけっこう難しいものだと思います。
たとえば、検知をどのように行うか。
自発的にどこかに息を吹きかけてもらうなどのシステムでは、意味をなしませんよね。
(酒を飲んだのに運転しようとする人がそんなことはしてくれないでしょうし)
では、その場に座っているだけで空気中のアルコールを検知するシステムはどうでしょう。
これだと、検知の制度によっては酒を飲んだ家族を迎えに行くことすらできなくなってしまう可能性があります。
そして、そのバランスは口で言うほど簡単ではありません。
疲労などの異常運転の検知の研究も、実際に行われていますが、そもそも運転するのが人間のため、「どこからが異常運転」で「どこまでが異常運転」なのかの境目は難しいところです。
間違った場面で、自動で急ブレーキなどを掛けて逆に事故が起こってしまった場合、きっと責任は車会社に問われるでしょう。
車会社が、運転に介入することにあまり積極的でない背景にはこういった面もあると思います。
もちろん、コストという面もあるでしょう。
これが万人に対して等しいコストであれば、いいと思いますが、そもそも飲酒運転は法律で禁止されているわけです。
そういった「法律すら守れない人」の対策のために、車全体のコストが上がることを消費者が納得するには時間がかかるのでないでしょうか。
長い上にまとまりのない文章になってしまい申し訳ありません。
もちろん、車のほうで対策できるものどんどんやっていかなければならないでしょうし、いずれは飲酒運転できない車も開発されるでしょう。
ただ、私としてはやはり
>車を運転する人は、だれも、そう飲酒運転する人も、人を傷つけようと思って車の運転をするわけではない。大丈夫だ、そう思うから車の運転をするわけだ。
の、「飲酒運転」をしても「大丈夫だ」と思ってしまう「人」のほうにこそ問題があると思ってしまいます。
今の技術ならできるはずだ!と仰いますが、そういうもんでもないんです。
コストの問題も一理あるんですが、ハンドルのブレだけでは、個人の癖や路面状況もありますので判定が難しいです。
また呼気や車内のアルコール濃度で判定する方法も考えられていますが、個人差や機械の精度、香料や化粧品に含まれているアルコール類(飲用のエタノールではないです)との誤作用防止など課題が多いのが現実です。
さらに、異常運転が確認されたら車速を減速すればいい、とありますが、単純に減速したら逆に追突事故が発生します。事故を減らすつもりが事故を招いてしまっては本末転倒です。
同様の事が地震速報でも問題視されていますね。
やはり、飲酒運転はリスキーだという事を周知させる方が得策であると思います。検問を増やすとか、即免停にするとか。
光市事件にちょっと触れてるので、この件に関して疑問があります。
橋下弁護士は懲戒請求の件に関して「僕と、カルト集団弁護士の決定的な違いは、被害者や国民に対しても配慮するかどうかという点」と述べています。
これは弁護士として正しいのでしょうか?
つまり、弁護士は「被告のため」だけ、言い換えると「裁判のために」弁護するのか、それとも「社会を見据えて」弁護するのか、弁護士の理念としてどちらが正しいのかとても気になります。
光市の遺族が
「自分の手で殺す」といっていたとこ見たことあるとでも?
ないでしょう?
光市の問題が何かまったく理解してない証拠。
まず
家庭内暴力が問題っていうのはあまりにも問題をシンプルにしすぎですよ。
確かにそのトラウマでもう普通でなくなったのかもしれない。そして、アフターケアー(アフターフォローはなどという言葉はありません)はもちろんあなたが言うとおり必要ですしみんなが目を瞑っている。社会がほっといてるというのも事実。
しかしね
母親が家庭内暴力で自殺した人達皆が見かけた女を強姦しにいって、暴れたから殺してその「死体」を強姦して、その場で泣いてる赤ん坊を殺してますか?
していないでしょう?
それだけではなく、家庭内暴力自殺だけで犯罪が正当化されるというのなら社会はだめになってしまいます。法的にその罪に与えるべき刑を執行しない理由に使うなどもってのほか。
ちなみに、加害者の少年が友人に書かれた手紙を読んだことありますか?ないのだったら読むことをすすめますよ。
死刑反対者であるのならその権利はあるし、私も死刑は間違ってる部分はたくさんあると思っている。
しかしね、
死刑が極刑だという現実がある。
法律上そうなのだから今は仕方がない。
最高裁が「未成年者という理由で刑を決めるのは間違っている」と判断した。
そこで、差し戻しをされ、今裁判となっている。
弁護している人の死刑回避を狙うのは当然。
それが問題ではないのです。
もうあの弁護団は
「これは加害者の人権のための弁護」というようなことを言っていましたね。
罪を認めている加害者を弁護するということは常識的に言えば、「加害者の刑をいかに軽くするか」ということです。
その上、この裁判は人権侵害についての裁判ではない。
これがどういうことかもうおわかりですね?
つまり、この裁判について弁護団は「死刑廃止のプロパガンダ」だと公言しているようなものです。法廷をポリティカルプロパガンダに利用するなど弁護士として最低。弁護士という職業の悪用です。そうして、平然とそれを公言する。
懲戒免職にする理由にはあたるでしょうね。
世間の人が怒っていることは少年自身のことよりもこのことなんですよ。
私自身は、今回の被告人の「飲酒はしていたが正常な運転が出来る状態だった」との発言で「正常な運転が出来る状態で立ち去ったのなら、被害者の車が転落し運転者が溺死してもいいという判断をしたのだから『未必の故意による殺人』」という形になり殺人罪が適用されると思うのですが、ガスが抜けてるのではなくたまっていく気持ちです。
所詮、農産物完全自由化に向けて農協・農村潰しに農相のスキャンダルを積極運営・活用し!社保庁民営化で過去の4割不良債権化他政府の遣込みに口を拭わせる為の「職員を牢屋へ!」大合唱など、末期症状の自民の政治ったら、そんなモン。
人を貶めて更に不幸には突き落としますが、救ったり助けたり幸福にしたりはしません。
「犯人を私が殺します」という遺族の言葉をいとも簡単に報道していいのか疑問です。近年犯罪被害者の権利向上で犯罪被害者の発言がよく報道されるようになりましたが、加害者への憎しみを報道してばかりでは犯罪被害者対策が厳罰化一辺倒になりがちだと思います。
報道したマスコミにはきちんとフォローをしてほしいのですが。