裁判員制度の評決を巡って、裁判所と一部の弁護士の間で解釈が割れて、東京新聞を舞台として、ちょっとした騒動になっている。そもそも、【裁判員裁判は、プロの裁判官三人と一般から選ばれた六人の裁判員によって審理が進められ】、【最後に多数決で評決が行われる】。その際、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」67条1項によると、「評議における裁判員の関与する判断は、(中略)構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による」されている。
そもそも、この【条文の趣旨は、有罪の評決をする場合は「有罪意見が過半数で、その中には裁判官と裁判員の双方が含まれることが必要」ということ。仮に一般の裁判員六人全員が有罪を主張しても、裁判官が一人も含まれないときは有罪は成立せず、無罪となる】というものだ。つまり、感情やテレビ・新聞の報道
に影響されやすいとされる裁判員=普通の市民=の一方的な判断から、被告人を守るための制度であるように読めるわけだ。
しかし、【裁判員制度に反対する高山俊吉弁護士らは、その逆のケースを示して別の解釈をする。「仮に裁判員六人が無罪で、裁判官三人が有罪の場合、条文をそのまま読むと、無罪が過半数でも裁判官の意見が含まれないので、無罪にも有罪にもならずに評議は成立しない。だれかが意見を変えるまで評議を続けることになる」】というのだ。
つまり、「無罪にも有罪にもならないから、もっと議論をしましょう」ということになり、プロの裁判官と違って、長引くことを恐れる裁判員=(仕事を持っていたりする普通の市民)から、脱落者が二人出て、結局、有罪になってしまうのではないか?という素朴な疑問だ。
これに対し、【法務省の担当者はこの解釈を真っ向から否定した上で、「当然、無罪になる」と説明する。「六七条にある『評議の判断』とは、有罪か無罪かではなく、『検察官が有罪を証明できたかどうか』。裁判官三人が有罪意見でも過半数ではないのだから、犯罪の証明がないとして無罪となる」】というのだ。
つまり、評決によって、有罪という判断がなされない以上は、全て無罪となるのだから、問題ないということなのだ。
法務省は、わざわざ、HPで取り上げ、
【最近,報道されたところによりますと,「裁判員裁判の評決において,裁判官3名と裁判員1名が被告人は有罪であるとの意見であり,裁判員5名が被告人は無罪であるとの意見である場合,裁判員法67条1項の規定(「・・・評議における裁判員の関与する判断は,・・・構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による。」)のため,被告人は無罪であるという判断をすることができない。」という誤解をしている方がいらっしゃるようです。
しかしながら,上に挙げられた例の場合には,被告人は無罪とされることになります。
一般に,刑事裁判においては,犯罪の証明があったと認められる場合に有罪とされ,その証明があったとは言えない場合に無罪とされますので,判断の対象となるのは,犯罪の証明があったかどうかということになります。したがって,この場面において,裁判員法67条1項の規定により,構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見によらなければならないとされるのは,この犯罪の証明があったという判断についてなのです。
そして,上の例の場合,裁判官3名と裁判員1名が,犯罪の証明があり,被告人は有罪であるという意見ですが,この意見は,裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の過半数の意見ではないのですから,犯罪の証明があったとは認められないことになります。したがって,被告人は無罪とされることになるのです。】
と解説している。
しかし、それなら、なぜ、条文にその旨明記しないのか?【反対派の同弁護士だけでなく、元裁判官の学者や裁判員制度に賛成する弁護士の中にも「六七条は意味が通りにくく不親切だ。評決不能という解釈の余地もある。裁判員が誤解しないように明文化すべきだ」という指摘が出ている】というが、当然の疑問だ。
私は、権力との関係では常に、権力がヒトラーのような人物であっても制御が利く制度にしておく必要があると考えています。
ですから、今回の条文解釈を巡る件についても、次のような場面を想定します。
ある事件の評議の最中、裁判官側は3人とも「有罪」の心証を持ち、裁判員側は5人とも「無罪」の心証を持っていることが議論の中から明らかになった。裁判員側に2名ほど(AとB)、非常に論理的で説得力のある意見を言う者がおり、裁判員側は、その意見に乗っているのだ。裁判官側は、ここで評決をとったら、有罪の評決をなすことができないため、AとBが席をはずした隙に、C、D、Eさんに、こう話す。
裁判長甲「皆さん、まだ、この事件の真相がよく分かっていないようですので、もう少し時間をかけて検討しましょうね」
裁判員C「えっ、まだまだ、時間がかかるのですか」
裁判官乙「ええ、プロである我々は、1ヶ月ぐらい議論をすることもよくありますよ」
裁判員D「そうなんですか。このまま意見が割れているとどうなるんですか」
裁判官丙「いずれは、多数決をしないといけないのですが、私たちの意見と市民の皆さんの意見がどうもずれているようなので、このまま多数決をするのはどうでしょうかねぇ。十分に互いの意見を検討しましょうよ」
裁判員E「このままだといつまでもここで議論をしないといけないということですか…」
裁判官全員「…」(無言のまま、あえて、ここで評決したら無罪になるという解釈は示さない)
裁判員AとBが戻る。どうやら、裁判官を説得するための作戦を練ってきたようだった。
裁判員A「ところで、裁判長、さきほど検討したアリバイの件ですが…」
裁判員D「Aさん、私は、あなたの意見を聴く前にプロの裁判官の意見をここでもう一度聞いてみたい」
裁判員C、E「そうだね」
裁判員A「皆さんがそういうなら、裁判長からどうぞ」
裁判長甲「では、説明しますよ。…ということで、有罪ははっきりしています」
裁判員C、D、E「そうですね。やっぱり有罪だ」
裁判員A、B「え~、さっきはその説明には首をひねったではないですか…」
裁判員C「さっきは、難しくてよく分からなかっただけですよ」
裁判員D「そうです。プロの話には説得力がある。今、やっと分かったよ」
裁判長甲「それでは、おおかたの意見も出そろったので、多数決をとりますか」
裁判員A「ちょっと待って下さい。私は説明できないんですか」
裁判員E「もう、いいよ。有罪で決まりだ。」
裁判長「いや、Aさんの話も聞いてあげましょう。その代わり、手短にお願いします」
裁判員A「はい。…ですので…と考えられ、…ですから…」
裁判員C「Aさんの話は長いよ。結局、何が言いたいの」
裁判員A「ですから…」
もはや裁判員C、D、Eは、Aの話を真剣に聞こうという気持ちは無くなっていた…。
そして、評決は、有罪となった…。
こういう事態をさけるためには、きちんと条文に書いておかねばならないと思うのです。そうすれば、裁判員C、D、Eさんは、裁判員が全員無罪主張をしていれば、評決したら無罪になることを最初の説明の中で受けることになるため、裁判官の作戦に乗ることはなかった。
裁判官をデフォルメしていますが、さきほども述べたとおり、最悪の事態を想定しなければ、システムは機能しません。
裁判所、法務省の皆さん、HPで説明するくらいなら、次期国会で、修正案を提出して、誰が読んでも、無罪となることが分かるようにしていただけないでしょうかねぇ。
というか、私は個人的には、いくら裁判官、裁判員の最低1人を含まなければならないとはいえ、単純多数で有罪が決まる制度はおかしいと思う。
有罪っていうのは、だれがどうみても有罪だろうっていう確証、ほかに犯人がいないっていう確証があるときに下す判断です。そうだとすると、9人が5:4に割れるような微妙なことは起きないはずです。せめて、3分の2を超える多数、つまり7人以上が有罪と判断して初めて有罪とできる制度、つまり有罪と判断する者が6人以下なら無罪とする制度とするべきだと思いますが、この点もいかがでしょうか?
この点も、HPで回答していただけると幸いです(笑)。
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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そもそも、この【条文の趣旨は、有罪の評決をする場合は「有罪意見が過半数で、その中には裁判官と裁判員の双方が含まれることが必要」ということ。仮に一般の裁判員六人全員が有罪を主張しても、裁判官が一人も含まれないときは有罪は成立せず、無罪となる】というものだ。つまり、感情やテレビ・新聞の報道
に影響されやすいとされる裁判員=普通の市民=の一方的な判断から、被告人を守るための制度であるように読めるわけだ。
しかし、【裁判員制度に反対する高山俊吉弁護士らは、その逆のケースを示して別の解釈をする。「仮に裁判員六人が無罪で、裁判官三人が有罪の場合、条文をそのまま読むと、無罪が過半数でも裁判官の意見が含まれないので、無罪にも有罪にもならずに評議は成立しない。だれかが意見を変えるまで評議を続けることになる」】というのだ。
つまり、「無罪にも有罪にもならないから、もっと議論をしましょう」ということになり、プロの裁判官と違って、長引くことを恐れる裁判員=(仕事を持っていたりする普通の市民)から、脱落者が二人出て、結局、有罪になってしまうのではないか?という素朴な疑問だ。
これに対し、【法務省の担当者はこの解釈を真っ向から否定した上で、「当然、無罪になる」と説明する。「六七条にある『評議の判断』とは、有罪か無罪かではなく、『検察官が有罪を証明できたかどうか』。裁判官三人が有罪意見でも過半数ではないのだから、犯罪の証明がないとして無罪となる」】というのだ。
つまり、評決によって、有罪という判断がなされない以上は、全て無罪となるのだから、問題ないということなのだ。
法務省は、わざわざ、HPで取り上げ、
【最近,報道されたところによりますと,「裁判員裁判の評決において,裁判官3名と裁判員1名が被告人は有罪であるとの意見であり,裁判員5名が被告人は無罪であるとの意見である場合,裁判員法67条1項の規定(「・・・評議における裁判員の関与する判断は,・・・構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見による。」)のため,被告人は無罪であるという判断をすることができない。」という誤解をしている方がいらっしゃるようです。
しかしながら,上に挙げられた例の場合には,被告人は無罪とされることになります。
一般に,刑事裁判においては,犯罪の証明があったと認められる場合に有罪とされ,その証明があったとは言えない場合に無罪とされますので,判断の対象となるのは,犯罪の証明があったかどうかということになります。したがって,この場面において,裁判員法67条1項の規定により,構成裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見によらなければならないとされるのは,この犯罪の証明があったという判断についてなのです。
そして,上の例の場合,裁判官3名と裁判員1名が,犯罪の証明があり,被告人は有罪であるという意見ですが,この意見は,裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の過半数の意見ではないのですから,犯罪の証明があったとは認められないことになります。したがって,被告人は無罪とされることになるのです。】
と解説している。
しかし、それなら、なぜ、条文にその旨明記しないのか?【反対派の同弁護士だけでなく、元裁判官の学者や裁判員制度に賛成する弁護士の中にも「六七条は意味が通りにくく不親切だ。評決不能という解釈の余地もある。裁判員が誤解しないように明文化すべきだ」という指摘が出ている】というが、当然の疑問だ。
私は、権力との関係では常に、権力がヒトラーのような人物であっても制御が利く制度にしておく必要があると考えています。
ですから、今回の条文解釈を巡る件についても、次のような場面を想定します。
ある事件の評議の最中、裁判官側は3人とも「有罪」の心証を持ち、裁判員側は5人とも「無罪」の心証を持っていることが議論の中から明らかになった。裁判員側に2名ほど(AとB)、非常に論理的で説得力のある意見を言う者がおり、裁判員側は、その意見に乗っているのだ。裁判官側は、ここで評決をとったら、有罪の評決をなすことができないため、AとBが席をはずした隙に、C、D、Eさんに、こう話す。
裁判長甲「皆さん、まだ、この事件の真相がよく分かっていないようですので、もう少し時間をかけて検討しましょうね」
裁判員C「えっ、まだまだ、時間がかかるのですか」
裁判官乙「ええ、プロである我々は、1ヶ月ぐらい議論をすることもよくありますよ」
裁判員D「そうなんですか。このまま意見が割れているとどうなるんですか」
裁判官丙「いずれは、多数決をしないといけないのですが、私たちの意見と市民の皆さんの意見がどうもずれているようなので、このまま多数決をするのはどうでしょうかねぇ。十分に互いの意見を検討しましょうよ」
裁判員E「このままだといつまでもここで議論をしないといけないということですか…」
裁判官全員「…」(無言のまま、あえて、ここで評決したら無罪になるという解釈は示さない)
裁判員AとBが戻る。どうやら、裁判官を説得するための作戦を練ってきたようだった。
裁判員A「ところで、裁判長、さきほど検討したアリバイの件ですが…」
裁判員D「Aさん、私は、あなたの意見を聴く前にプロの裁判官の意見をここでもう一度聞いてみたい」
裁判員C、E「そうだね」
裁判員A「皆さんがそういうなら、裁判長からどうぞ」
裁判長甲「では、説明しますよ。…ということで、有罪ははっきりしています」
裁判員C、D、E「そうですね。やっぱり有罪だ」
裁判員A、B「え~、さっきはその説明には首をひねったではないですか…」
裁判員C「さっきは、難しくてよく分からなかっただけですよ」
裁判員D「そうです。プロの話には説得力がある。今、やっと分かったよ」
裁判長甲「それでは、おおかたの意見も出そろったので、多数決をとりますか」
裁判員A「ちょっと待って下さい。私は説明できないんですか」
裁判員E「もう、いいよ。有罪で決まりだ。」
裁判長「いや、Aさんの話も聞いてあげましょう。その代わり、手短にお願いします」
裁判員A「はい。…ですので…と考えられ、…ですから…」
裁判員C「Aさんの話は長いよ。結局、何が言いたいの」
裁判員A「ですから…」
もはや裁判員C、D、Eは、Aの話を真剣に聞こうという気持ちは無くなっていた…。
そして、評決は、有罪となった…。
こういう事態をさけるためには、きちんと条文に書いておかねばならないと思うのです。そうすれば、裁判員C、D、Eさんは、裁判員が全員無罪主張をしていれば、評決したら無罪になることを最初の説明の中で受けることになるため、裁判官の作戦に乗ることはなかった。
裁判官をデフォルメしていますが、さきほども述べたとおり、最悪の事態を想定しなければ、システムは機能しません。
裁判所、法務省の皆さん、HPで説明するくらいなら、次期国会で、修正案を提出して、誰が読んでも、無罪となることが分かるようにしていただけないでしょうかねぇ。
というか、私は個人的には、いくら裁判官、裁判員の最低1人を含まなければならないとはいえ、単純多数で有罪が決まる制度はおかしいと思う。
有罪っていうのは、だれがどうみても有罪だろうっていう確証、ほかに犯人がいないっていう確証があるときに下す判断です。そうだとすると、9人が5:4に割れるような微妙なことは起きないはずです。せめて、3分の2を超える多数、つまり7人以上が有罪と判断して初めて有罪とできる制度、つまり有罪と判断する者が6人以下なら無罪とする制度とするべきだと思いますが、この点もいかがでしょうか?
この点も、HPで回答していただけると幸いです(笑)。
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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裁判官3名が「死刑」裁判員6名が「無期懲役」あるいは裁判官3名が「無期懲役」裁判員6名が「死刑」となって評議が延々とつづいてもどちらも譲らなかったらどうするのでしょうか。
2)ボランティアの志で弁護料を低く抑えてくれるでしょうか?
3)TV出演のスケジュールの関係で公判日程が長期に及び、拘留期間が長くなる恐れがあります。