脚本 野波静雄、監督 天野利彦
1986年5月8日放送
【あらすじ】
信用金庫の現金輸送車が二人組の強盗に襲われた。犯人の一人は程なく逮捕されるが、猟銃を持った相棒の行方がつかめない。犯人の供述によれば、相棒はソープランドのボーイだった男で、かつては豆腐屋の女と恋仲だったが、女の祖父の猛反対にあって別れたという。豆腐屋を調べに向かった時田と叶が見たものは、ボケた祖父を介護しながら、一人で店を切り盛りする女の姿だった。「これでは男を匿うどころではないだろう」と引き上げようとした矢先、時田は女が口紅をしていることに気づく。「男が来たからだ」と直感した時田は、近所の電器屋の二階を借りて豆腐屋を張り込む。
一方、桜井らは何者かが現金輸送車の情報を漏らしたと見て、信用金庫の職員を調べる。その結果、サラ金に手を出した職員が、男の務めるソープの常連だったことが判明する。
電気屋によれば、女の両親は、女が高校生の頃に相次いで病死した。幼い頃から、多忙な両親の代わりに祖父に可愛がられていた女だが、今ではボケた祖父を三畳間に閉じ込めるようにして暮らしているらしい。張り込みを続ける時田だが、祖父は夜中に「泥棒だぞ」と叫んだり、転倒して頭を打ち救急車を呼ぶ騒ぎになったりと、女に迷惑を掛け続ける毎日。次第に女に同情を寄せるようになった時田は、単身赴任者を装って女に接触する。
ある夜、家を抜け出して徘徊する祖父を保護した時田は、自分にも郷里に年老いた父がいることを明かし「失礼な話ですが、自分の父がおお宅のお爺さんのようになったら、どうしようかと思う」と語る。そんな時田に、女は「おじいちゃんを殺して、自分も死のうと思うことがある」と本音を吐露するが、「でも、他に生き甲斐というか、心の支えがあれば違う」と付け加えた。時田は女にとっての“支え”こそ、逃走中の男なのだと確信する。だが、その支えを失ったとき、女と祖父はどうなってしまうのか・・・
その後、女は外出先で、桜井らがマークする信金の職員と接触する。女が職員から男の逃走資金を受け取ったと見て警戒を強めるなか、時田は豆腐屋の物干しに男物の下着が干してあることに気づく。祖父の下着は「おしめ」であり、下着は男の存在を物語る証拠に他ならなかった。踏み込みの準備を進める矢先、再び豆腐屋に救急車が。女に付き添われて運ばれたのは、祖父ではなく、ずっと匿われていた男だった。
男の逃走先を追う特命課にあって、時田は「私を爺さんに付き添わせてください。女はきっと戻ってきます」と志願する。「まさか?男のために爺さんを捨てた女だぞ?」桜井の反論に時田は応える。「女は爺さんを憎みながらも、どうしても捨て切れなかったんです。必ず戻ってきます」
その夜遅く、女は密かに豆腐屋の扉を開ける。「よく、戻ってくれたな」待ち受けていた時田の正体を知った女は「おじいちゃんに会わせてください」と、寝床の祖父にすがりつく。「奴のことは、悪い夢だと思って諦めるんだ」「いいえ、良い夢でした。あの人がいたから、おじいちゃんにも優しくできた・・・」そんな女の頬を伝う涙をぬぐいながら、祖父はおぼつかない口調で「すまない」と呟いた。祖父は男の存在に気づき、孫娘のためにその秘密を守ろうとしていたのだ。ボケてなお、愛する孫娘を気遣う祖父の優しさに、女は号泣し、男の所在を明かすのだった。
事件は解決し、女は情状酌量により執行猶予となった。今日も祖父を支え、一人で豆腐屋を切り盛りする女。そんな女を見守りながら、時田も年老いた父親を引き取る決意を固めるのだった。
【感想など】
何か久しぶりに特捜らしい特捜を見た、という気にさせられる一本。単に痴呆老人との同居という深刻なテーマを扱っているから、というだけでなく、その重いテーマに対して「安易に答を出さない」というアプローチが、個人的には「特捜ならでは」と思えました。
女の選択や、ラストの時田の台詞から、「ボケ老人との同居を覚悟しなくてはならない」というのが「答」ではないか、との意見もあるかもしれませんが、それは人として果たすべき義務(あくまで私見です)であり、ここで言う「答」とは、その厳しい現実にどう向き合うか、ということです。
女も厳しい現実に耐えかね、一時は老人に辛く当たり、寿司をねだる祖父の口にオカラをねじ込むという虐待じみたことまでしたといいます。そんな女の支えとなったのが、クズのような強盗犯だったというのが、なんとも皮肉であり、切ない話です。女からすれば、目の前の辛い現実から強引に自分を引っ張り出してくれさえすれば、誰でも良かったのでしょう。「心の支え」という言葉は美しいですが、それは裏を返せば「祖父を捨てる」という決意であり、その後ろめたさゆえに祖父への態度が優しくなったのだとすれば、そして、祖父がそれを分かっていながら孫娘を奪っていくクズの存在を黙っていたのだとすれば、何と哀しいドラマでしょう。
結局、女は祖父を捨てて男と逃げるわけですが、祖父のボケぶりを克明に見てきた時田からすれば、その選択を責めることはできません。しかし、それでもなお、女が祖父を捨てきれないと見た時田の胸の内が、本作のキモではないかと思います。
「なぜ介護施設に入れないんですか?」時田の問いに、女はこう答えました。「何度か入れようかと思いましたが、ダメでした。いざとなると、体の内から寂しさが、悲しさがこみ上げてくるんです・・・」この女の台詞の背後に、忙しい両親に代わって、幼い頃から可愛がってくれた祖父との日々が透けて見えます。ボケさえしなければ、それなりに幸せだったかもしれない日常。愛していたはずの祖父を、いつしか憎まずにはいられなくなる苦しみ。そんな厳しさに耐え切れる人間が、一体どれくらいいるのでしょうか?
私の両親は60半ばを過ぎても健康そのものであり、今のところボケの兆候もありません。しかし、十年後、二十年後はどうなっているでしょうか?そして、さらに数十年後、今度は自分がボケ老人となったとき、私は誰に、どれほどの迷惑を掛けて生きていくのでしょうか?想像すると、暗然とせざるを得ませんが、それでも、その考えたくない事態は、それなりの確率で実現するのです。この女のように、憎みつつも愛し続けることができるだろうか?そんな愛情を向けてくれる身内が自分にいるだろうか?答は一人ひとりが見つけるしかないのでしょう。
なお、同様のテーマとしては、第422話「姑誘拐・ニッポン姥捨物語」がありましたが、こちらが佐藤脚本ならではの救いの無い話だったのに比べれば、同じく救いがない結末(女の苦労はこれからも続いていくという意味で)にも関わらず、その結末を受け入れた女への視線が優しさに満ちているあたり、時間帯移動の影響がうかがえます。とはいえ、それもまた末期特捜の味なのだと思い、受け入れるほかないでしょう。たとえ、かつてのような重さが許されなくとも、脚本・演出がその気になれば、これだけ見応えのあるドラマが作れるのですから。
1986年5月8日放送
【あらすじ】
信用金庫の現金輸送車が二人組の強盗に襲われた。犯人の一人は程なく逮捕されるが、猟銃を持った相棒の行方がつかめない。犯人の供述によれば、相棒はソープランドのボーイだった男で、かつては豆腐屋の女と恋仲だったが、女の祖父の猛反対にあって別れたという。豆腐屋を調べに向かった時田と叶が見たものは、ボケた祖父を介護しながら、一人で店を切り盛りする女の姿だった。「これでは男を匿うどころではないだろう」と引き上げようとした矢先、時田は女が口紅をしていることに気づく。「男が来たからだ」と直感した時田は、近所の電器屋の二階を借りて豆腐屋を張り込む。
一方、桜井らは何者かが現金輸送車の情報を漏らしたと見て、信用金庫の職員を調べる。その結果、サラ金に手を出した職員が、男の務めるソープの常連だったことが判明する。
電気屋によれば、女の両親は、女が高校生の頃に相次いで病死した。幼い頃から、多忙な両親の代わりに祖父に可愛がられていた女だが、今ではボケた祖父を三畳間に閉じ込めるようにして暮らしているらしい。張り込みを続ける時田だが、祖父は夜中に「泥棒だぞ」と叫んだり、転倒して頭を打ち救急車を呼ぶ騒ぎになったりと、女に迷惑を掛け続ける毎日。次第に女に同情を寄せるようになった時田は、単身赴任者を装って女に接触する。
ある夜、家を抜け出して徘徊する祖父を保護した時田は、自分にも郷里に年老いた父がいることを明かし「失礼な話ですが、自分の父がおお宅のお爺さんのようになったら、どうしようかと思う」と語る。そんな時田に、女は「おじいちゃんを殺して、自分も死のうと思うことがある」と本音を吐露するが、「でも、他に生き甲斐というか、心の支えがあれば違う」と付け加えた。時田は女にとっての“支え”こそ、逃走中の男なのだと確信する。だが、その支えを失ったとき、女と祖父はどうなってしまうのか・・・
その後、女は外出先で、桜井らがマークする信金の職員と接触する。女が職員から男の逃走資金を受け取ったと見て警戒を強めるなか、時田は豆腐屋の物干しに男物の下着が干してあることに気づく。祖父の下着は「おしめ」であり、下着は男の存在を物語る証拠に他ならなかった。踏み込みの準備を進める矢先、再び豆腐屋に救急車が。女に付き添われて運ばれたのは、祖父ではなく、ずっと匿われていた男だった。
男の逃走先を追う特命課にあって、時田は「私を爺さんに付き添わせてください。女はきっと戻ってきます」と志願する。「まさか?男のために爺さんを捨てた女だぞ?」桜井の反論に時田は応える。「女は爺さんを憎みながらも、どうしても捨て切れなかったんです。必ず戻ってきます」
その夜遅く、女は密かに豆腐屋の扉を開ける。「よく、戻ってくれたな」待ち受けていた時田の正体を知った女は「おじいちゃんに会わせてください」と、寝床の祖父にすがりつく。「奴のことは、悪い夢だと思って諦めるんだ」「いいえ、良い夢でした。あの人がいたから、おじいちゃんにも優しくできた・・・」そんな女の頬を伝う涙をぬぐいながら、祖父はおぼつかない口調で「すまない」と呟いた。祖父は男の存在に気づき、孫娘のためにその秘密を守ろうとしていたのだ。ボケてなお、愛する孫娘を気遣う祖父の優しさに、女は号泣し、男の所在を明かすのだった。
事件は解決し、女は情状酌量により執行猶予となった。今日も祖父を支え、一人で豆腐屋を切り盛りする女。そんな女を見守りながら、時田も年老いた父親を引き取る決意を固めるのだった。
【感想など】
何か久しぶりに特捜らしい特捜を見た、という気にさせられる一本。単に痴呆老人との同居という深刻なテーマを扱っているから、というだけでなく、その重いテーマに対して「安易に答を出さない」というアプローチが、個人的には「特捜ならでは」と思えました。
女の選択や、ラストの時田の台詞から、「ボケ老人との同居を覚悟しなくてはならない」というのが「答」ではないか、との意見もあるかもしれませんが、それは人として果たすべき義務(あくまで私見です)であり、ここで言う「答」とは、その厳しい現実にどう向き合うか、ということです。
女も厳しい現実に耐えかね、一時は老人に辛く当たり、寿司をねだる祖父の口にオカラをねじ込むという虐待じみたことまでしたといいます。そんな女の支えとなったのが、クズのような強盗犯だったというのが、なんとも皮肉であり、切ない話です。女からすれば、目の前の辛い現実から強引に自分を引っ張り出してくれさえすれば、誰でも良かったのでしょう。「心の支え」という言葉は美しいですが、それは裏を返せば「祖父を捨てる」という決意であり、その後ろめたさゆえに祖父への態度が優しくなったのだとすれば、そして、祖父がそれを分かっていながら孫娘を奪っていくクズの存在を黙っていたのだとすれば、何と哀しいドラマでしょう。
結局、女は祖父を捨てて男と逃げるわけですが、祖父のボケぶりを克明に見てきた時田からすれば、その選択を責めることはできません。しかし、それでもなお、女が祖父を捨てきれないと見た時田の胸の内が、本作のキモではないかと思います。
「なぜ介護施設に入れないんですか?」時田の問いに、女はこう答えました。「何度か入れようかと思いましたが、ダメでした。いざとなると、体の内から寂しさが、悲しさがこみ上げてくるんです・・・」この女の台詞の背後に、忙しい両親に代わって、幼い頃から可愛がってくれた祖父との日々が透けて見えます。ボケさえしなければ、それなりに幸せだったかもしれない日常。愛していたはずの祖父を、いつしか憎まずにはいられなくなる苦しみ。そんな厳しさに耐え切れる人間が、一体どれくらいいるのでしょうか?
私の両親は60半ばを過ぎても健康そのものであり、今のところボケの兆候もありません。しかし、十年後、二十年後はどうなっているでしょうか?そして、さらに数十年後、今度は自分がボケ老人となったとき、私は誰に、どれほどの迷惑を掛けて生きていくのでしょうか?想像すると、暗然とせざるを得ませんが、それでも、その考えたくない事態は、それなりの確率で実現するのです。この女のように、憎みつつも愛し続けることができるだろうか?そんな愛情を向けてくれる身内が自分にいるだろうか?答は一人ひとりが見つけるしかないのでしょう。
なお、同様のテーマとしては、第422話「姑誘拐・ニッポン姥捨物語」がありましたが、こちらが佐藤脚本ならではの救いの無い話だったのに比べれば、同じく救いがない結末(女の苦労はこれからも続いていくという意味で)にも関わらず、その結末を受け入れた女への視線が優しさに満ちているあたり、時間帯移動の影響がうかがえます。とはいえ、それもまた末期特捜の味なのだと思い、受け入れるほかないでしょう。たとえ、かつてのような重さが許されなくとも、脚本・演出がその気になれば、これだけ見応えのあるドラマが作れるのですから。
最初はあまり馴染みのない脚本家さんだったので、もしかしてハズレ?と思ってましたが、他の脚本とは違うまとめ方で良かったと思います。
私事ですが、亡父がやはり認知症になり、色々と世話が大変だったこともあり、この女性の気持ちは痛いほどわかります。
強盗に成り下がった昔の男でも認知症の祖父の世話という日常を忘れさせてくれるが、心の底では可愛がってくれた祖父を忘れられない。
重いテーマですが、以前のような絶望感もなくて物足りない反面、経験者として感情移入も出来た、貴重な作品でした。
私の父親は60台後半にして、まだまだ心身ともに健康ですので、本編の女性やですとらさんのご苦労は想像するほかありません。
久々に重いテーマが取り上げられ「嬉しい」というのもおかしな話ですが、感想でも述べたように、「特捜らしさ」を堪能できたことは確かです。作風の微妙な違いも含めて、時間帯変更後(あるいは時田主演編)を代表する一本と言っても良いのではないでしょうか。