特捜最前線日記

特捜最前線について語ります。
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第290話 ふるさとの女!

2007年02月26日 07時24分54秒 | Weblog
脚本 阿井文瓶、監督 藤井邦夫

資産家宅に住む若い娘が誘拐された。犯人の要求通り、身代金の百万円を娘自身の口座に振り込んだが、金が引き出された後も娘は戻らない。そこで、ようやく警察に通報し、特命課が捜査に乗り出す。女は周囲の友人に「資産家の娘で女子大生」と名乗っていたが、実は資産家とは同じ津軽の出身で、同姓の縁でお手伝いさんとして住み込んでいた。銀行の防犯カメラには、身代金を引き出した若い男が映っており、特命課は娘の狂言という可能性も視野に入れて、娘の交友関係をあたる。
高校の同級生で、津軽弁を売りにする漫才師を訪ねた吉野は、高校時代に娘と付き合っていた男の存在を知る。かつては娘の方が熱を上げていたが、上京後、男が津軽弁をからかわれたことを気に病み、せっかく入社した大手商社をやめて土建会社で働くようになると、二人の仲は気まずくなっていった。しかし、男は一途に娘を思い「都会の男があいつをダメにした」と言っていたらしい。男の職場を訪ねた吉野だが、男は終始無言を貫いた。
その後、吉野は女友達の証言から、娘がディスコで知り合った若者と付き合っているとの情報を得る。ディスコからの通報で若者を発見し、取り調べたところ、若者は金を引き出したことは認めたが、「娘が父親から金を巻き上げるのに協力しただけだ」と主張。娘が消息不明だということも知らなかった。
同じ頃、大量の血痕が残された現場近くで、娘のバッグが発見される。血痕の量から、娘は死んでいるものと推測されたが、遺体は見当たらない。バッグに残されていた産婦人科の診察券から、娘は数日前に中絶手術を受けていたことが判明。若者を尋問したところ、娘に妊娠を告げられ、「持参金を百万円持ってきたら結婚してやる」と言ったところ、娘から「家から金を出させるのに協力して欲しい」と持ちかけられたのだと言う。しかし、百万円を手にした娘は、人が変わったように「まだまだ遊び足りないし、子供は堕すわ」と言い残し、若者から去っていったらしい。
若者を釈放したところ、何者かにナイフで襲われ負傷した。かつて娘と付き合っていた男の仕業ではないかと調べたところ、男は職場を辞めており、アパートからは血塗られた着衣が発見された。男が何かの拍子に娘を殺し、それの若者のせいだと思い込み、復讐のために襲った。そう推理した吉野は、再び襲われると見て若者をマークする。吉野を煙たがって逃走した若者を、男が襲う。「話し合えば分かるじゃないか」必死に説得しようとする若者に、「その滑らかな言葉で、あいつばダメにしたんだべ!」と叫ぶ男。その前に、吉野が立ちはだかる。「言葉なんかで、人がダメになるもんか!訛りくらいでいじけるような根性が、人間をダメにするんだ!」そう叱咤する吉野に、男は訛りのきつい言葉で犯行を自白すると、「訛りを気にせず喋るって、気持ちいいなぁ」と吹っ切れた笑顔を見せた。

前回と似たような結論で恐縮ですが、今回も「女は怖い」と骨身に染みて思い知らされる一本です。被害者とはいえ、今回の女はとにかくひどい。意を決して結婚を申し込んだ男に、「あんたにテニスやサーフィンをしたり、ディスコで踊ったりできるの?」と情け容赦なく言い放ち、「テニスば習う、サーフィンばやってみる。できるじゃ、おらだって」と必死に追いすがる男に、「テニスやサーフィンに、そんな言葉が似合うと思ってるの」と嘲笑するのです。これで殺意を抱かぬ男がいるとは思えませんが、同時に「そんな女のために人生を棒に振ってはいかん」とも思い、哀れにも殺人者となってしまった男に同情を寄せるほかありません。(ひょっとして女性の方が読んでくださっていたら、不快感を与えて申し訳ありません)ちなみに、男を演じたのは直江「腐ったミカンじゃねぇ」喜一。金八先生の終了からわずか2年弱のことでした。

それはさておき、今回の脚本の秀逸さは、当初は諸悪の根源に思えた若者の描き方にあります。アメリカ留学帰りの大学生と自称し、女と遊び歩いている若者ですが、じつは普段はスーパーの店員として真面目に働いていました。ラストシーン。吉野の計らいで男の供述を聞いた若者は、取調室で男に歩み寄ると「おれも岩手の出身だ」と告白。「俺も、便所でこっそり練習したり、訛りを取るのに苦労した。テニスを覚えるために食費を削って、身体を壊しそうになった。体だけじゃなく、人間もダメになっちまったのかもしれない。でも、他には何もないしよ・・・」都会生活をエンジョイしているかに見えた若者も、内面は男と同様の寂寥感にあえいでいました。女と遊び歩く他には“何もない”都会暮らしの虚しさを、そこからこぼれ落ちた男とともに、表裏一体で表現する若者の言葉が、ドラマに厚みを与えています。

ふるさとの訛りなつかし停車場の人込みの中にそを聞きに行く・・・おやっさんが口ずさむ啄木の歌に象徴されるように、「訛り」はふるさとの象徴であり、郷愁の対象でした。それが、いつの間にか田舎モノの象徴として、蔑みや嘲笑の対象になっていることに、言い知れぬ悲しさを感じます。最近では、テレビの普及で訛りも減っているという話も耳にしますが、それはそれで寂しい思いがします。もし、今でも訛りのせいで辛い思いをしている人がいれば、吉野のこの言葉を贈りたいと思います。「お前が両親から与えられた言葉が、そんなに恥ずかしいか!」