Poncoの ぴろ~・ぶっく 

枕元においたノートに
日々の生活で感じたことを
好き勝手に綴りたい・・・・。

ドレスコード

2010年04月06日 | Weblog
通院しているクリニックであう、
いつも和服の女性。

今日は、桜づくしだった。

私が、「今日も素敵ですね~。
桜づくしで、お花見をさせてもらいました」というと
「本当は、これは、もう、ぎりぎりなんですよね。
もう、萌黄や若葉の柄をきないといけなんですけど・・。」

「いいんじゃないですか。
宇野千代さんは、一年中、桜だったんだから」といったが、
着物のお約束ごとにとらわれていて
「いやいや・・。」という。
着物の柄も帯も寝付けもバックも、全部桜である。

そこまでしたのだから、いいと思うんだけどね。

ちょっと、イライラしてきた。
彼女は、着物を楽しんでいるのではない。
着物に着られているし、和服のお約束ごとに
縛られている自分を自慢しているように思えてきた。

「約束ごとをしっていて、崩すのはいいんじゃないですか?」といったのだが
とにかく、否定するのだ。

フォーマルの席じゃあるまいし・・・。
いいんじゃないの?
あさってから、京都にいくそうだから、神経を使っているのかな?
私は、「こんなときにもう、桜の柄は、おそおすえ~」なんて
いわないし、誰も言わないと思う。
関西の桜は、まだ、しばらく咲く季節のはず。
それに、ここは鎌倉だし。
ドレスコードをわかっていて、少し破る人と
わかっていなくて、守っていない人は
わかるものだと思う。
なんとなく。
そう、思う。

いつもきちんと和服をきて
えらいな~と、思っている。
少し見習いたいものだ。




2010年04月06日 | Weblog
大阪で、生まれ育った私にとって
桜をみるということは
造幣局の通り抜けをすることだった。

自分がいかなくてもいい。
家族がいったとしても
それで、桜の季節の行事がすむのだ。

春の宵に、浮かれ気分で、物見遊山する。
それは、造幣局の通り抜けをして
夜、どこかで、御飯でも食べれば、最高。
父が晩酌をして、ほろ酔いで、いちびって(ふざければ)
それで、冬が終わった。


JR東海の今年の京都のCMは、御室 仁和寺の桜だった。

私は、京都の桜の名所にいったことがあったかしらん?
御室の桜も円山公園の桜も満開のときにみたことがないとおもう。

それを残念におもっていた。
先日は、東山、銀閣寺からの哲学の小道の桜並木を
中継していた。

「これは、観た!」
うら若き乙女だった私は、桜のしたのベンチで
お弁当を食べた(・・・ような気がする)
桜が咲いていた(・・・・ような気がする)
しかし、もう少し、早い時期だった。
でも、確かに、今は、桜の木の保全のために
立ちいり禁止になっている川沿いのベンチに
腰掛けて、お弁当を食べた(・・・ような気がする)

今から、○十年も昔のことなので
桜ももう少し、若かった(・・・ような気がする)

あれは、貴重な体験だったのだなあ・・・・。

むすめは、「私は、桜の時期に京都にいったことがない」
と不平をいう。
関西にいても、なかなか、いけないのだ。
○十年早い!
といいたいのを
我慢している。

願わくば・・・・。
(西行法師がでました)

吉野の桜を死ぬまでにみたいものだ。
そのころには、法師か尼かわからないくらいの
年寄りになっているかもしれない。
桜のころの吉野。
一生をかけた夢のひとつである。

桜は、本当はとっても怖い。
(ここで、坂口安吾が・・・)
このように、好むと好まざるにかかわらず
桜ほど、日本の生活に密着した花は
ないかもしれない。

お花見 未満

2010年04月06日 | Weblog
今、桜を真正面にみながら
これを書いている。

お花見日和だったこの土日は
急に独り暮らしをすることになった
長女の引越し準備に翻弄された。

「ああ、今年はお花見ができない」とおもったのだが、
ゆとり世代の弊害ばかりの娘に
ぷっつんきて、車を走らせ花見客でいっぱいの
公園のそばで、車を止めた。

今も、目の前に桜がある。

なのに、まだ、お花見をした気分にならない。

私は、桜の花をしたから見上げたい。
誰かと一緒だと、なおいい。

今日も桜の花が散りかけている道を
車で走ったのに、なんか、納得していないのだ。