Poncoの ぴろ~・ぶっく 

枕元においたノートに
日々の生活で感じたことを
好き勝手に綴りたい・・・・。

2009年03月04日 | Weblog
私が、3歳の冬だから、相当昔のことである。
私を目にいれても痛くないくらい可愛がってくれた
祖父が、旅先で亡くなった。

そのお葬式で、3歳の私と従姉妹は
振袖を着た。
それを私は、なんと覚えている。
童女二人が、振袖で、白い菊を
お棺にいれる場面が記憶にあるのだ。

たくさんの人がきて、自分は着飾っているものだから
うれしくて、ニコニコしていたことも
覚えている。
祖父の棺に最後のお花をいれるのは
恐かったのだが、自分たちだけが、華やかで、うれしかった。
その振袖は、その後、お正月のたびに何回もきた。
そして、今、手許にある。
これも、普通は、ないことではないだろうか?

母は、まだ20代の若さだった。
後に
「おばあちゃんのいうように、
お葬式にあんなものをきせて、
世間では笑われているのに、違いない」と
ずっとけなしている。

私は、どうして、祖母がそんなことを指示したのか?
不思議でならなかった。
祖母は、口数が少ないおっとりした人だった。
お行儀がよく、お魚をきれいに食べた。
夏以外は、着物だった。
遠縁のお屋敷に行儀見習いにいったという。

そんな祖母が、どうして?とずっと謎だった。

今朝、ふとひらめいたのが、
あの当時、私と従姉妹が、もっている第一正装が
あの着物だったのではないだろうか?
3歳の子供なので、喪服なんてもっているわけがない。
今とちがって、黒い服ももっていなかっただろう。
祖母は、一緒に旅行にいって、帰る途中の汽車の中で、
夫が、突然 死んでしまった。
その動顚もあったかもしれないが、あの頃は、また頭は
しっかりしていた年齢だ。

「ハレ」の日というわけではないが
「ケ」の日ではない。
「ケ」でない日は、礼装をきる。
それを祖母は、幼い私たちにも、求めたのかな?

関西の葬儀は、黒一色だ。
外に立てるのも樒(しきみ)なので、きれいな色は一切ない。
「おくりびと」の中で、山形のお葬式の
家の外に立てるのは、浅黄色の花輪だった。
その色をみたとき、
とっさに、私が、きれいな色の着物をきていても
死者にたいして、失礼にならかったのではないか?
礼装をきたのだから、あれはあれでよかったのではないか?
と、感じたみたいで、今朝、いきなり、そんな考えが浮かんだのだ。

間違っているのかもしれない。
本当に、我が家の歴史に残る恥ずかしいエピソードの
一つなのかもしれない。
しかし、私は、みすぼらしい普段着より、きれいなおべべをきて
祖父を送ったことが、よかった、と、この年になっておもったのだ。

そんな遠い記憶さえ、思いおこしてしまう映画だった。
早速、母に電話をしたのだが、母のなかで、そういうことは
文化論だとか問題意識にならず、ひたすら
嫁として、恥ずかしい思いをした、
という何十年間のほうが、重いのだった。

ちなみに、うちの長女も、3歳のときに
祖父をなくし、お葬式、法事にでている。
私は、黒いワンピースを着せたが、普段から、
もっていたのである。
私は、いつでも、一応のフォーマルを用意する
人間に育った。
三つ子の魂百まで、って、本当だ。
祖母の意思が、想像通りなら・・・。


おくりびと

2009年03月04日 | Weblog
昨日、映画「おくりびと」を娘とみにいくことが
できた。
本当は、賞をとる前にみて、自分の価値観で、
観賞したいタイプなのだが、今年は、映画を軒並み
みられなかった。

映画「おくりびと」は、本当に本当によかった。
何回も涙がでてしまった。
日本人で、身内のお葬式を体験した人なら、
絶対に泣けてしまうし、他のことでも
泣いてしまうことがたくさんある。
「生」と「死」が、対比的に何回もでてくるように
思う。
「静」と「動」もあったとおもう。
葬式という不幸と、ちょっとした、幸福や
おめでたいことも、対比されてたくさんでてくるように
思う。

不幸の中に幸があり、
幸の中にも、不幸がある。
その事柄が、ハーモニーとなって、
映画を見終わって反芻してみると、
交響楽のように、たくさんのことが
調和よく、描かれていたと思う。

****

感想は、エンドレスになりそうにある。
今朝、目がさめて、ベットの中でもおもいだしていて、ふと
「ああ、そうだったのか・・。」と思ったことがあった。
長年の謎が解けたような気持ちがした。