塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

街を巡る 壬生狼の軌跡 沖田総司縁者の墓

2009-01-29 06:47:43 | 街巡り_09
 この光縁寺にはミステリアスな墓がある。墓地の最も奥のひとつ
高いところに「沖田氏縁者」の墓だ。
 正面の戒名を読むと「眞明院照誉貞相大姉」と彫られ、左側面に
は「沖田氏縁者」とある。但し、現在の墓石は1976年に建立された
新しいもの。そこで、住職に伺ったり、文献を漁ってみるといろん
な説がゾロゾロと出てきた。それを少し紐解いてみよう。
 幕末維新史研究同人の川西正隆氏によると、次のような解釈が報
告されている。
 寺の過去帳を見ると、この墓の当時の施主は大和櫛羅藩士・酒井
意章の養子である酒井意誠となっていた。この意章が禁裏守衛兵と
して上洛していたおり町娘を慕うが、恋敵の新撰組隊士と刀傷事件
を起こす。お互い武士の喧嘩両成敗で切腹を命じられるものの、沖
田総司の計らいで助命。以後、意章は沖田を命の恩人として思う。
 時が経ち、池田屋事件で負傷した隊士が医療所手当を受けている
中、看護をする娘に石田秩がいた。沖田と秩は恋仲となる。近藤勇
は若い沖田には将来があることを諭し、二人の仲を裂いてしまう。
ところが秩は病気で死亡し、沖田の代わりに先の酒井意章が弔いを
行った。意章は子孫代々に至まで「司」の字を伝えるよう遺言した
という。で、石田秩が沖田の幻の恋人であり、この墓が秩のものと
推定されている。
 また上記の川西氏の説に発展した内容のものが次にある。
 石井秩にはすでに沖田の子を身ごもっていて、女の子を生むもの
のやや子は死亡する。そこで沖田はこの寺にやや子を縁者として弔
ったというもの。
 さらに、次なる説もある。
 新撰組隊士の中にもう一人、沖田姓の者がいた。ただしこの説は、
墓石の戒名に“大姉”とあるので否定されるだろう。
 さて、深層はさらに深くなっていく。当時のことを思い浮かべる
だけでも浪漫だなあ。
(京都市下京区綾小路通大宮西入ル)
光録寺山門