坊城通りを北に上がると左側に新撰組が屯所として使用した
「八木邸」がある。通りから長屋門までのエントランスが思った
以上に長く、さすが壬生村の郷士(壬生住人士)の邸宅である。
文久3年(1863)2月、江戸から上洛した浪士組は、八木源
之丞邸を宿舎とし、慶応元年(1865)に西本願寺へ移転するま
で約2年間を過ごしている。
長屋門の手前で入館料1,000円を払い玄関へ。そうそう、門か
らの館内は撮影禁止である。屋敷内では先に入館された若い男女
数名がガイドさんから説明を聞く姿があった。私はだいたいの内
容は知っているので、一人で屋敷内を見てまわる。
宿舎生活に入った年の9月16日深夜、芹沢鴨と平山五郎、芹沢
の妾・お梅が何者かに、この屋敷で暗殺された。奥の間の縁側沿
いの鴨居に斬りつけられた刀傷が残っていた。V字型で深さは20
mm程。この刀傷を見られただけで満足。
見終わって邸宅を出ると、八木家が営んでいる茶房で毛氈を敷
き詰めた腰掛けに座り、抹茶と屯所餅(壬生菜が混ざった大福)
を頂いた。これは入館料に含まれたサービスである。
(京都市中京区壬生柳ノ宮町24)
八木邸門 抹茶と屯所餅
「八木邸」がある。通りから長屋門までのエントランスが思った
以上に長く、さすが壬生村の郷士(壬生住人士)の邸宅である。
文久3年(1863)2月、江戸から上洛した浪士組は、八木源
之丞邸を宿舎とし、慶応元年(1865)に西本願寺へ移転するま
で約2年間を過ごしている。
長屋門の手前で入館料1,000円を払い玄関へ。そうそう、門か
らの館内は撮影禁止である。屋敷内では先に入館された若い男女
数名がガイドさんから説明を聞く姿があった。私はだいたいの内
容は知っているので、一人で屋敷内を見てまわる。
宿舎生活に入った年の9月16日深夜、芹沢鴨と平山五郎、芹沢
の妾・お梅が何者かに、この屋敷で暗殺された。奥の間の縁側沿
いの鴨居に斬りつけられた刀傷が残っていた。V字型で深さは20
mm程。この刀傷を見られただけで満足。
見終わって邸宅を出ると、八木家が営んでいる茶房で毛氈を敷
き詰めた腰掛けに座り、抹茶と屯所餅(壬生菜が混ざった大福)
を頂いた。これは入館料に含まれたサービスである。
(京都市中京区壬生柳ノ宮町24)
八木邸門 抹茶と屯所餅