旧花街をそろりと歩くと朽ちた揚屋がわかる。その中でも威風堂々
とした建物が目に入る。ここが「角屋」。
寛永18年(1641)創業の角屋は置屋として遊宴もあったが、各
藩の会議の場としても使用され、長州や薩摩の藩士も利用した。もち
ろん、新撰組も宴会を催している。角屋の前には長州藩士「久松玄瑞
密議の角屋」なる石碑が置かれていた。
新撰組の蛮行を会津藩に告げ口した水口藩に、芹沢鴨が因縁をつけ
た。これを丸く収めるため水口藩はここで酒宴を行うものの、芹沢が
角屋の客あしらいに立腹して、常に手に持っていた鉄扇で店内のもの
を片っ端から壊したという逸話がある。店内には当時のキズが残って
いるという。
また、新撰組が開いた宴会でしこたま酔わされた芹沢が、八木邸で
暗殺されたのも、この角屋からだった。
(京都市下京区西屋敷揚屋町32)
久坂密議の石碑 角屋_2
とした建物が目に入る。ここが「角屋」。
寛永18年(1641)創業の角屋は置屋として遊宴もあったが、各
藩の会議の場としても使用され、長州や薩摩の藩士も利用した。もち
ろん、新撰組も宴会を催している。角屋の前には長州藩士「久松玄瑞
密議の角屋」なる石碑が置かれていた。
新撰組の蛮行を会津藩に告げ口した水口藩に、芹沢鴨が因縁をつけ
た。これを丸く収めるため水口藩はここで酒宴を行うものの、芹沢が
角屋の客あしらいに立腹して、常に手に持っていた鉄扇で店内のもの
を片っ端から壊したという逸話がある。店内には当時のキズが残って
いるという。
また、新撰組が開いた宴会でしこたま酔わされた芹沢が、八木邸で
暗殺されたのも、この角屋からだった。
(京都市下京区西屋敷揚屋町32)
久坂密議の石碑 角屋_2