原宿の裏道を表参道方面に向けて進む。途中、マイセン本店前を
通り、表参道へ出る。この近くに高野長英(1804~50)の遭難地
の記念プレートがあるということで、探し回ったが見つからず。
長英は、江戸後期の医者で蘭学者。陸奥仙台藩水沢留守家の藩医。
養父の玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学び、長英もその影響を
受け長崎でシーボルトから蘭学を学ぶ。そこでは語学の修得が優れ、
“ドクトル”と称号を受けている。
天保10年(1839)蛮社の獄で開国主義を唱え幕府を批判し投獄、
永牢の罪となる。ところが弘化元年(1844)牢屋が火事になり脱
獄する。
それ以来、長英の逃亡が始まり、身を潜めながら日本を転々とす
る。名前も“沢三伯”と変えて、硝酸で顔を焼き人相を変え江戸青
山百人町に潜んでいた嘉永3年(1850)、ついに捕らえられた。
その時、脇差しで喉を突き自刃。
その隠れ家と自決の地のプレートが青山スパイラルホールの入り
口横の柱に埋め込まれていた。
この隠れ家のプレートの話は、善光寺(港区北青山3-5)で落
ち葉掃除をされていた方から伺ったが、こちらの境内にも長英の碑
が設置されていた。
(港区南青山5丁目6番地23号)
高野長英_石碑
通り、表参道へ出る。この近くに高野長英(1804~50)の遭難地
の記念プレートがあるということで、探し回ったが見つからず。
長英は、江戸後期の医者で蘭学者。陸奥仙台藩水沢留守家の藩医。
養父の玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学び、長英もその影響を
受け長崎でシーボルトから蘭学を学ぶ。そこでは語学の修得が優れ、
“ドクトル”と称号を受けている。
天保10年(1839)蛮社の獄で開国主義を唱え幕府を批判し投獄、
永牢の罪となる。ところが弘化元年(1844)牢屋が火事になり脱
獄する。
それ以来、長英の逃亡が始まり、身を潜めながら日本を転々とす
る。名前も“沢三伯”と変えて、硝酸で顔を焼き人相を変え江戸青
山百人町に潜んでいた嘉永3年(1850)、ついに捕らえられた。
その時、脇差しで喉を突き自刃。
その隠れ家と自決の地のプレートが青山スパイラルホールの入り
口横の柱に埋め込まれていた。
この隠れ家のプレートの話は、善光寺(港区北青山3-5)で落
ち葉掃除をされていた方から伺ったが、こちらの境内にも長英の碑
が設置されていた。
(港区南青山5丁目6番地23号)
高野長英_石碑