塩哲の色即是空

私の日常の活動状況を飾り気なく、素のままで表現する。

Weekendの麺処巡り 海老塩のむろや

2007-03-21 17:15:55 | 拉麺
 馬場のべんてんを後に、九段周辺の坂道を巡った。その後、
四谷のむろやへ。
そう、特製が裏メニューで今月の25日まで提供されているという。
早速、1時半過ぎに到着。なんと、ほぼ満席。
徐々に固定客がついてきているようで、我ながら感心した。
 それでも、何とか座れて、後一人のお客で、本日は閉店の札が掛けられた。
まだ2時にもなってないんだが。おそるべし、むろや。
 さて、券売機に載っていないメニュー「海老塩」のつけ麺を注文。
(券売機の「味噌つけ」800円を購入し、チケットを渡す時に
海老塩と注文する)。渕上店主は、阿吽のタイミングでうなずき、
調理に取りかかる。
 まずは、つけ汁から登場、続いてつけ麺。
さあ、頂く。まずはつけ汁を嗅いでみる。海老とスルメの風味が
鼻一杯に覆い込んでしまう。微妙にスルメが勝っている。
 海老油も投入されており、桜海老の春爛漫を感じた。
食べ終えた後、猛烈に喉の渇きがきたが、塩のかえしは
今までのものと違っているのだろうか、少し強い塩だ。
渕上店主は、今回の海老塩は、拉麺で食してほしかったようだ。
旨い海老塩だった。

Weekendの麺処巡り ハタ日は味噌

2007-03-21 17:09:47 | 拉麺
 山岸一雄御大が、ついに伝説となった。
昨日の最終日、東池袋大勝軒には行けなかったが、聞くところによると、
今後もきっと破られないだろう長蛇の列だったそうだ。
 本日、馬場のべんてんで田中光勝店主に伺ったところ、
私たちがべんてんで並んでいる頃、終焉となった元東池袋大勝軒の
店先で、元常連の皆さんが集まり、エンドパーティの如く、
朝から酒盛りが行われていたそうだ。
もちろん、店は閉店。流石、常連。

 さて、本日は春分の日、そうハタ日である。ならば、べんてんでは
「特製味噌」が登場する確率は非常に高い。
並んで開店を待っているいつもの皆さんも、味噌が出ることを期待している。
 さあ開店、ドアが開いたその奥には、「味噌100円」の品書きが垂れ下がっていた。
オーダーは、もちろん、塩に味噌のせ900円をコール。
 この田中店主の特製味噌、数種類の味噌を合わせ、いろんな具が
中に込められている。
「今日の味噌は、少し甘いからねー」と田中店主から声がかかるが、
味噌を摘みながら食べてみると、甘くはない。十分辛い。
混ぜないで、摘みながら食べるのがコツで、塩にもピッタリマッチ。
いやはや、べんてん特製、味噌マジックだった。

東京の坂道巡り 歌坂

2007-03-21 05:29:26 | 坂道
 M氏と別れ、牛込中央通りに出て、外堀通り方面まで下る。
途中、左に上りの坂道がある。
これが「歌坂」(うたざか)だ。
 歌坂の説明柱には、「善知鳥」(うとう)という海鳥の一種の
鳥のクチバシが、坂道の形に似ており、「うとう」が「うた」に
変化したので、そう呼ばれたといわれている。
ここは十八番の歌でも唄いながら歩きたい。
 別名、「雅楽坂」ともいう。
(市谷田町2丁目17番地辺り)

東京の坂道巡り 鰻坂

2007-03-21 05:24:07 | 坂道
 拡張工事中の上り坂を上がり、途中から右に入って
先ほどの芥坂を上る。左、右と曲がりながらたどり着いた先が
下りの坂道。これが「鰻坂」(うなぎざか)。
 この坂道、途中、牛込中央通りを横断し、さらに上りの曲がった
坂道までが鰻坂だ。
 なかなか、趣のある鰻坂に感心していると、後ろから声がかかった。
なんと業界の先輩・M氏だった。M氏の自宅がこの坂道の途中にあり、
よく坂道巡りの団体連れが、鰻坂を訪れていると話していただいた。
 M氏とは数年ぶりの再会で、15分ほど世間話に花が咲いた。
(払方町辺り)

東京の坂道巡り 長延寺坂

2007-03-21 05:19:45 | 坂道
 浄瑠璃坂をだらだら下り、途中で右に入る。少し進むと下り坂。
坂下の道は拡張工事、真っ最中だ。この道が中根坂まで続く。
そのとい面に右に上る坂道がある。
これが「長延寺坂」(ちょうえんじざか)だ。
 昔は坂上に長延寺があったのだそうだが、今は同じ名前の
アパートと保育園がある。
(市谷長延寺町辺り)

東京の坂道巡り 浄瑠璃坂

2007-03-21 05:16:38 | 坂道
 芥坂の坂上から、さらに右左と曲がり、広い通りに出る。
外人さんが住むマンション郡があり、簡素な住宅街だ。
 芥坂の近くに「浄瑠璃坂の仇討ち」の説明版があった。
それによると、江戸の二大仇討ち(ひとつは赤穂浪士の討ち入り)、
その一つが、1672年2月2日、下野宇都宮城主の奥平忠昌の法要で、
家老同士が戒名を巡り口論となり、殺傷沙汰になった。
家老の子息の源八とその親戚縁者が仇討ちを果たしたという。
 浄瑠璃坂の由来は、この近くに人形浄瑠璃の興行小屋が
建っていたといわれるが、定かでない。
しかし、名前に情緒があっていい。
(市谷砂土原町1丁目2番地辺り)