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コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

天誅組とは何か(第8回なら観光サロン)

2012年05月07日 | 観光にまつわるエトセトラ
観光に興味のある有志で作る「なら観光サロン」の8回目を4/26(木)に開催した。参加者は26人。来年の「天誅組蹶起(けっき)150年」を控え、演題を「天誅組とは何か」として、舟久保藍(ふなくぼ・あい)さんを講師に迎え、約1時間のご講演をしていただいた。6/2(土)には第10回古社寺を歩こう会として「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」というウォーキング・ツアーも予定しているので、ちょうど良い予習にもなった。

舟久保さんは、「維新の魁・天誅組」保存伝承・推進協議会(五條市新町)の特別理事を務めておられる。この日、舟久保さんにはツボをきちんと押さえつつ、興味深いエピソードを交えてお話しいただいた。懸命にメモしたがとても追いつかなかったので、当日配付していただいた「天誅組の変」(五條市教育委員会)から、概要を抜粋する(青字で表記)。

1.「天誅組」とは
天誅組は幕末の文久3年(1863)8月、江戸幕府を倒して新しい日本を創るさきがけになろうと立ち上がった、中山忠光(ただみつ)を盟主とする尊王攘夷の志土たちです。中山忠光は当時19歳の血気盛んな青年貴族でした。後に明治天皇となる祐宮(さちのみや)の叔父にあたり、祐宮の侍従を務めたことも
ありました。

忠光のもとには、土佐(高知県)出身の吉村虎太郎、三河(愛知県)出身の松本奎堂(けいどう)、備前(岡山県)出身の藤本鉄石(てっせき)が三総裁として仕えていました。また五條在住で天誅組に参加した志士には、乾十郎・井澤宜庵(ぎあん)の二人がおり、丹生川上神社の神職を務めていた橋本若狭(わかさ)も、宇智郡滝村(五條市滝町)の出身でした。


舟久保さんは、「忠光は、明治天皇の遊び相手を務めた」と表現されていた。


写真はすべて吉田遊福さんに撮っていただいた。遊福さん、有難うございました!

2.寺田屋事件(文久2年)
文久2年には「寺田屋事件」が起きた。薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件である(世に「寺田屋事件」と呼ばれる事件は2つあり、別の1つは慶応2年[1866年]に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件である)。Wikipediaで寺田屋事件(文久2年)をおさらいしておく。《文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫されたと言われる事件。寺田屋騒動とも》。

《藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負った。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集った。当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである》。



《久光は大久保一蔵等を派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。ただし万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ。大山綱良らは有馬新七に藩邸に同行するように求めたが有馬はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手1人)と有馬ら6名が死亡、2名が重傷を負った。また2階には多数の尊王派がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した》。

《負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。斬った柴山矢吉は後に発狂したという話がある。彼だけでなく、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い。一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要職に立った。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった》。同年8月には生麦事件(島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷)が起き、そのもつれから文久3年7月には薩英戦争が起こっている。そういう時代であった。



3.寺田屋炎上!(by 京都市産業観光局)
余談になるが、Wikipedia「寺田屋事件」に、こんなことが書かれている。《現在寺田屋を称する建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった》。

《2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している》。

《大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない》。これは驚いた。私が「寺田屋」を訪ねたのは1度や2度ではない。幼い長男を連れて行って、「弾痕」や「刀傷」を見せたこともある(以来、息子は日本史好きになった)。それが「再建」だったとは…。「京都のいしぶみデータベース」にはA4版6ページの「寺田屋関係資料9種と若干のコメント」という詳しい資料が掲載されている。

そこには《2008年9月1日発売週刊ポスト誌9月12日号に“平成の「寺田屋騒動」”と題した記事が掲載された。この記事は,伏見寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失し,現在の建物はその後再建されたものであると主張する。事前に同誌の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課では「ご指摘の件は至急調査確認」(ポスト誌による)すると回答した。その後,京都市歴史資料館に調査依頼があり,当館では「寺田屋が鳥羽伏見戦で焼失した」と結論づける調査報告を提出。9 月25 日,産業観光局観光部ではこれを各報道機関に配布した。本稿は京都市産業観光局観光部(担当観光企画課)の依頼により作成した寺田屋再建に関する京都市歴史資料館の報告書をもとにしている》とある。 閑話休題。「天誅組の変」の引用を続ける。



4.当時の五條
そのころの五條には幕府の代官所が置かれ、周辺の幕府領(天領)を支配する政治の中心地でした。それでも代官所は、数名の役人しかおらず警備も手薄で、倒幕の狼煙(のろし)を上げるには都合の良い攻撃目標でした。また、森田節斎(せっさい)のような尊王の儒学者が生まれたように、そこに住む人々の教養も高く、尊王思想にも理解があったようです。また、五條は朝廷を崇拝する気風が伝統的に強い十津川の玄関□であり、反幕府の機運が高まると、京都の志士が節斎と連絡を取り合いながら、十津川に入って郷士たちに決起を呼びかけていました。

坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」で、刺客は「十津川郷士」と偽って押し入った。十津川郷は古くから朝廷から税の減免を認められていたので、勤王の志が強かったのである。

5.森田節斎
森田節斎は文化8年(1811)に五條で生まれ、15歳の時に京都で頼山陽に入門したのち、各地を遊学して立派な儒学者に成長し、吉田松陰など尊王攘夷の志士たちを教育しました。天誅組に参加した志士にも、乾十郎や原田亀太郎など節斎の指導を受けたものがいました。天誅組の変当時は倉敷で塾を開いていましたが、幕府から危険人物と目されたので塾を閉めて故郷へ帰り、最後は紀州粉河近くの荒見村(現在の和歌山県粉河町荒見)に隠れ住み、慶応四年(1868)に同所で亡くなりました。


6.天誅組の変
文久3年、そのころの日本ではいわゆる鎖国が終わり、外国人が日本に人り込んでくるようになりました。それと同時に江戸幕府の権力が弱くなり、多くの人たちがこれからの日本はどうあるべきなのかを真剣に考えていました。そんな中で、天皇を崇拝する思想である尊王論と、外国を排除する思想である攘夷論とが結びつき、幕府を倒し天皇が直接政治を行う新しい社会を創ろうとする尊王攘夷派と、幕府を立てなおし朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする公武合体派との間で、険悪な雰囲気となっていました。

同年8月、朝廷の要職に就いていた三条実美(さねとみ)ら尊王攘夷派の公家たちは、幕府に攘夷決行の命令を下しましたが幕府はためらってそれを実行しようとせす、ついに実美たちは倒幕の策を練りました。それは孝明天皇に神武陵・春日大社で攘夷を祈願する大和行幸を働きかけ、それに乗じて倒幕の兵を挙げようというものでした。そして思惑通り8月13日(旧暦)、大和行幸の詔(みことのり)が発せられました。それを受けて、倒幕軍の先鋒になろうとした天誅組の志土たちは密かに京都を出発。70~80人ほどの軍勢で五條代官所を襲撃したのは、8月17日の七つ時(午後4時ごろ)のことでした。

天誅組は、五條代官の鈴本源内らを殺害して代官所を焼き払うと、桜井寺を本陣に代官所管轄下の天領を朝廷に差し出すと宣言しました。後は天皇の行幸を待つばかりとなり土気も高まる天誅組でしたが、翌8月18日、京都では公武合体派が政変を起こし、三条実美ら尊王攘夷派は失脚した(8月18日の政変)ために大和行幸は取りやめとなり、一転して天誅組は逆賊として追討軍に追われるところとなりました。



7.8月18日の政変(公武合体派のクーデター)
「8月18日の政変」について、Wikipediaを引いて説明を加えておく。《文久3年8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。(中略) 大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策していた。8月15日、松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと、高崎正風(薩摩)と 秋月悌次郎(会津)が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下った》。

《文久3年8月18日午前1時頃、中川宮と松平容保、ついで近衛忠熙(前関白)・二条斉敬(右大臣)・近衛忠房父子らが参内し、早朝4時頃に会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置が完了した。そこで在京の諸藩主にも参内を命ずるとともに、三条ら尊攘急進派公家に禁足と他人面会の禁止を命じ、国事参政、国事寄人の二職が廃止となった。8時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内し、諸藩兵がさらに九門を固めた》。

《かかる状況下での朝議によって、大和行幸の延期や、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議した。長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなった。19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿落ち)》。

《政変の前日、土佐浪士の吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵するも、政変による情勢の一変を受け9月末に壊滅した(天誅組の乱)。また、10月には平野国臣や河上弥一らが七卿落ちの公家の一人澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵したが、諸藩に包囲され澤らは逃亡、河上らは集めた農兵に逆に殺害されるなど、無残な敗北に至った(生野の変)。政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮した》。では「天誅組の変」に戻る。

天誅組は、尊王の志が厚い十津川に立てこもってそこで兵を募り、高取城を攻めるなどなおも抵抗を続けましたが、天誅組が反乱軍となった事実が十津川郷士に知れると、彼らも離反して勢力は日に日に弱まり、9月24日に吉野郡小川郷鷲家□(今の東吉野村小川)でほとんど全滅しました。天誅組の変は、尊王攘夷派によって試みられた最初の反幕府武装蜂起だったのです。そうした意味で、天誅組の変は明治維新のさきがけとなるものであり、五條が明治維新発祥の地と言われるゆえんでもあります。

8.おお、大砲(徳川300年の実態)
高取城の攻防について、舟久保さんから興味深い話をお聞きした。高取藩の藩宝たる大砲から撃たれた弾は、当たった男に3日間の耳鳴りをさせただけ、というトホホな話である。このシーンは、司馬遼太郎著『おお、大砲』に活写されている。《『おお、大砲』は、高取藩士の次男坊の新次郎が、ひょんなことから藩に常備された大砲の担当となって、天誅組との高取城攻防戦に活躍する内容である。新次郎と因縁のある玄覚房は天誅組に参加するが、維新後に再会した二人が次のような会話を交わす部分がある》(井本喬氏のHP「本に出会う」)。

《「大砲さ、だれにも当たらなかったのに、運わるく私にあたってしまった。頭に、三貫目玉が一発、ぐゎあんとぶちあたって来た」「それあ‥‥‥」新次郎はしばらく声をのんで、「私が射ったんだ」「ほほう、これは奇縁だ」玄覚房は妙な感心の仕方をして、「奇縁だな。やっぱり、あんたとは縁があったんだ。よりにもよって、あんたがぶっぱなした玉とは夢にもおもわなんだ」「私も想像だにしなかった」「まったくあの大砲にはひどい目にあわされた。三貫目玉がカブトに当たってから、三日三晩、耳鳴りがして眠れなかったほどだ」
「耳鳴り。…」こんどは新次郎のおどろく番だった。二百年間、高取藩の藩宝として受けつがれてきたブリキトース砲は、この紀州の足軽あがりの男に耳鳴りさせただけにすぎなかったのだ。(なるほど、そういうものかもしれない)この一事で、徳川三百年というものの中身が、なんとなくわかるような気がした》(同)。



9.幕府による「天誅組討伐」
高取城攻撃が行われたあとの詳しい動きをWikipedia「天誅組の変」から拾っておく。《天誅組に対して、高取藩兵は大砲と鉄砲で攻撃、烏合の衆である天誅組はたちまち大混乱に陥ったが、忠光にこれをまとめる能力はなかった。天誅組は潰走して五条へ退却する。吉村は決死隊を編成して夜襲を試みることとし、26日夜、決死隊は高取藩の斥候に遭遇し交戦するが、味方の誤射により吉村が重傷を負ってしまう。決死隊はなすところなく退却し、天の辻の本陣へ戻った。忠光は、紀州新宮より海路で移動し、四国、九州で募兵することを提案するが、吉村らはこれに従わず、忠光は吉村らと別れて別行動をとった。また、この時点で三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥のように脱走するものもあった》。

《幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などに天誅組討伐を命じた。9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。9月5日、忠光が吉村らに再度合流して天の辻の本陣へ帰った。諸藩の藩兵が動き出し、6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する》。

《14日、紀州・津の藩兵が吉村らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は十津川郷に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みるが、重傷を負っていた吉村は一行から落伍してしまう》。

《24日、一行は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。那須信吾は忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、藤本鉄石も討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。一行から遅れていた吉村は27日に鷲家谷で津藩兵に撃たれて戦死。天誅組は壊滅した。忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐり脱出に成功、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われた。忠光は長州に逃れて下関に隠れていたが、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)によって元治元年(1864年)11月に絞殺された》。



10.「流転の王妃」嵯峨浩(ひろ)は、中山忠光のひ孫だった!
下関に隠れてからの中山忠光の動きが興味深い。舟久保さんから詳しくお聞きしたが、Wikipedia「中山忠光」から拾っておく。《長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、潜居中の同年11月9日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。刺客であろうとされる剣の達人である福永正介の墓が現在の下関市大字福江字平松にある。長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われている。(忠光の)墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位》。

《「忘れ形見・仲子とその末裔」中山神社内の愛新覚羅社の由緒書きによると、長府藩潜伏中に寵愛した侍妾恩地トミは、忠光が暗殺された後に遺児仲子を産んだ。忠光の正室・富子が仲子を引き取り養育する事になり、公家の姫として育てるために、忠光が暗殺された長府藩の藩主家・毛利氏の養女となり公家・中山家に引き取られた。富子は亡き夫の忘れ形見の仲子を大事に育て上げ、維新後に仲子は嵯峨公勝夫人となった。また、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身の浩は、忠光の曾孫(ひまご)にあたる》。

仲子の孫で、忠光の曾孫(ひまご)にあたる嵯峨浩(ひろ)は、「流転の王妃」である。Wikipedia「嵯峨浩」によると《嵯峨浩、1914年(大正3年)3月16日―1987年(昭和62年)6月20日)は、愛新覚羅溥傑(満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻。流転の王妃として知られる》《浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた》。

《当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められなかった。そこで昭和天皇とは父親同士が母系のまたいとこにあたり、侯爵家の長女であり、しかも結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになった。翌1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式が挙げられた》。



浩は2人の女の子を産む。しかし戦争が運命を弄んだ。夫婦は次女を伴って新京に移り住んでっていたが、溥傑は日本へ亡命する途中でソ連軍(赤軍)に拘束される。浩は流転の末、上海発の最後の引揚船に乗船して帰国する。浩は《日本に引揚げた後、父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・嫮生と、溥傑との文通を認めた》。

《1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生大久保武道とピストル自殺した(天城山心中)。1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。(中略) 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された》。

《溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。次女の嫮生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、2008年(平成20年)現在、兵庫県西宮市に在住する》。この話は、テレビ朝日開局45周年記念作品「流転の王妃・最後の皇弟」としてドラマ化された。観光サロンの参加者にも、このドラマを見た人がいたが、それが天誅組とつながっていたとは、誰も知らなかった。なお浩を演じたのは常盤貴子で、偶然彼女は《浩の孫(次女嫮生の次男)と同級生であった》という。

11.天誅組「軍令」にみるサムライ精神(おわりに)
最後に舟久保さんは、天誅組の「軍令」を抜粋して紹介された。
○一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず。
○乱暴、これあるまじき事。猥(みだ)りに民屋に放火し、餓死するともほしいままに取り申すまじき事。
○諸勝負は勿論、飲酒にふけり、或いは婦人等けっして犯すまじき事。
○上下の礼を守り、言語動作、人に対して驕(おご)りがましき振舞あるべからざる事。


確かにここには、「皇軍」の名に恥じない行動を求めるサムライの態度が感じられる。一時的な奇襲隊ではなく、皇軍先達としての意志が読み取れるのである。私利私欲ではなく、「天」や「神」といった「公」に殉じようとする意志が感じられる。

参加された皆さん、たくさんの良いご質問をいただき、おかげで私も理解が進みました。舟久保さん、わずか60分なのに中身の濃いお話を有難うございました。お若いのに、よくあれだけの該博な知識を身につけられたものです。舟久保さんこそ、本物の「歴女」ですね。次は6/2(土)の第10回古社寺を歩こう会「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」でお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします!
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奈良町宿(紀寺の家)が、雑誌「住む。」に登場!

2012年05月06日 | 観光にまつわるエトセトラ
以前、当ブログで奈良町宿(紀寺の家)を紹介したことがある。その後「eclat(エクラ)2012年 4月号」、「naranto(奈良人)2012年 春・夏号」、「七緒 着物からはじまる暮らし vol1.29」(2012年 春号)、「Discover Japan TRAVEL vol.3」(2012年2月)、週刊奈良日日新聞(4/6付)などに紹介され、啓林堂書店などは「奈良町宿 紀寺の宿」ブックフェアを開催したほどである。
※奈良町宿(紀寺の家)のホームページはこちら、FaceBookページはこちら

奈良日日新聞(同)の「論点」(染谷和則記者)では《不便さに宿る「奈良らしさ」 風情ある町家 後世に伝えたい》のタイトルで、この宿に言及している。《奈良町の町家に住み、昨年10月に築100年の町家を現代風に改装した宿泊施設「紀寺の家」をオープンさせた藤岡俊平代表(29)は、利用客の声や感想に耳を傾けてきた。その中で印象深かったのは「町家って、現代家屋のサッシ窓と違って風で揺れたりして、きしみ音が鳴ったりすることが多いんです。これはお客さんに嫌がられるかなと思い、隙間にゴムを挟もうかとスタッフと悩みましたが、お客さまには『この音(きしみ音)がいい』と言われたんです。ああ、この不便さの中にある趣や風情、奈良らしさを感じてもらえたんだ、そんな気がしました」と語る》。


写真はすべてブログ「奈良町宿の日々」から拝借した

《どこか懐かしい、奥ゆかしい風情は、観光客が理解してくれている。しかし、それら「奈良らしさ」を住人、県民が理解し、残していこうとする気概はあるか。そこには、まだまだ伸びしろがありそうだ。(中略) 姿を消すと二度と取り戻せない町家。維持、修繕をはじめ、実際に住むと生じてくるさまざまな不便さの中に宿る「奈良らしさ」を、その地域だけでなく、皆で共有できたなら、町家はまだまだ生き残れる。今の若い人たちに町家へのあこがれやニーズがあることは、きっと一筋の光になる》。

奈良町宿は、とうとう季刊誌「住む。」(2012年 春号)で、20ページにわたって紹介された。「これから家を建てる人は、ぜひ読んでほしい。すでに家を建てた人にも、ぜひ読んでほしい」という専門誌で、藤岡さん曰く「今までお手本にしてきた憧れの雑誌」である。20ページの中から、ピックアップして紹介する。

住む。 2012年 春号 [雑誌]
泰文館
農山漁村文化協会

町と町家を再生する。ある試み「奈良町宿」を訪ねて。
世界遺産にも認定されている観光地だというのに、奈良の町はどこかのんびり、日なたの匂いがする。近鉄奈良駅から10分ほど歩いたところにある奈良町。かつては元興寺を中心にしてにぎわい、今でも古い町家が点在する懐かしい風景がある。この町家を残し、再生させることで、町の風情を守ろうとする人たちがいる。




僕たちはこの町で、町家に暮らすことに決めた。
奈良町には、江戸末期から昭和にかけての町家が多く残っている。間口が狭く奥に長い、庶民の住まいだ。今どき木造の古い家は、子世代には敬遠される。住み手が去った町家は、あっという間に朽ち果て取り壊され、跡地は駐車場や建売住宅になる。ここ二十年で町の様子はずいぶん変わった。「町家を改修したカフェやショップも喜ばれていますが、でもそれだけじゃだめなんです」そう話す藤岡俊平さんは奈良町生まれの設計士。父は建築家の藤岡龍介さん。奈良を拠点に、町家の改修、再生を地道に続けている。「ただ町家を再生するだけではなくて、その町家に暮らす人が戻ってくれないと、町の再生にはならないんです」




俊平さんたちが育った家も町家だった。その実家のそばに、古い町家が残っていた。二十年、人が住まず、風化するがまま。持ち主がついに取り壊し、学生用のワンルームマンションにするという。子供のころ、よく遊んだ懐かしい風景。都会の狭いマンションでは味わえない縁側での時間。このままあの町家が壊されてしまうのを、見ているしかないのか……。そこで出たのが、町家を改修して宿にするという案。町家でも暮らせるというモデルとして、ここでの時間を体験してほしい。奈良町の普段の顔を見てもらいたい。問題は、だれが改修の指揮をとり、宿を運営するかということだ。実家に帰るたびにその話になる。

町家の再生を、町と町並の再生につなげたい、という思いを形にするには、まず自分たちが動かなくては。俊平さんは、東京の職場をやめることにした。大阪の建築事務所にいた長女の奈保子さんも、奈良に戻ることにした。客室乗務員が夢だった次女の志乃さんは、宿のホスピタリティを担う。奈良のおいしい食材を食べてほしいと、宿の食事は俊平さんの妻、栄養管理士の希(のぞみ) さんが手を挙げた。今、俊平さんと希さんがひとり娘と暮らす家は、俊平さんが生まれ育った町家だ。藤岡家の町家に新しい世代が住むことになり、こうして奈良町宿の準備が始まった。


藤岡俊平さん「朝のそうじが、私の1日のはじまりです」

町家の新しい暮らし方を伝えたい。町家を「宿」に改修
CMを見れば「高気密、高断熱の家」。婦人誌を開けばテーブルの上の華やかな食器。そんな映像が擦り込まれた人々にとって、目の前の傷んだ町家は薄暗く、使いにくく、次から次へと補修箇所が発生するやっかいの塊だ。「町宿」として再生させる前の建物の写真を見せてもらった。明治の末から昭和にかけて、借家として建てられたものの一軒だという。改修する前、約二十年は人の住まない時期があったため、ずれた瓦から雨が漏り、桁や梁が腐り、崩れた部分もある。土間に床を張ってキッチンセットを置き、そばに小さな風呂場をつくる改修で、湿気のせいか、水回りの傷みは激しい。正直言って、よくこの古家を改修しようと思ったものだ。壊そうと思う家主の気持ちはよくわかる。ところが。「どんなに朽ちた家でも、生き返ります」

長年、町家の改修・再生を手がけてきた藤岡龍介さんはきっぱり言う。俊平さんの父だ。昔の木造建築は、釘を極力使わず、柱と梁、柱と他の材を、組木のように噛み合わせ、込栓、鼻栓、しゃち栓などの木片で固定する。ていねいにばらせば、また別の場所で組み立て直すことができる。「昔の家は、今の材料と比べると、格段にいいものを使っているんです。密度の高い柾目などは、今ではほとんど手に入りません。町家を重機で潰してしまえばゴミにしかなりませんが、ていねいに解体すれば、いくらでも使える部分はあるんです」




しかし、古いものをそのままよみがえらせるだけでは、現代人は生活できない。古い家が敬遠されるいちばんの理由は、使いにくい水回りだ。長い間に幾度かの改修を経るのも、時代に合った水回りにしようとしてのこと。龍介さんは、できるだけ町家本来のプランに戻しながら、無理のない場所に水回りを整える。町宿では、土間にキッチンをつくった。IHコンロで、火事のリスクを遠ざけようとしている。バスルームは、奥の庭に面した場所に、小さいながらも気持ちのよい部屋を提案した。洗面トイレには床暖房も施している。「単に昔の生活に戻れというのではなく、あくまでも町家のよさを生かしたうえで、現代の生活ができることを、ここで実感していただければ、と思っているんです」と俊平さん。「縁側で季節の匂いを察したり、ガラス戸がカタカタいう音に風を感じたり、ここで新たな発見をしていただければうれしいんです」



「食」は健やかな地元食材を使って。
朝の食事といっしょに部屋に運ばれるメニューは、希さんの手書き。自宅の畑で育てた野菜や知り合いの農園から届けられる有機野菜、しぼりたてのビン牛乳、近所のパン屋さんがつくる天然酵母パン、羽間自然農園でつくる自然発酵紅茶……。スタッフみんなで選んだ地元のこだわりの食材が使われている。新鮮な食材の持ち味をできるだけ生かすようにと、希さんがシンプルに料理する。「畑でネギがたくさん採れると、ネギをどうやって美味しく食べようかなっていうところからメニューを考えています」と希さん。




奈良にうまいものなし、と言ったのは志賀直哉だが、今やJR奈良駅前に、近郊農家によるオーガニックマーケットが立つ。意欲的な生産者が増えているのだ。「里山と町がすぐ近くにある奈良では、町の人と関わりながら農業ができるんです」。町宿に野菜を届ける北村国博さんがいう。小さな町では手の届くところに健やかな食材がある。夕食に出されるごはんの玄米は、住宅地の
中にある田んぼでスタッフが手植えし、無農薬で育てたものだ。炊き方を工夫して、噛み締めるほどに味わいのあるもちもちごはんに炊き上げる。ゆったりとした奈良の時間がそのまま体に染み渡るような、清々しい食卓だ。


さて、皆さんは全国47都道府県をテーマとした日本初のミュージアム「d47 MUSEUM」をご存じだろうか。4/26から「渋谷ヒカリエ」で開催されている。ここで「奈良の宿」に選ばれたのが、奈良町宿である。J-CASTニュース(4/22付)によると



ロングライフデザインをテーマに活動を行うD&DEPARTMENT PROJECTは2012年4月26日、ミュージアム「d47 MUSEUM」を渋谷ヒカリエ(渋谷区渋谷2-21-1)の8階に開館する。90センチ角のテーブルが47台ならぶ館内では、企画ごとにテーマを変えながら、日本のデザインとクリエーションの今を感じさせる展示を随時行っていく予定だ。オープン初日から開催の第1回展示「NIPPON DESIGN TRAVEL~47都道府県のデザイン旅行 ~」のテーマは、「観光デザイン」。観光、食事、お茶、買物、宿泊、人の6つの項目を設け、47都道府県の観光資源を独自の基準で選定し、展示を行う。

展示品の一部を購入できるショップや、地域の食材を使った料理を楽しめるレストランの併設に加えて、地域のキーパーソンを招いて行うトークイベントやワークショップなども計画される。なお同展は、入場料800円で、5月28日までの開催となっている(11時~20時)。1997年にはじまるD&DEPARTMENT PROJECTのコンセプトは、「流行や時代に左右されることのない、長く使い続けられるロングライフデザイン」。現在ではネットショップに加えて、川久保玲とコラボレーションした「GOOD DESIGN SHOP COMME des GARCONS」をはじめ、全国6店舗を展開している。




つまり第1回は新しい「観光デザイン」をテーマとして、「当地らしさのある宿」「当地らしさのある土産物」など「1泊2日の6要素」を展示台に並べ、土地の個性を感じてもらうという企画展なのである。「観光」とは『易経』によれば「国の光を観(み)る」、つまり当地の優れたもの(光)を見るという意味であるが、それを「観光施設、食事、カフェ、土産物、宿、その土地の人材」の6つの切り口に絞っているのである。ディレクターは、高名なデザイナー(デザインプロデューサー)のナガオカケンメイ氏だ(奈良市観光協会事務局長・長岡光彦氏のご親戚ではない、念のため)。

そのナガオカ氏が選んだ「奈良の6要素」は、観光施設=入江泰吉記念奈良市写真美術館、食事=そうめん処 森正、カフェ=工場跡事務室、土産物=吉田蚊帳(かちょう)、宿=奈良町宿、人材=石村由起子(くるみの木)、というわけで、見事、「宿」部門に、新参の奈良町宿が選ばれたのである。

さらに5月中旬には、BS朝日の「エコの作法」という番組で奈良町宿が紹介される。以前、当ブログに「週末リゾート」(金泊)の話を書いたが、奈良町宿にも、特に名古屋方面から車で来て金曜日の夜に泊まる女性グループが多いそうだ。神戸、大阪から来られる観光客も増加しそうだという。同宿のHP「町家に暮らす」には、このように書かれている。

家の前を掃除、打ち水をするところから一日は始まります。夏は部屋の建具を開け放し風を通す、冬は家族が一つの部屋に集まって火鉢を囲み、お餅や芋を焼いて食べていました。床の間に四季にあわせた掛け軸や生け花をしつらえ 十五夜には縁側にすすきと団子を供え。町家では、日本が創り出してきた伝統・しきたり・知恵の暮らしがあります。旬の野菜や果物を食べたり、各家庭で行事に合わせた料理を作ったりと、素朴ではありながら今では魅力的な豊かな暮らしがそこにはありました。味わうよろこび・香るよろこび・触れるよろこび・聞こえるよろこび・映るよろこび 時間を過ごす過程に感じられる「よろこび」が、豊かな暮らしを形作っていくと考えています。そんな私達が考える、今の町家暮らしを感じて頂ければ幸いです。

私はかつてマンションから一軒家に移り住んだとき、雨が庭の木の葉を打つ「ぱらぱら」という音を聞いて、心が和んだことがある。マンションの11階では雨は通過するもので、せいぜい車が雨水を踏む雑音が反響する程度だったのだ。だから「窓のきしみ音がいい」という感覚はよく分かる。奈良町宿は、単なる宿泊施設ではない。ほんの半世紀前にはこの国では当たり前だった日本人の「暮らし」と、暮らす「よろこび」が凝縮しているのである。まさに「ロングライフデザイン」だ。

皆さん、ぜひ奈良町宿にお泊まりいただき、「町家暮らし」の喜びを体感してください!
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まほろば会は、シルバー草刈り支援隊 (for 神社仏閣)

2012年05月05日 | 奈良にこだわる
「まほろば会」というグループをご存じだろうか。県の「健やか奈良支援財団」のシニアリーダーカレッジ6期生(2009年3月修了)4名を中心に結成されたボランティア団体である(同財団は、一部業務を奈良県社会福祉協議会に引き継いで解散した)。いわば「シルバー草刈り支援隊」だ。同財団の会報誌「すこやか・なら」(10年冬号)に、この団体のことが紹介されている。
※3枚の写真は般若寺、末尾の6枚の写真は白毫寺での活動の様子。ご関係者から送っていただいた

まほろば会(主な活動場所 県内のお寺や神社:文化財)
「世界に誇れる奈良県の文化財を、地域住民もいっしょになって守っていけるしくみができれば」と思い始まった活動です。せっかくだから参加者に楽しんでもらおうと、毎回遊びの要素も取り込みます。まずお寺や神社の清掃活動を1時間ほど行います。短時間の清掃活動なのであまり体力を消費しませんが、みんなでするので驚くほどきれいになります。その後住職さんからお話を伺ったり、近くの文化財までウォーキング(解説あり)をしたりします。また、秘仏などを見せてもらえることもあります。


奈良検定ソムリエ有資格者の会である「奈良まほろばソムリエ友の会」メンバーの鈴木英一さんから、詳しい情報をメールでお送りいただいた。《第1回の新薬師寺に始まり,先週(4/20)の元興寺で14回。他にプラス2回(向原寺・霊山寺 昨年6月財団の実習として行った)、合計16回です》《参加者数は、1回目~10回目は20名以下、11回目(23年7月)より友の会のメンバーが参加し、現在約50名程度です。参加費500円(保険料・消耗品費。残金は志納)。将来構想:県下のボラティアガイドと共同で文化財の公開と保全を目指したネットワークを作りたい》。



草引きなどの清掃奉仕をするのに、逆にお金を出し合ってお布施をする。住職からは講話をしていただいたり、時には秘仏も拝観させていただけるという。昨年10/6に実施された白毫寺での草引きと講話の様子を「まほろば会 第12回実施報告書」から引用させていただく。

清掃後に宮崎住職さんによる法要と講話がありました。
Ⅰ.お寺の歴史
天智天皇の第7皇子、志貴皇子(采女の子)の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられる。西大寺の叡尊により復興されたが、兵火、雷火などによる焼失などの災難に遭っており、その後復興されている。そのためか真言律宗のお寺です。

参道は桜並木で賑わったが、桜の根が参道の石を壊すために切られた。その後松林となったが、松食い虫により枯れてしまう。そして今は萩が植えられて花の寺とまで言われるようになりました。志貴皇子の心情を読んだ万葉歌碑が境内あります。
高円の野辺の秋萩いたづらに 咲きか散るらぬ見る人なしに(笠 金村)



Ⅱ.講話
「ぼけ防止には」次の3つを心がけるとよい。
1.汗をかくこと。
目と足腰がしっかりしていないと自分のこともできない。ましてや人のためにもできない。汗をかいて足腰をきたえて下さい。
2. ものを書くこと。
文章をまねて書く、または絵を描くのがいい(写経や写仏もよい)。
3.恥をかくこと。
高齢になると人に聞くことをしない。いろんなことを人に聞いたり して知識や教養を深めるとともに思考力を養うことがよい。
以上のことを実践して今後の人生を過ごしてください。


なるほど、これはいい。奈良のシルバーも、まほろばソムリエも、頑張っているのだ。草引きとその後のウォーキングで、ほどよく体を動かせるし、講話(時には秘仏拝観)で知識や教養が身につく。境内がきれいになって、お寺にも拝観者にも喜ばれる。いかにも奈良らしい「三方よし」のグッドアイデアである。

ご関心のある方は、ぜひご協力ください。
お申し込み・お問合せは、鈴木英一(すずき・えいいち)さんへ!
電話 090-4280-0599。メール uhk86970@nifty.com


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大和地蔵十福霊場めぐりで、福徳招来! 

2012年05月04日 | 奈良にこだわる
「大和地蔵十福霊場 県内10寺を巡る 写真集を出版」という記事が毎日新聞奈良版(4/14付)に出ていた。《県内で地蔵菩薩(ぼさつ)を安置する10寺を巡る「大和地蔵十福霊場」の写真集が出版された。寺と地蔵の言い伝えや特徴が写真付きで掲載されている。霊場巡りを主催している「大和地蔵十福霊場会」会長、倉本堯慧・帯解寺住職は「本を読んで、十福のことをもっと知ってもらいたい」と話している。紹介されているのは、伝香寺と元興寺、十輪院、福智院、帯解寺、霊山寺、金剛山寺(矢田寺)、聖林寺、大野寺、室生寺》。


中央が帯解寺住職の倉本堯慧さん(くらもと・ぎょうけい「大和地蔵
十福霊場会」会長)。「ナント・なら応援団」向け説明会で(11.11.4)

《10寺のうち8寺の地蔵菩薩は国の重要文化財に指定されており、多彩なカラー写真と各寺の住職が寄稿した文章でそれぞれの御利益などがわかる仕組みになっている。全10寺を回ると「満願」となって幸福を授かるという霊場巡りは昨年6月に始まり、既に2500人以上が参加している。倉本住職は「写真集が参加者増につながれば」と期待を寄せる。写真集はオールカラーでB5変形、44ページ。税込み500円で、10寺で販売しており、今後は旅館やホテル、土産店にも販売を呼び掛ける。問い合わせは発行元の飛鳥園(0742・22・2872)》。



10ヵ寺を巡拝する場合、朱印用台紙は無料で、ご朱印は1回300円だそうだ。この火曜日(5/1付)の奈良新聞にも「カラー冊子で10ヵ寺紹介 大和地蔵巡りで十福を」という記事が出ていて、それでこの本をまだ買っていないことを思い出した。お寺のうちで最も近いのが「十輪院仏教相談センター」(東向商店街)なので、早速、退社後に買って帰った。これは良い本だ。執筆者は各お寺なので、安心してガイドできる(異説があっても、現地ではまずお寺の説明に従うべきなのである)。決して平易ではないが、ほどよい難易度である。



この本は、早くに「仏像ファン必携!『飛鳥園』さんのガイドブック各種」としてnakaさんが紹介されていた。《お地蔵さまはある程度は形が決まっているため、やや造形的な面白みに欠けると思われがちですが、仏像ファン的に言うと、これはとんでもない誤解だと思います。この本で画像を見比べてみるだけでも、大きさやお姿はもちろん、制作年代も素材も表情も、何から何まで違う、バラエティーに富んだお地蔵さまばかりです》。

《さらに、この札所寺院の8体の地蔵菩薩像が国の重要文化財に指定されているんですから、とても貴重ですね。飛鳥園さん発行のガイドブック「大和地蔵十福」では、写真が素晴らしいのはもちろん、各寺院のご職が文章を寄稿しており、内容も興味深いですね。それと同時に、難しくなり過ぎないように全体のレベルを合わせてありますから、とても読みやすかったです》。


本堂で、帯解子安地蔵像の説明を受ける

なお十輪院のHPによれば、地蔵十福とは
女人泰産(にょにんたいさん)健康で聡明な子供の安産が叶います。
身根具足(しんこんぐそく)健全な心と身体を授けてくださいます。
衆病悉除(しゅうびょうしつじょ)様々な病を取り除いてくださいます。
寿命長遠(じゅみょうちょうおん)元気で長生きできるようにしてくださいます。
聡明智慧(そうめいちえ)素晴らしい知恵を授けてくださいます。
財寶盈溢(ざいほうえいいつ)金銭に困らない生活を与えてくださいます。
衆人愛敬(しゅうにんあいきょう)誰からも慕われる人にしてくださいます。
穀米成熟(こくまいじょうじゅく)食べ物に不自由しない環境に恵まれます。
神明加護(しんみょうかご)災難に遭わないように護ってくださいます。
證大菩提(しょうだいぼだい)極楽に行くことを約束してくださいます。

ということであり、10ヵ寺とお地蔵さんは
伝香寺(奈良市小川町)・・・春日地蔵(鎌倉時代 重文)
福智院(奈良市福智院町)・・・地蔵大仏(鎌倉時代 重文)
矢田寺(大和郡山市矢田町)・・・延命地蔵(平安時代 重文)
元興寺(奈良市中院町)・・・印相地蔵(室町時代)
十輪院(奈良市十輪院町)・・・石龕地蔵(平安時代 重文)
霊山寺(奈良市中町)・・・地蔵菩薩(鎌倉時代 重文)
帯解寺(奈良市今市町)・・・子安地蔵(鎌倉時代 重文)
室生寺(宇陀市室生)・・・地蔵菩薩(平安時代 重文)
大野寺(宇陀市室生)・・・身代り焼け地蔵(鎌倉時代 重文)
聖林寺(桜井市下)・・・子安延命地蔵(江戸時代)


ぜひ「大和地蔵十福霊場」のガイド本を携えてお寺を巡拝し、福を授かっていただきたい。
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今井町並み散歩(21012)、いよいよ近づく!(Topic)

2012年05月03日 | お知らせ
今年(2012年)の「第17回 今井町並み散歩」は、5月12日(土)~20日(日)の9日間にわたって実施される。12日からの町かどアートでは、アートと静かな町のたたずまいを楽しめ、町衆市(展示即売)が始まる19日(土)と茶行列の20日(日)には、古(いにしえ)の今井の賑わいが体感できる。

先月、若林稔さん(今井町町並み保存会会長)から、こんなメールをいただいた。《お陰さまで恒例の今井町並み散歩は今年も第17回目を迎える日が近づいてまいりました。昨年はマスコミ各社はじめ関係の皆様がこぞって事前報道に鋭意努めていただき、期間中5万人、最終日には3万人をお迎えして大成功の行事を開催出来ました。有難うございました》。昨年の様子は、当ブログ記事「今井町並み散歩、好評裡に閉幕!」で紹介させていただいた。

《今年の今井町並み散歩は5月12日から始まる町かどアートで幕を開け、19日(土)20日(日)の恒例イベントでピークを迎えます。つきましては、今年も皆さまの広報力をお借りしてPRいただき、たくさんの御来町で開催いたしたく、ご協力のほど、よろしくお願いいたします》。20日の「今井六斎市」(フリーマーケット)は、かつてない大規模なものとなるそうである。以下、若林さんのブログ「梅香のつれづれ日記」から、このイベントの見どころをピックアップする。


写真は昨年の町並み散歩(2011)と今年の準備風景。すべて
吉田遊福さんの撮影である。遊福さん、有難うございました!

大震災1年後の東北から 再興への粘り強い長い道のりを懸命に歩まれている報道を聞くごとに、被災せずに暮らせる幸せを感謝し、保存すべき尊い町並みを守る我々に何ができるかを新たに問いかけ、力を一杯出し切れるイベントにしたいと企画しています

第17回今井町並み散歩 今井宗久をとりまく茶人たち

テーマ 絆で結ぶ商いと文化
平成24年5月12日(土)~20(日)午前9時から午後4時まで


コンセプト お茶に代表する諸文化が今井に根づいた中世の今井町、人と人とを結びつけるその基盤となったのは、商いの隆盛にある。商いとは単純に物の売買だけでなく、その生産地の思い、息づかいさえも届けてくれるものでなければならない。これは今を生きる私たちだけでなく、過去の人たちとを結びつけることが出来る今井町ならではの商いの方法であることをこのイベントを通じて発信したい。



19日(土)20日(日)限定で開催するイベント    
重要文化財及び伝統的建造物の内部公開
【時間】午前9時~午後4時
 
名工の館 大和の匠
【内容】伝統の技術を継承している匠たちの技を紹介します。
【出品者】寧楽友禅 橋爪公志氏、奈良筆実演 田川欽三氏・田川知世氏
【会場】音村家
【時間】午前9時~午後4時

箏・尺八の演奏
【内容】箏・八の演奏で雰囲気をかもしだします。
【演者】橿原三曲協会
【場所】高木家

今井町衆市
【内容】今井町がかつて商都であったことを物語る品々を展示・販売することでこれからの今井町の商いを考えていく。
【時間】午前10時~午後4時30分
【場所】順明寺

大和今井の茶粥
【内容】古くからの伝統食で、飽食の時代の今だからこそ、そして大和の今井でこそ見直してみたい食の一つとして復元しました。茶粥は今井では昔から日常的に食べられていました。お茶に関する色々な取組みの一環として、町家のかまどに火を入れ、見世物にとどまらず、茶粥を再発見したいと思います。
【時間】19日:正午、午後1時30分 20日:午前11時、午前12時30分、午後2時
(計5回)
【場所】今井まちや館
【限定食数】1回40食(19日80食、20日120食 計200食)
【茶粥代】700円

ふとん仕立て実演
【時間】午前9時30分、午後1時30分(計2回)
【場所】吉田寝具店

今井の商い展
【時間】午前9時~午後4時
【場所】尾崎家



20日のみ開催するイベント
町並み散歩「オープニング・セレモニー」
【時間】午前9時40分~
【場所】旧南口門前(保育所の運動場)
【来賓】橿原市長ほか約25名

茶行列
【内容】今井町にゆかりの今井宗久とお茶をテーマに、その時代の衣装に扮して、今井町を歩きます。呈茶席にてお茶をよばれる。今年も堺から2日間かけて徒歩にて来町。出迎え隊を組織。
【出演人員】午前/午後 各26名 合計52名
【募集】一般公募
【出演者】今井宗久、織田信長、千利休、豊臣秀吉、津田宗及、町衆、十職、付き人、飛脚、瓦版売り
【出発】午前10時と午後2時の2回 旧南口門から出発
【コース】町内指定コース

※現在、茶行列に参加してもらえる「男性」(8名程度)を募集中だそうだ(衣装は貸してもらえる。女性は募集終了)。奮ってご応募ください!



わかば会呈茶席
【内容】お抹茶を味わっていただきます。
【時間】午前9時~午後4時
【場所】今井景観支援センター
【お茶代】500円



今年の六斎市に向け、出店者の区割り表を作る

今井六斎市
【内容】六斎市は室町・江戸期の時代に毎月6回定期的に開かれた市であり、商人の町、今井町のありし日のにぎわいを感じつつ個性豊かな物品をつくられた出店者、また参加者との心のふれあうコミュニティの場とし、商品の販売、購入だけでなく、ともに遊ぶ市とする。
【時間】午前9時~午後4時
【場所】御堂筋
【出店数】総区画数197区画、141店舗(昨年実績)
【出展品目】手芸、陶芸、木工、絵画、食品、リサイクル品などの手作り品を中心としたもの、地場産品。

駐車場(20日のみ)
【場所】今井小学校運動場、橿原市役所東駐車場
【時間】午前7時~午後5時
【お問い合わせ】今井まちづくりセンター 電話0744-22-1128



たくさんの幟(のぼり)を作る

なお、19日と20日には、研ぎ師(移動式の刃物屋さん)の「砥(と)んぺい」(近藤純平さん)が来町される。近藤さんは堺で刃物研ぎの修業をされ、大阪市内を回って刃物の研ぎ直しをされている。包丁800円、ハサミ・バリカンは1,000円で研いでもらえるのだそうだ。

上記のほか、12日(土)~20日(日)に開催される「町かどアート」の詳細などは、「梅香のつれづれ日記」をご覧いただきたい。若林さんは「イベントは最終の土日(19~20日)だけではなく、12日から始まっていることをもっと知っていただきたい」とおっしゃっている。

なお5/15(火)には「着物で町中散歩」というイベントもある。@500円~1,000円で着物を借り、重伝建の町並みを闊歩しよう、という企画で、良い記念写真が撮れそうである。どんどんご応募いただきたい(今井まちづくりセンター 電話0744-22-1128)。今年はNHKの生中継や奈良テレビからの取材要請があるそうなので、これから本番にかけて、マスコミでも話題になることだろう。千葉大学の学生も、10人以上がお手伝いに来られることになっている。


電波の状況をテストするNHKの中継車

今井町では、今年「地域プランナー・コーディネータ養成塾」(第6期)に通っておられる皆さんが2日間の実習として、周辺道路の草刈りなどに従事されたおかげで、驚くほどきれいになっている(従来は若林さん1人で10日ほどかかっていた)。若林さんはその様子をFacebookに《6期生の皆さんと今井研修に取り組んでいますが、初日は迷い、2日目から作業指示を出して協働、そして突き放し(塾生のみの行動)、まとめの観察、そんなパターンで来ましたが、みんなすごーい。まず、熱がある、そして楽しんでいる。時々誰かが注意事項を差しこんで、冷静に自分を見つめなおして、そしてまた楽しんで、地域の空気をつかんでと、いい流れになっています。嬉しいです》と書いておられる。

昨年は最終日だけで3万人集めたというから、これは県下有数の一大イベントである。昨年は最終日にお訪ねしたが、町内の道路は心斎橋状態で、行列を追って移動するのが大変だった。茶行列(仮装行列)は「絵になる」ので、たくさんのカメラマンが競ってシャッターを切っていた。ぜひ皆さん、今年も「今井町並み散歩」にお出かけください!

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