tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

山上ヶ岳に墜落したB29搭乗の生存者、その行方を追う

2020年12月22日 | お知らせ
当ブログでは以前、「大峰山にB29が墜落、米兵士4人が生存…」(2020.11.19)という記事で、75年前のB29墜落事故について12月12日(土)、川上村地域おこし協力隊のデイビッド・カパララ(David Caprara)さんがリサーチ結果を発表する、と紹介した。
※トップ写真は読売新聞のサイトから拝借。キャプションは「入手したGHQの機密文書をパソコンに映し出すカパララさん。聴取された日本人の署名と押印もある。後ろにあるのは展示するパネル(川上村で)」

このブログ記事を読んで、何人かの友人・知人が川上村まで聞きに行ってくれた。同日のプレゼン終了後、カパララさんはご自身のFacebookに次のように書かれた(英語の原文を拙訳)。

今日は、私が今住んでいる地域にある日本仏教の聖なる山で75年前に起こったB29の墜落に関連して行ったリサーチについて、プレゼンテーションを行いました。 7人が墜落で亡くなり、4人が生き残りましたが、天皇が戦争の終結を発表した後、処刑されました。 75年前は、誰が正しいのか、誰が間違っているのかを判断することはできないと思います。

何らかの形で歴史における微妙に異なる見方に貢献し、リサーチと歴史保存の重要性を印象づけることができれば、と思います。過去に地政学的緊張と軍国主義がどのように発生したかを研究すれば、将来それが再び起こらないようにする方法を学ぶことができます。


カパララさんはアメリカの機密解除文書を入手して、リサーチしたそうだ。カパララさんのプレゼン当日朝、読売新聞奈良版が「天川墜落のB29機密記録 米ジャーナリスト調査/投降後の米兵 住民ら手当て」と大きく報じた。全文を引用すると、

太平洋戦争末期の1945年6月、紀伊山地に墜落した米軍のB29爆撃機について、墜落地に近い川上村に移住した米国人ジャーナリスト、デイビッド・カパララさん(31)が、米国立公文書館などから当時の機密文書を入手して調べた。12日に村で調査結果を発表する予定で、日米開戦から今月で79年となった今、「戦争の歴史を学び、平和を守ることが何より大切だ」と訴える。(中井将一郎)

4人 終戦直後に処刑
B29は45年6月1日、大勢の人が亡くなった大阪大空襲に加わった。帰還する途中に日本軍機に銃撃され、山上ヶ岳(1719メートル、天川村)の中腹に墜落。いずれも20歳代の搭乗員11人のうち、4人はパラシュートで脱出した。山中で投降するなどした4人は、捕虜として大阪の憲兵隊司令部に連行され、処刑されたことが知られている。

カパララさんは2012年から2年間、外国語指導助手として川上村に住んだ。帰国後にジャーナリストとなったが、「川上は日本での古里。村おこしを手伝いたい」との思いが募り、19年8月、村の地域おこし協力隊となった。

吉野林業について映像取材を進める中で、かつてB29が墜落したと聞き、興味が湧いた。インターネットで調べても確たる事実はつかめず、米国立公文書館や米軍などに情報開示を求めたところ、今年2月までに計約400ページの当時の文書や写真を入手できた。中でも、連合国軍総司令部(GHQ)が戦後にまとめた30ページにわたる機密扱いだった調査報告書は、憲兵や現地の村人、警察官、捕虜を移送した運転手らを聴取した記録が含まれていた。

墜落現場で焼け焦げた遺体を見た住民は「衝撃的な経験」と語っている。山上ヶ岳山頂の大峯山寺で生き残った2人が降伏、残る2人も山中で住民に発見されたことも記録されていた。墜落から2日後に数キロ離れた川上村で投降したアルビン・ハート軍曹(当時28歳)は、村人に握り飯をもらい、やけどを負った顔を近くの女性医師から手当てを受けた。

カパララさんは「『米兵は鬼』と教えられていたはずなのに驚いた。たとえ敵兵でも目の前にすると、同じ人間だと感じたのだろう。その心が大事だ」と語る。捕虜になった4人は、玉音放送が流れた直後、憲兵がほかの捕虜とともに、3人をピストルで頭を撃つなどして銃殺し、1人を胃薬と偽って毒殺したこともわかった。ある憲兵は、上官から食料が限られていることを理由に、早く処刑することを求められたことも証言している。

カパララさんは「墜落後も生きていた人がいたことを知ってほしい。戦争を二度としないためには、戦争について学ぶことが大切だ」と強調している。機体の一部は戦後も放置されていたが、天川村が06年にエンジンの残骸を回収し、村立資料館で展示している。カパララさんは今回の調査内容を資料館に提供したいという。12日午後1時、川上村立図書館隣接のホールで内容を発表する。聴講の申し込みは図書館(0746・52・0144)。図書館では当面、調査内容をパネル展示する。


アメリカの機密解除文書を入手してリサーチしたとは、すごい。まさに日米両国の架け橋だ。これは立派な平和教育の教材になる。後南朝の皇子たちを匿(かくま)った川上村の伝統が、戦時中も生きていたことになる。この話は永く語り継いでいただきたいと思う。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖林寺「観音堂」改修資金ク... | トップ | 依水園(いすいえん)の敷松... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

お知らせ」カテゴリの最新記事