写真右側の建物は、奈良市手貝(てがい)町にある東大寺の転害門(てがいもん・国宝)だ。
9/3(日)の午後5時頃に撮ったものだが、ご覧の通り鹿たちがのんびりと草を食(は)んでいた。バス停(手貝町)看板の影が長く伸びているが、この前を国道369号線(もとは24号線で、奈良と京都を結ぶ「京街道」だった)が走っている。
左端のしもた屋(2階建と隣の1階建)は、地元銀行の旧・手貝(てがい)支店である。今は土地・建物とも奈良市の所有だが、空き家になっている。
この空き家を活用して「奈良きたまち」の町おこしをしようという趣旨の「きたまち交流会」がこの日、転害門近くの若草公民館で開かれた。「奈良街道まちづくり研究会」(略称「まちけん」)の呼びかけによるものだ。
参加者の顔ぶれは、地元の自治会長さんや住民の方、近くにある奈良女子大の先生と院生、奈良デザイン協会や(社)奈良まちづくりセンターなど地域おこしの関係者、小冊子『ドラマチック奈良町北』の編集者など、30人近くが集まった。知人に誘われて、私も参加した。
「まちけん」は1996年に発足してこの地域の町おこしに取り組み、これまで、お水取り用の「竹送りお迎え式」や夏の「幻燈会」(げんとうえ)などのイベントを行ってきた。
※まちけんのホームページ
http://www1.kcn.ne.jp/~sirokuma/
04年には、奈良女子大学生活環境学部が周辺を調査して活用計画書をまとめているほか、05年4月には「旧南都銀行手貝支店活用協議会」が発足し(6回開催)、空き家の活用について奈良市に対し要望書まで出されている。なお協議会のメンバーは「まちけん」はじめ、奈良町北を考える会、手貝町自治会、奈良女子大生活環境学部、(社)奈良まちづくりセンター、となっている。
この日の交流会はこれらの経過説明と、参加者による意見交換が行われた。空き家を残して活用するという方向性については全員が賛同したが、今後は、その具体的な活用提案づくり(コンセプトの絞り込み)と、地域住民への啓蒙(PR)の必要性が確認された。「奈良町」を復興されたまちづくりセンター役員の「10年かけるつもりで」「まず住民が立ち上がらなければ」という発言には、千鈞の重みがあった。
この地域、江戸時代には京街道沿いに旅籠や商家が立ち並び、大変栄えていたそうだが、今も様々な観光資源が残っている。「むかし町」の町並み、奈良女子大学の記念館(国の重文)、かつては天守閣もあったという多聞(たもん)城跡(今は若草中学)、正岡子規・山県有朋・岡倉天心らが泊まった老舗旅館「対山楼」跡…。
※「鐘が鳴るなり東大寺」(対山楼の話:ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/90e36e1194e0014fbf1057735d23a8ec
この対山楼跡地(現在は料理店「天平倶楽部」の一部)は、子規の縁戚(子孫)である造園家らが「子規の庭」(仮称)として整備し、10月には子規の「秋暮るる奈良の旅籠(はたご)や柿の味」の句碑が建つことになっている。
奈良市は、この地に古くから続く商店や牧場を「まちかど博物館」として指定し、観光客などに紹介している。
現在は閉鎖されている転害門が開けば、近鉄奈良駅からこの町を通り東大寺(正倉院方面)に至る良い散策ルートになるだろう。そうなればこの空き家は、「観光情報発信基地」や休憩所として、絶好の立地だ。
この観光資源豊富な「奈良きたまち」、先輩格の「奈良町」のような観光スポットとしてよみがえるか、それはひとえに地元住民らの熱意にかかっている。今後の展開が楽しみだ。
9/3(日)の午後5時頃に撮ったものだが、ご覧の通り鹿たちがのんびりと草を食(は)んでいた。バス停(手貝町)看板の影が長く伸びているが、この前を国道369号線(もとは24号線で、奈良と京都を結ぶ「京街道」だった)が走っている。
左端のしもた屋(2階建と隣の1階建)は、地元銀行の旧・手貝(てがい)支店である。今は土地・建物とも奈良市の所有だが、空き家になっている。
この空き家を活用して「奈良きたまち」の町おこしをしようという趣旨の「きたまち交流会」がこの日、転害門近くの若草公民館で開かれた。「奈良街道まちづくり研究会」(略称「まちけん」)の呼びかけによるものだ。
参加者の顔ぶれは、地元の自治会長さんや住民の方、近くにある奈良女子大の先生と院生、奈良デザイン協会や(社)奈良まちづくりセンターなど地域おこしの関係者、小冊子『ドラマチック奈良町北』の編集者など、30人近くが集まった。知人に誘われて、私も参加した。
「まちけん」は1996年に発足してこの地域の町おこしに取り組み、これまで、お水取り用の「竹送りお迎え式」や夏の「幻燈会」(げんとうえ)などのイベントを行ってきた。
※まちけんのホームページ
http://www1.kcn.ne.jp/~sirokuma/
04年には、奈良女子大学生活環境学部が周辺を調査して活用計画書をまとめているほか、05年4月には「旧南都銀行手貝支店活用協議会」が発足し(6回開催)、空き家の活用について奈良市に対し要望書まで出されている。なお協議会のメンバーは「まちけん」はじめ、奈良町北を考える会、手貝町自治会、奈良女子大生活環境学部、(社)奈良まちづくりセンター、となっている。
この日の交流会はこれらの経過説明と、参加者による意見交換が行われた。空き家を残して活用するという方向性については全員が賛同したが、今後は、その具体的な活用提案づくり(コンセプトの絞り込み)と、地域住民への啓蒙(PR)の必要性が確認された。「奈良町」を復興されたまちづくりセンター役員の「10年かけるつもりで」「まず住民が立ち上がらなければ」という発言には、千鈞の重みがあった。
この地域、江戸時代には京街道沿いに旅籠や商家が立ち並び、大変栄えていたそうだが、今も様々な観光資源が残っている。「むかし町」の町並み、奈良女子大学の記念館(国の重文)、かつては天守閣もあったという多聞(たもん)城跡(今は若草中学)、正岡子規・山県有朋・岡倉天心らが泊まった老舗旅館「対山楼」跡…。
※「鐘が鳴るなり東大寺」(対山楼の話:ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/90e36e1194e0014fbf1057735d23a8ec
この対山楼跡地(現在は料理店「天平倶楽部」の一部)は、子規の縁戚(子孫)である造園家らが「子規の庭」(仮称)として整備し、10月には子規の「秋暮るる奈良の旅籠(はたご)や柿の味」の句碑が建つことになっている。
奈良市は、この地に古くから続く商店や牧場を「まちかど博物館」として指定し、観光客などに紹介している。
現在は閉鎖されている転害門が開けば、近鉄奈良駅からこの町を通り東大寺(正倉院方面)に至る良い散策ルートになるだろう。そうなればこの空き家は、「観光情報発信基地」や休憩所として、絶好の立地だ。
この観光資源豊富な「奈良きたまち」、先輩格の「奈良町」のような観光スポットとしてよみがえるか、それはひとえに地元住民らの熱意にかかっている。今後の展開が楽しみだ。
感服敬服そして感謝。
よくぞここまで背景からなにから
上手いことまとめて下さいました。
ありがとうございます。
それにひきかえワタクシは
自分にひきつけ他愛も無いコトをつらつらと書き連ねております
恥ずかしいですが、これが限界。
よろしくお付き合い下さいませ。
長ったらしいい文章にお付き合いいただき、
有難うございました。
ブログの最新書込み、拝見しました。
あの雰囲気をうまく再現していただきました。
今後とも、どうぞよろしく。