奈良のスグレモノやゆかりの人物を紹介する「奈良ものろーぐ」(奈良日日新聞に毎月第4金曜日掲載)、今回(9/23付)紹介するのは、御所市戸毛の榎本住(えのもと・すみ)という内科の名医だ。住は、江戸後期の1816年(文化13年)の生まれなので、今年は生誕200年にあたる。「妙訣(みょうけつ=秘訣、奥義)神の如し」と讃えられた。
※トップ写真は、復元された住の肖像画と籠
天忠組(天誅組)総裁の1人・吉村虎太郎(寅太郎)の応急手当をした人であり、また日本林業の父・土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)の主治医だった。最近は軸装された肖像画が京都の縁者宅で発見され、話題になった。では、全文を以下に紹介する。
幕末の葛村戸毛(とうげ 現在の御所市戸毛)に、榎本住(えのもと・すみ、1816~1893)という内科の名医がいた。当時としては極めて珍しい女医だった。今年は住の生誕200年にあたる。
『葛村史』(1957年11月)には「吉野郡川上村富豪土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)の家からも始終往診を請われたような有様で、診察を請う者は続々として絶えなかった。病家を往診すると、ゆっくりとていねいに見てくれるのであったが、平生の行いは闊達敏悟(かったつびんご)で頭のすぐれた人であったので人の注目をひいたもので、真に女丈夫であった」とある。
住は土倉庄三郎の主治医だっただけではなく、天忠組(天誅組)総裁の一人・吉村虎太郎の応急手当を行ったことでも知られる。五條代官所を襲った者を手助けしたことが分かると身に危険が及ぶことも考えられたが、住は淡々として傷口を洗い、さらし木綿を巻いたという。これは相当度胸のいることだ。
榎本家のご先祖は紀州に起こり、大和下市で数代医業を営んだのち戸毛に移った。住が24歳のとき父を、のち夫を亡くしたが、2人の男児を立派に育て上げた。彼らは医師だった。
住の評判を聞きつけて近郷はもとより、遠方からも門をたたく患者があとをたたなかったという。住は尊大ぶるところはなく、患者の話によく耳を傾けた。
「非常に親切で、肺炎のために寝ていたが、往診を請われ、私もひどいが、お前の所の方がもっとひどいようだから行ってやるが、歩けないから負ってくれといって、負われて診察に行き、帰って死んだ」(同書)。
そんな住をたたえて死の3ヵ月前に「女医榎本住記念碑」が建てられた。碑文には「請診察者続続不絶」(診察を請う者は続々として絶えず)、「齢七十八而毫不視衰態」(78歳になっても衰えを知らず)、「妙訣如神」(神のような奥義)、「老手縦死甘心」(住に診てもらえれば死んでも満足だ)といった言葉が並ぶ。
住のご子孫は、今も御所市戸毛で医療法人榎本医院を営んでいる。戸毛に来て住が二代目、今の院長で七代目。六代目の榎本泰久氏(名誉院長)にお目にかかり、住ゆかりの品々を見せていただいた。
写真は、住が往診に使った籠を復元したもの。内部は畳敷きで小さな台がつき、薬の調合もできる。「シカノ(四代目院長)は住をとても尊敬していて、私もいろんな話を聞きました。その尊敬の念は、今も当医院に受け継がれています」(泰久氏)。
最近、軸装(じくそう)された住の肖像画が京都の縁者宅で発見されて話題になった。住の記念碑は同医院の向かいにある。ぜひいちどお訪ねいただき、住の「医は仁術」の精神を学んでいただきたいと思う。=毎月第4週連載=
女医というだけでも珍しいのに、このような名医だったのである。住のことは、医療法人榎本医院事務長のFさん(中小企業診断士・もと会社の先輩)に教えていただいた。この場で改めて感謝申し上げる。Fさんは「事務長のホッと一息」というブログも運営されているので、ぜひご覧いただきたい。
奈良県は古代だけでなく、近代にもこんなスゴい人がいたのである。これからもどんどん発掘してまいります!
※トップ写真は、復元された住の肖像画と籠
天忠組(天誅組)総裁の1人・吉村虎太郎(寅太郎)の応急手当をした人であり、また日本林業の父・土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)の主治医だった。最近は軸装された肖像画が京都の縁者宅で発見され、話題になった。では、全文を以下に紹介する。
幕末の葛村戸毛(とうげ 現在の御所市戸毛)に、榎本住(えのもと・すみ、1816~1893)という内科の名医がいた。当時としては極めて珍しい女医だった。今年は住の生誕200年にあたる。
『葛村史』(1957年11月)には「吉野郡川上村富豪土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)の家からも始終往診を請われたような有様で、診察を請う者は続々として絶えなかった。病家を往診すると、ゆっくりとていねいに見てくれるのであったが、平生の行いは闊達敏悟(かったつびんご)で頭のすぐれた人であったので人の注目をひいたもので、真に女丈夫であった」とある。
住は土倉庄三郎の主治医だっただけではなく、天忠組(天誅組)総裁の一人・吉村虎太郎の応急手当を行ったことでも知られる。五條代官所を襲った者を手助けしたことが分かると身に危険が及ぶことも考えられたが、住は淡々として傷口を洗い、さらし木綿を巻いたという。これは相当度胸のいることだ。
榎本家のご先祖は紀州に起こり、大和下市で数代医業を営んだのち戸毛に移った。住が24歳のとき父を、のち夫を亡くしたが、2人の男児を立派に育て上げた。彼らは医師だった。
住の評判を聞きつけて近郷はもとより、遠方からも門をたたく患者があとをたたなかったという。住は尊大ぶるところはなく、患者の話によく耳を傾けた。
「非常に親切で、肺炎のために寝ていたが、往診を請われ、私もひどいが、お前の所の方がもっとひどいようだから行ってやるが、歩けないから負ってくれといって、負われて診察に行き、帰って死んだ」(同書)。
そんな住をたたえて死の3ヵ月前に「女医榎本住記念碑」が建てられた。碑文には「請診察者続続不絶」(診察を請う者は続々として絶えず)、「齢七十八而毫不視衰態」(78歳になっても衰えを知らず)、「妙訣如神」(神のような奥義)、「老手縦死甘心」(住に診てもらえれば死んでも満足だ)といった言葉が並ぶ。
住のご子孫は、今も御所市戸毛で医療法人榎本医院を営んでいる。戸毛に来て住が二代目、今の院長で七代目。六代目の榎本泰久氏(名誉院長)にお目にかかり、住ゆかりの品々を見せていただいた。
写真は、住が往診に使った籠を復元したもの。内部は畳敷きで小さな台がつき、薬の調合もできる。「シカノ(四代目院長)は住をとても尊敬していて、私もいろんな話を聞きました。その尊敬の念は、今も当医院に受け継がれています」(泰久氏)。
最近、軸装(じくそう)された住の肖像画が京都の縁者宅で発見されて話題になった。住の記念碑は同医院の向かいにある。ぜひいちどお訪ねいただき、住の「医は仁術」の精神を学んでいただきたいと思う。=毎月第4週連載=
女医というだけでも珍しいのに、このような名医だったのである。住のことは、医療法人榎本医院事務長のFさん(中小企業診断士・もと会社の先輩)に教えていただいた。この場で改めて感謝申し上げる。Fさんは「事務長のホッと一息」というブログも運営されているので、ぜひご覧いただきたい。
奈良県は古代だけでなく、近代にもこんなスゴい人がいたのである。これからもどんどん発掘してまいります!
