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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

真田丸(14)大坂

2016年04月16日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
日曜日(4/10)のNHK大河ドラマ「真田丸」は第14回「大坂」だった。信繁(幸村)は大坂城に入るのである。NHKのHPから「あらすじ」を拾うと、
※画像は全て、NHKのHPから拝借した

物語の新たな舞台は大坂。天下をほぼ手中にした羽柴秀吉が、全国の大名に服従を求めていた。上杉景勝はこれに応じてやむなく上洛。信繁も景勝に付き従う。徳川家康や北条氏政も強大な秀吉の前に決断を迫られる。途方もないスケールを誇る大坂城に入った信繁は、茶々や石田三成らと出会い、秀吉の天下取りを間近で目撃することになる。


巨大な大坂城を目にして信繁が目を丸くするシーンが印象的だった。こんな城が落ちるとは、信繁は夢にも思わなかったことだろう。私もこないだ久しぶりに大阪城を訪ね、城の大きさだけでなく、城エリアの広さに改めて驚かされた。桜を求めて歩き回ったので、足がパンパンになった。大阪城への来場者の約8割が外国人観光客だったのには、驚きを通り越して呆れた。


石田三成役は山本耕史。フジテレビの『ひとつ屋根の下』で車椅子の少年を好演していたが、あの頃は16歳だった。大河ドラマ『新撰組』では土方歳三を演じ、好評を博した。そして昨年、堀北真希と結婚…。土方歳三のイメージが強い山本耕史だが(『あさが来た』でも土方役)、石田三成の冷酷な雰囲気がよく出ていて、今から関ヶ原が楽しみである。では最後に、戦国通・藤丸タダアキさんのブログ記事「大河ドラマ真田丸・大坂・の感想」を紹介しておく。

上杉景勝と信繁は連れだって大坂に行きます。ただし、実際は信繁は昌幸の意向で単独で大坂に行き、景勝の怒りをかったそうです。今回は上杉景勝という人物を徹底的に実話と変えることで真田丸の進行をわかりやすくしています。

重臣石川数正の出奔は徳川家に衝撃を与えました。石川数正は歴戦の勇士であり、そしてこの当時、徳川家の事実上のNO2でした。数正は一人で出奔せずに、小笠原貞慶を誘います。小笠原家は信濃の名門でしたが、この時代、家康の臣下となっていました。そして後見役は数正でした。小笠原家はそれに従いました。

数正はもう1名、誘いました。それが徳川の遠い分家でした。そこが誘いを断ったことで、話が露見しました。そして数正は近臣のみを集めて秀吉方に逃げます。数正ほどの身分の人間は人数を集めて賑やかに去るのか、もしくはその場をお城を乗っ取って戦うべきでしたが、こそこそと逃げ出してしまいました。彼は団結力がある三河武士団の中で唯一一人だけ豊臣秀吉に何度も会い、人間の寛大さに心を奪われていったといわれています。


そして数正は秀吉は安全なので、徳川家は臣下した方が良いとたびたび家康に進言していたそうです。それを料簡の狭いといわれた三河武士団は数正が秀吉に心を売ったというようなことを噂したそうです。特に、以下の事件は数正にとって由々しきことになりました。

小牧長久手の戦いにおいて家康が秀吉の陽動作戦を逆手にとって本陣を離れました。秀吉がその動きを察知し、すかさず追いかけました。留守番は数正と酒井忠次(No3)・本多忠勝でした。忠勝が秀吉を追撃するべきだと主張したことにたいして、数正は本陣を守ることを頑として主張し、忠勝は独断で秀吉を追撃しました。その頃から、数正と忠勝の関係は極端に悪くなったそうです。

そして数正は秀吉との融和派、忠勝は主戦派でした。そして、石田三成が登場します。石田三成の扱いはうまいですね。大河ドラマのままだったのではないかと思いました。とくに取り付く島のない雰囲気がイメージどおりでした。

加藤清正とは不倶戴天の敵になりますが、この頃はまだ近しい感じだったかもしれないですね。あの粗暴な雰囲気は清正ではなく、福島正則ではないかと少し思いました。加藤清正は熊本城を建てた人物です。

今回、大河ドラマを見て思ったことがあります。大河ドラマはその時代の場面を一つの場面しか映し出さずに全体を見せないといけないんですね。なので、どうしても人物がまとまって不自然に出てくるようになります。また、時間も限られています。それを考えると、私は本を読んでいることが一番楽しい気がしました。



また、この監督はやはりコメディーですね。人物に対して親近感を持てるような演出がうまいなあと思います。長澤まさみの使い方がいまいちよくわからないところがあります。
想定できることはいくつかあります。信繁は何人かの娘がいました。彼は大坂の陣で戦死しますが、彼は大活躍するので東軍の諸将はそれにあやかろうと彼の首から髪の毛を1本ずつ抜いて行ったそうですね。

真田の娘はその血を継いでいるとして非常にもてはやされたそうです。長澤まさみの存在はそのあたりとリンクしてくるのかなと思っています。ちなみに私は長澤まさみが結構好きです。余談でした。次回は秀吉ですね。また楽しみにしたいと思います。


明日の第15回「秀吉」では、不倫騒動に揺れた桂文枝が千利休役で登場する。どんな演技をするか、これは見ものである。次回もお楽しみに!
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真田丸(13)決戦(第一次上田合戦)

2016年04月09日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
日曜日(4/3)のNHK大河ドラマ「真田丸」は「第13回 決戦」、つまり第一次上田合戦の話だった。上杉と同盟を結んだ真田を、あの徳川家康が攻めるのだ。NHKのHP「あらすじ」によると、
※写真はすべてNHKのホームページから拝借

ついに徳川家康の大軍が上田に押し寄せる。越後から戻った信繁を加え、真田家は一丸となって昌幸の計略を実行。徳川軍を迎え撃つ。梅の機転をきっかけに、信繁は真田家の家紋「六文銭」の描かれた旗を戦場に高々と掲げる。数倍の数の敵を相手に、昌幸の策は次々と成功。真田家は痛快な番狂わせを演じるが、最後にたった一つの誤算が生じる。信繁が駆けつけた先で見たものとは…。

いや~、痛快な戦(いくさ)だった。昌幸の奇策がどんどんくり出される。撤退を余儀なくされた徳川軍には、信幸がヨコから急襲をかけ、さらにせき止めてあった神川(かんがわ=千曲川の支流)の水が一気に流され徳川軍に多数の溺死者を出した。今回の第一次上田合戦(神川合戦)についてはNHKのHP歴史解説に詳しい。それにしても、最後に梅(信繁の妻)が死体で見つかり、これは可哀想だった。赤ん坊が生まれたばかりだったというのに…。

戦国通の藤丸タダアキさんは、今回の「決戦」の感想をご自身のHPに、なんと3回連載で紹介されていて、しかしあまりにも面白くて私は一気に読み終えてしまった。その全貌を以下に紹介する。ご用とお急ぎの方は太字(私がつけた)部分だけでもお読みください。


徳川は北条との講和において甲信は徳川・関東は北条という取り決めをしました。真田は徳川に臣従したため、徳川は真田に真田領の群馬沼田の北条への引き渡しを迫りました。それに対して、真田昌幸は沼田はもともと真田が独力で手に入れた場所で、差し上げるべきものではないと拒否しました。

徳川は実力で割譲を迫るべく、真田の上田城に押し寄せます。信繁(幸村)は上杉に人質に行き、上杉との同盟を作ることができました。そして奇跡を演じました。なんと上杉の援軍を連れてきました。人質に兵隊をつけて送るとはやはり上杉は義理堅い…。しかし、その援軍は子供や老人ばかり…。この場合、この援軍は直接軍事力にはなりません。しかし、重大な意味があります。

上杉家が背後にいるということになります。上杉家の「毘」の旗が援軍の頭上に躍動したでしょう。それはいわば真田と連携して背後から襲う可能性を否定できないということですね。上杉は実際には謀反を起こした新発田と戦っている状況です。しかし徳川は詳細には掴んでいなかったでしょう。上杉からの援軍は3,000~5,000もいるかもしれないと思ったでしょう。

さらには徳川の兵隊は山梨や長野の兵隊ばかりです。ほんの10年前まで武田勢として上杉と戦っていた連中です。上杉が来るかもしれないという心理的不安は記憶に残っているでしょう。一度、戦争に出た人間は、その中の光景を忘れないと言われています。まして、相手は日本最強と言われた上杉勢。さらに敵大将は武田信玄の薫陶を受けた真田昌幸…。この段階で約7,000名の徳川勢は2,000の真田勢を全滅させることができないことがほぼ確定します。普通、城攻めは敵の3倍の兵隊がいると言われていたそうです。上杉の援軍を合わせると互角に近くなる可能性もある…。ここにもひとつの心理があります。

徳川勢から見れば、真田など小さな相手でひねりつぶせばよいという発想になります。家康もそう思っていたでしょう。トップがそうである以上、家来もそうでしょう。上杉という恐怖を少し意識の中に持っている兵隊。大徳川が小真田をひねりつぶすという意識を持ってしまっている徳川の将校。大将も部下も一つの心理の中で戦わなければ勝利などないです。しかし、もう戦う前からこれだけの事情を抱えた徳川勢は見方を替えれば、負けるべくして負けたと言えるでしょう。

一方の真田勢は自分達が小勢であるということで団結していたでしょう。それだけでなく、自分の大将は武田信玄が薫陶(=教育)したと言われる真田昌幸。上杉の援軍もちょうど来たという報告もはいる。そして、昌幸も信幸も信繁(幸村)も脂の乗ったいい年齢ですね。真田勢にはエネルギーがみなぎっていたのではないでしょうか。


さて、真田勢は能の高砂を謡うことで徳川方を挑発しました。この段階で現代人からみて不思議なのは真田も徳川も高砂がわかっていたことですね。上田城に攻め込む徳川勢は真田の城下町での作戦に翻弄されます。本来、軍隊とは大将を中心にまとまって動くものです。細い道や柵などはスムーズに兵隊をまとめて動かせる状態ではないですね。

簡単に言うと、戦争時は様々な音が鳴るため人の声が聴きにくいです。そうすると自分の大将の声が聞こえる範囲にいないといけないですね。50mも先では声が聞こえなかったのではないでしょうか。そして兵隊たちも逸(はや)っています。本来、戦争とはテンションを上げていかなければできない恐怖のものです。著名な武将たちも初陣といって始めて戦争に出た時は身体の震えが止まらなかったと言われています。その対策として戦争前にお酒を飲むということを日本人はやっていました。

城下町に誘い込まれた中で、兵隊は組織としての条件を壊されていきます。そして、同時に徳川の領地の兵隊と言うのはほとんどの場合、農家が殿さまの徴兵できているという現実があります。そうすると気持ち的には出稼ぎなんですね。何かを稼ぎたい。そんな兵隊の心理の中に、この城下町にはしかけがあります。着物などのお金になるものが柵に掛けられたりしていました。それを取るのに夢中になった兵隊もいました。これが軍隊と言える状態なのか。

7,000の徳川勢のうち、本陣には1,000~2,000の兵隊がいたでしょう。そして5,000の兵隊がお城に向ったとしても基本は2~3人が通れるほどの道しかありません。そして兵隊は物に夢中になっています。この条件下で真正面から真田と戦えるのか。上杉の援軍もいるかもしれない…。お城に近づくにつれて兵隊としての指揮が取れなくなります。また、側面からは信繁(幸村)の軍勢なども小競り合いを仕掛けてきます。非常に調練された軍隊であれば信繁(幸村)の軍勢の担当も決めてしまいます。しかし、てんでバラバラだったのでしょう。この後、東海道一の弓取りと言われた徳川家康が撫育してきた徳川軍団が敗走を始めます。

逸っている兵隊に合わせるように真田はこまめに戦って退却していきます。徳川勢の前線の侍たちは逃げる兵隊を見て勢いを増します。相手が弱いと錯覚するんですね。これも昌幸の作戦です。そして上田城二の丸まで攻め込みます。ここで真田の約1,500名が出迎えるんですね。徳川勢の先頭は300もいなかったのではないでしょうか。細い路地の先に辿り着く人数よりも昌幸の用意した人数の方がこの部分では多いですね。

まずは鉄砲や弓で散々相手の前線を崩壊させます。鉄砲は煙なども出ますし、おそらく視界を限定させるような手段も取っていたでしょう。そして勢いがあった徳川は後ろが押してくるので、面白いように鉄砲が当たります。おかしいな?と思った時に、昌幸に率いられた1,500の本体が突撃します。徳川勢は簡単に総崩れしたでしょう。それに追い打ちをかけるように信幸の軍勢が側面から攻撃してきます。最後には関止めされた川の水が敗走する徳川勢の退路を断ちます。結果は徳川1,300名の死者・真田は50あまり。徳川勢はその日の夕方に撤退しました。


徳川氏も真田と同じように本来は三河の山奥の豪族でした。5世代かけて三河安城という平野部に出てきました。山奥の人は狩猟などもやっていたでしょう。とても機敏に走り回って領土を広げていったと思います。それが150万石近くなったところで、昔の徳川と同じような正規の戦い方ではない戦い方で翻弄されます。

徳川家康は当時150万石近い大領の持ち主でした。1万石あたり250~300人の動員力があります。換算すると、37,500~45,000人の動員力があるはずです。しかし、真田征伐には約7,000名しか動員できていません。そして家康本人も来ていません。それは大阪に政権を作り始めた豊臣秀吉からの侵略がいつあるのか予断を許さなかったからです。また、この頃、関西と東海では大地震があったそうですね。それもまた影響しています。そういえば武田勝頼の滅亡の時は浅間山の噴火でした。日本ですね…。同時に、真田昌幸という人物にも限界がありました。自身の半生のほとんどは山奥等地形を利用した戦いのみなんですね。

昌幸は後に出てくる北条征伐の時に初戦で、北条方に敗戦したと言われています。これはおそらく平野での戦いだったのではないでしょうか。その後も昌幸は自身の限界である少ない兵隊で多くの兵隊と戦って勝つという状況から抜け出せませんでした。彼は多くの苦労・努力の割には得た領地が少なすぎました。それは彼を少しひねくれ者のような心理にしていったのではないでしょうか。大勢力の狭間で生き残る彼の一生を秀吉は「表裏比興の者」と呼んだらしいですね。まだまだ書きたいことは山ほどありますがこのぐらいにしておきます…。


「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」とは有名な言葉だ。意味は《比興は卑怯とは違い煮ても焼いても食えないやつという事ぐらいの意味であろう。その事から言えば秀吉の方が表裏比興である。しかし、表裏比興であったからこそ家を守れたのである》(HP「真田氏の館」)。まさに「表裏比興の者」だった秀吉に言わしめたところがスゴイ。全く昌幸は、煮ても焼いても食えない男であるし、草刈正雄の渋い演技も光っている。

ちなみに「週刊FLASH」によると「真田丸」1回分の推定ギャラは、堺雅人…50万円、草刈正雄…130万円、大泉洋…30万円、内野聖陽(家康)…100万円、長澤まさみ…20万円、木村佳乃…15万円。あと『あさが来た』(朝ドラ)は波瑠…10万円、玉木宏……20万円。『とと姉ちゃん』(朝ドラ)の高畑充希…10万円、ということだそうだ。

さて、いよいよ次回(第14回)は「大坂」、信繁も大坂城に入る。関西圏の皆さん、お楽しみに!
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真田丸(12)人質

2016年04月02日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
日曜日(3/27)、真田丸第12回「人質」を見た。NHKのHPには、
※画像はNHKのホームページから拝借

徳川との決裂が決定的となった。上杉の支援を受けるため、信繁は人質として越後へ行き、景勝のもとで暮らすことになる。一方、残された梅は、きりに意外な事実を明かす。謙信ゆずりの名君ぶりを見せる景勝だったが、実は戦(いくさ)続きで疲弊した領国経営に四苦八苦していた。真田が上杉と手を結んだことを知った家康は上田に向け侵攻を開始。いよいよ第一次上田合戦が迫る。

ドラマの中で「鉄火起請」なるものが登場して驚いた。古代史に出てくる「 盟神探湯(くがたち)」のようなものだ。NHKのHPで、真田丸の風俗考証を担当されている佐多芳彦氏が解説している。

鉄火起請というのは、簡単に言えば、争っている二者が神前で焼けた鉄を手でつかんで神意を問うもの。法制度が未熟だった時代の神事のひとつで、究極ともいえる争いの解決法です。焼けた鉄を使うのが鉄火起請、熱湯を使ったものは湯起請(ゆぎしょう)と言います。これと同じことは、熱湯を使って行う「くがたち(盟神探湯、探湯、誓湯)」として昔からありましたが、中世では起請という言い方をします。いずれにせよ、相当に熱いものですから手に火傷を負うのは確実です。判定は傷の軽い方が勝者となります。

うーん、昔の裁判は命がけだったのだ。もう1つ紹介する。第12回だったかどうか忘れたが、北条氏政(高嶋政伸)がご飯に味噌汁を2度かけるシーンが何度かあった。1度かけて食べ、途中で足りないと見てもう1度かけるのだ。「何だか品のない食べ方だなぁ」と思っていたが、これは有名な逸話なのだそうだ。Wikipedia「北条氏政」によると、

汁かけ飯の話 氏政の有名な逸話として2度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政が汁を1度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう1度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。

氏政が結果的に北条家の滅亡を回避できなかったことが、この逸話を有名なものにし、氏政の評価を一般的に低いものにしている。この逸話は後世の創作で、同様の内容は毛利氏の元就と輝元の間の話としても伝えられている。


「後世の創作」なのだそうだが、氏政の能力の低さがよく出ているので、あえてNHKはこのシーンを使ったのだろう。ではおしまいに、今回も藤丸タダアキさんのHPから、ストーリーと藤丸さんの感想を紹介しておく。



大河ドラマ「真田丸」第12話は「人質」でした。室賀を打ち取った昌幸は北信濃の小県を領有しました。徳川家康は小牧長久手の戦いにおいて羽柴秀吉に勝利。戦争に出ていないのに、肩に傷ができたという話がありました。また、爪を噛むという彼の癖を諧謔したような場面がありました。しかし、実際には小牧長久手の戦いは家康の戦術的大勝利でした。後に政略で秀吉に屈服することになります。

小牧長久手の戦いに勝利した家康は、かねてより北条氏との講和の内容であった沼田の割譲を本格的に真田に吞ませようと圧力をかけてきます。それに対して、真田家は上杉氏を頼ることで難局を切り抜けようとします。

第12話では、上杉景勝に対して直江兼続は色々と献言していますが、兼続はむしろ景勝をリードしていたと言われています。この場面、1584年は28歳の景勝と24歳の兼続。こんな責任の重い仕事を若い二人がやっていたことに驚嘆します。死ぬまで盟友だった2名の今後にも期待です。

さて、上杉家といえば「義」です。正しい道を生きるという意味があります。上杉家といえば英雄上杉謙信ですね。上杉謙信は新潟や富山を始めとした領地・鉱山・莫大な収入と高級織物の糸「青芋」の莫大な収入がありました。一説には300万石と呼ばれる収入を得ていたと言われています。

300万石というと300万人の1年分の食糧を生産できる力があるということになります。簡単に言うと、300万人から税金を取っているとでも言えるのかなと思います。十数年後の豊臣秀吉の時代は1万石につき250人~300人の兵隊の動員義務があったので、そこから換算すると、75,000~90,000人の兵隊を動員できるだけの実力があったことになります。

謙信の領地は死去の前に最盛期を迎えます。新潟・群馬・富山・石川に信州北部や関東の一部も含みますので、膨大な領地を持っていました。彼はその豊富な収入を基に、正義の戦いと称する戦いしかしなかったと言われています。

それはその豊かな財政基盤がなしえた数字でした。同時に、女性を近付けることをしませんでした。彼は自らを仏教の毘沙門天の化身と名乗っていました。彼の旗には「毘」という字が躍っていました。息子のいない謙信の逝去後、後継者を巡って景勝と景虎(北条氏康7男)が争いました。その結果、後継者となった景勝の領地は新潟の大部分と、富山・長野の一部となり、約50万石の実力になってしまいました。

また、景勝と兼続は共に上杉旗下の上田衆という、上杉家一門の中の一つのグループに所属していました。景勝は後継者争いに勝利後、恩賞の分配で家中に著しく不平を作ってしまったことから家臣の謀反に合います。その謀反の鎮圧もあり、とても外に出ていく力がありませんでした。実力が6分の1程度まで規模縮小した中で、20代の2名がやりくりするのは至難の業だったでしょう。同情します…。

そこに真田家が現れます。大河ドラマの中では、昌幸がコロコロと主人を変えていくように書かれていますが、昌幸は自分の力で手に入れた領地をいわば担保として持っています。その領地ごと主人を替えるので、現代社会の規範上は良くないようにも見えますが、戦国時代は割と多かった手段でもあります。右についても左についても自分の土地は自分の物だというのは、この時代にはありふれていました。

例えば徳川家でも、酒井や井伊・本多が徳川家に従っているのは、自分の土地を守ってもらうからであり、守ってくれなくなれば、奉公する必要がないという時代でした。この場面、徳川家康の方でも昌幸が独力で手に入れた領地を代替地もなく、争った北条家に渡せというのは傲慢に見えます。

その上で景勝・兼続と信繁の再会に繋がっていきました。私の印象ですが、この3名はドラマ中のやり取りのようなことはなかったと思いますが、気が合っただろうなと思います。3名全員が「義(正しい道を生きる) 」という考えが好きです。

上杉景勝・直江兼続・真田昌幸は関ヶ原では主役級の立場になり、後の大坂の陣でも昌幸の後継者として信繁が活躍します。上杉景勝や直江兼続・真田昌幸・信繁は、最終的には家康に負けていきます。しかし、3人は日本の歴史やその地域の歴史の中に大きな実績を残しています。ここはまた紹介します。次回は真田昌幸が世間をアッと言わせた上田合戦です。楽しみです。


皆さん、日曜日(4/3)の第1次上田合戦をお楽しみに!
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真田丸(11)祝言

2016年03月25日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
日曜日(3/20)、真田丸「第11回 祝言」を見た。NHKのHPから「あらすじ」を拾うと、

信繁は梅を妻に迎えようとするが、薫は大反対し、祝言をあげることを決して認めようとしない。きりも、信繁の決意に大きな衝撃を受ける。一方、家康と本多正信は、昌幸を暗殺するよう室賀正武に持ち掛ける。室賀の怪しい動きを察知した昌幸は、その真意を確かめるために、信繁の祝言を利用することを思いつくが…。

室賀をおびき出すために信繁の祝言を利用しようとする昌幸とは、何という男であるか。今回も家康・本多正信と昌幸のダマし合いの様相だ。こんな時代に生まれなくて良かった…。今回の感想を、32歳の藤丸正明(ただあき)さん(株式会社地域活性局 代表)がFacebookに書いておられた。さすがに歴史好き、とても興味深いので紹介させていただく。

大河ドラマを見るのはほぼ15年ぶり…。そして毎回欠かさず見ています。面白いですね。真田丸。今回、特に思うのは、キャストが良いですね。

草刈正雄の真田昌幸は、これまでの真田昌幸のイメージを変えてしまいました。信幸については、背の高い寡黙な堅実で知的な兄という印象を持っていました。大泉洋は元のキャラとは違いますが、かなりうまく演じていると思います。そして、真田信繁(幸村)ですが、幸村も堺雅人ははまっていると思います。今回はまずこのキャストが大河ドラマの面白さを引き立ててくれていると思います。

今回は、信繁(幸村)が梅と祝言を上げるという回でした。実際は、その行事を利用して謀略が渦巻いているという話でした。戦国の時代は食うか食われるかといわれている時代です。統一に向かっている機運もあるのですが、まだまだ弱小豪族の信州は戦国時代の様相です。

今回は徳川家康から昌幸の暗殺を仄めかされた室賀正武を昌幸が打ち取るという回でした。それに信繁(幸村)の祝言を利用するんですね。歴史の本を読んでいると、祝言や宴会の席を利用する謀略というのは多いですね。すぐに思いつくのは赤松満佑が足利6代将軍義教を討ち取った嘉吉の乱の元になった事件です。

また、信繁の母は京都の人なので、京都の然るべき家の娘を息子の嫁に欲しいという話がありました。戦国時代は著名な武将たちの周りの女性の戦いも凄まじいものがあります。
徳川家康の妻築山殿は今川家重臣の関口氏の娘でした。築山殿の側近団も今川の方から来ていました。それに対して家康の嫡男信康の妻は織田信長の娘、徳姫でした。

築山殿と徳姫は同じ岡崎城の中で互いにいがみ合います。そしてそれはやがて、信康と徳姫の関係も壊します。母、築山殿にマインドコントロールされた信康は徳姫と疎遠になります。そして徳姫は父の織田信長に助けを求めたと言われています。その結果、信康は他にも因果関係はあるにせよ、切腹になってしまいます。

真田丸は今後、真田軍と徳川軍の戦い「第一次上田合戦」に向います。その前に上杉家との関係修復ですね。それにしても、真田家は女性が割と自由な雰囲気を持っていますね。
想像の範囲内なのですが、おそらく真田家は女性も自由な家だったのではないかと思います。

また、昌幸の母は、真田家中興の祖幸隆の妻でもあります。この幸隆も英雄的な人であり、その妻の発言は力があっただろうなと思いました。また、これからの真田丸のキャストも見ものですね。信繁(幸村)の義父となる大谷吉継を誰が演じるのか、後藤又兵衛や明石全登などの大坂の陣のメンバーなども見どころの一つですね。次回も楽しみです。
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真田ミュージアム開館 & 真田丸(10)妙手

2016年03月20日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
先週の日曜日(3/13)、九度山町(和歌山県伊都郡)で「真田ミュージアム」がオープンした。わかやま新報オンラインニュース「真田ミュージアム開館 九度山で魅力発信」(3/14 19:00)によると、
※これら3点の画像は、真田ミュージアムのホームページから拝借

現在放送中のNHK大河ドラマ「真田丸」に合わせ、主人公・真田幸村らの魅力を広く発信する「九度山・真田ミュージアム」が13日、真田ゆかりの地・九度山町九度山にオープンした。初日は仁坂吉伸知事ら大勢の来賓を招いた竣工式とオープニングセレモニーが盛大に行われ、同ドラマに「大谷吉継」役で出演する片岡愛之助さんもサプライズで登場。テープカットを行い、地域振興に向けた晴れの船出を祝った。



ミュージアムは真田昌幸、幸村父子が過ごしたであろう武家屋敷をイメージした純和風造り。真田の旗印「六文銭」があちこちに散りばめられている。

常設展示では、孫・大助を含む真田三代の生涯を、上田時代▽九度山時代▽大坂の陣▽九度山異聞▽真田伝説▽十勇士伝説――の6エリアで構成。特に、九度山での14年間をどう過ごしたかを紹介するドラマ仕立ての映像や、大坂の陣での戦いを解説する迫力の3D映像、重要文化財「大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)」のデジタル複製などは注目だ。



竣工式は、紀州九度山真田太鼓保存会による力強い演奏で幕開け。岡本章町長は「ドラマは『家族愛』がテーマだが、九度山での14年間が一番家族との愛情に満ち、充実した時だったと思う。施設が和歌山の経済活性化や知名度向上につながれば、これに勝る喜びはない。親しみ愛されるよう、しっかり取り組んでいく」とあいさつ。仁坂知事は「ドラマではどんどん幸村さんが成長しており、これから九度山にやってくる。ドラマを追体験したり、知識を再整理したりする施設ができ、ますます九度山が発展していく」と祝辞を述べた。


岡本町長は九度山中学の同級生だ。真田幸村の大河ドラマに関し、NHKに懸命に陳情していた努力が実り、今度はミュージアムと、喜びもひとしおだろう。私も早く帰省して見に行かなければ…。


さて遅くなったが、先週(3/13)の真田丸第10回「妙手」のあらすじを紹介しておく(NHKのHPより)。

北条と徳川との突然の和睦に、真田家はとまどっていた。信繁と信幸は浜松城に乗り込み家康とじか談判。真田のために新たに城を造るよう要求する。しかし、家康は真田にとって大切な沼田領を北条に渡せと言い出す。一方、梅から嬉しい知らせを聞いた信繁は奮起。真田家の苦境を打開するため、一度は裏切った上杉景勝の心を動かそうと、単身で春日山に向かう。

なんと!梅は身籠もっていたのだ。次回(第11回)のタイトルは「祝言(しゅうげん)」なので、要は「できちゃった結婚」なのだ。また今回は「上杉vs真田の戦芝居」のシーンが登場する。上杉が真田を打ち破る、という芝居で、これを知った北条氏政は撤退する…。では最後に「大河ドラマ特集 注目の見どころ応援サイト」から、やや詳しいストーリーを紹介しておく。

真田信繁は三河の徳川家康、越後の上杉景勝と面会することになります。まずは徳川家康ですが、約定を反故にされたことに対する抗議とともに、上杉領の虚空蔵山城への楔として小県の上田平に城を築くに当たり、徳川家に負担してもらうというものです。

兄である真田信幸と共に使者に出向き、見事に城の普請の了承を得ます。しかし一方で沼田城を北条家に譲るように迫られるのです。沼田は真田領の要であり、沼田城は真田昌幸の叔父である矢沢頼綱が城主を務めています。当然ながら、北条氏直に譲ることに真っ向から反抗したため、やがて北条氏邦らに攻められます。

そんな沼田城の戦を終わらせるべく、真田信繁は続いて上杉家へと向かうのです。上田城建築は上杉家への備えではなく、実は徳川家への備えであることを伝えます。徳川にも北条にも屈しないという武士の意地だけではなく、虚空蔵山城での上杉対真田の戦芝居も提案しました。

上杉景勝は真田信繁を気に入り、その策にのって戦芝居で真田を破ります。上杉の勢いを恐れた北条氏政は撤退を決め、沼田城は守られたのでした。大活躍の真田信繁にはさらなる吉報が届きます。梅が真田信繁の子を身籠ったのです。そして真田信繁は、梅に対して妻になってもらいたいと伝えるのでした。
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