てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

鳳凰と兎と ― 宇治の寺社を歩く ― (4)

2015年02月08日 | その他の随想

〔雲中供養菩薩 南5号(国宝)〕

 鳳翔館のなかでもっとも好きなのは、雲中供養菩薩が展示されているフロアだ。雲に乗って楽器を奏でたり、さまざまなポーズをとる菩薩たち。50体余りのうち、半数がこちらに移されているということである。残りは、今回は間近で拝見する機会を逸したわけだが、本尊の阿弥陀如来の周りを飛翔している。平等院の修理期間中、これらは東京の美術館に出張して公開されたということだ。

 小さな菩薩たちを展示するために設計されたこの「雲中の間」は、従来の博物館などでみられる仏像の展示室とは大きく異なっている。地面を踏みしめて、ずっしりと量感のある仏たちとは異なり、文字どおり雲の上で、軽やかに戯れている感じだ。ああ、極楽とは楽しいところなんだろうな、と予感させるものがある。

 だが、それだけではないらしい。平等院のご住職の著書に書かれていたのだが、人が臨終の際に最後まで認識できるのは聴覚だから、彼らは楽器を弾いているのだ、という。なるほど、ぼくも身近な人が亡くなったとき、耳はまだ聞こえているから何か声をかけてあげて、といわれたような記憶があるし、死後間もなくおこなわれる枕経というのも、そのためなのであろう。

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 それにしても、彼らが奏でている楽の音とは、どんなものなのだろうか。作曲家のシューマンは、シューベルトの長大なハ長調交響曲(日本ではなぜか「グレート」などと英語で呼ばれたりする)のことを「天国的な長さ」と評した、と伝えられる。天国的というのは、いったいどういう長さなのか、いまひとつはっきりしないのだが、おそらくは「終わってほしくないほど心地いい」ということなのかもしれない。

 ぼくはこのへんに、人間が浄土に対して抱く憧れの“からくり”のようなものを感じる。雲に乗った菩薩たちが、文字どおり“天国的”な調べを奏でているのだとしたら、あの世で過ごす時間というのはそれこそ“終わってほしくない”ことだろう。人間の命には終わりがあるが、死後の世界には、終わりがない。楽しい音楽を鳴らしながら、永遠に暮らせるとしたら、こんな幸せなことはあるまい。

 視覚の面からも、同様である。今回の鳳凰堂の修復では、鮮やかな色合いがやや取り戻されたが、本来はそれを遥かに上回る、極彩色の装飾が施されていたらしい。当初のイメージを復元した映像がCGで作成されているが、古色蒼然たる寺院を見慣れた眼からすると、おそよ悪趣味としか思われない。

 ところが、今の日本人は、寂れた京都をこそありがたがっている。ケバケバしいネオンなどは、景観を著しく損なうとして、条例で禁止されているようだ。そのことに反対はしない。けれども、昔の人が抱いていた極楽のイメージは案外ケバケバしく、華美な安っぽさに満ちたものであったことも、これまたたしかなことなのである。

 浄土への憧れというのは、今の我々が想像するような尊いものではなく、隣町にできた豪華なショッピングセンターに行ってみたいというような、気楽な願いだったのではないか、という感じがしないでもないのだ。こんなことをいうと、大勢の雲中供養菩薩たちに叱られるかもしれないが・・・。

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