てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

紙幣の怪

2015年02月16日 | その他の随想


 駅で切符を買おうとしてよく見ると、「旧紙幣は使えません」と書かれていることがある。そりゃあそうだろう、と思うなかれ。街なかの古い自販機などには、色あせた文字で「新紙幣使えます」と書かれていることも、まれにあるのだ。じゃあその自販機は、新札と旧札、両方使えるということなのだろうか?

 もちろん、実際に試してみたことはない。というのも、こちらの手もとには新しい絵柄の紙幣しかないからだ。そもそも、飲料水の自販機で使えるのはだいたい千円札どまりと、相場が決まっている。つまり、野口英世が使えるのは当然だが、夏目漱石は使えるか否か、という話になる。

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 そこで思い出すのだが、ぼくが社会に出て勤めはじめてから間もないころ、会社の近くのコンビニで昼食の弁当だかパンだかを買ってから出勤するのが習慣になった。そういう人は多いと見えて、始業時間前のコンビニというのは、かなり混雑する。遅刻してはならないので、弁当を物色する時間も惜しんで、レジに並ぶことになる。

 だがあるとき、ぼくが並んだレジの列の縮まりかたが、はかばかしくない。その店は開店したばかりで、まだ慣れないオーナーらしきおじさんがレジに立っていたりして、普段から客あしらいがスムーズではなかったのだが、今日はいつも以上に停滞している。これは何かあったのか、と思いながら前の方を覗き見ると、あるおばさんがこういっているのが聞こえた。ただし、満面の笑顔で、だが。

 「さあ、これでいいでしょ。これ使えるでしょ」

 「はい。ありがとうございます」とオーナーは答える。

 おばさんのお客さんの手から、紙幣が一枚、ひらりとなびきながら、レジの台の上に置かれたと思うが早いか、彼女はいかにも急いでいるのだといわんばかりに、店を出て行ってしまった。残されたオーナーの前には、伊藤博文の顔がついた千円札がぽつんと取り残されている。まるで不潔なものでもあるかのように、誰も手を触れようとしない。いや、札束を収納するレジの内部には、当時は夏目漱石用のスペースはあっただろうが、伊藤氏の居場所はどこにもなかったはずだから当然ではある。

 おそらくオーナーの頭のなかには、この旧札を換金するときの手間であるとか、ひょっとしたら偽札なのではないかとか、さまざまな想念が瞬時のうちに去来したことであろう。だが、そんな悠長なことを考えていられるほど、朝のコンビニは暇ではない。その後どうなったのかは知らないが、ぼくが伊藤博文の紙幣を目撃したのは、そのときが最後である。

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 もうひとつ、どうでもいいことかもしれないが、気になるのが二千円札の行方だ。旧紙幣に比べればまだまだ現役のはずだが、ぼくの財布に入っていたことは、ほとんどない。見かけたのも、二度か三度ぐらいだったと思う。

 かつては、二千円札は自販機で使えないから不便だ、という声もあった。しかし、そういう世論に尻を押されたからかどうか、24時間営業の飲食店の券売機は、二千円札に対応しているものが多い気がする。少なくとも、紙幣をいったん挿入したはいいものの、あの気抜けのする音とともに戻ってくるというような、恥ずかしい思いはしなくてもいいようになっているのだ。しかし、実際に二千円札を券売機に挿入している人を見かけたことは、今のところ一度もない。

 コンビニに話を戻すが、実にさまざまな業務を請け負っているはずの店員は、ものを買おうが、公共料金を払おうが、チケットの発券手つづきを依頼しようが、郵便物を頼もうが(自分でやったわけではなく見ただけだが)、非常によく訓練されているものだと感心する。何をするにも、戸惑ったり、わからないから店長に聞きます、などと逃げたりすることなく、たんたんとこなしている(こういう店員のいるコンビニが不必要なまでに巷に氾濫している事実が、ぼくには驚異だ)。

 では、先ほどの不慣れなオーナーではないが、支払いのときに二千円札を差し出してみたらどうなるか。まったくためらうことなしに、正確なお釣りを返してくれるものかどうか。ちょっと試みてみたいような気がしないでもないが、こちらもまた手もとにないのだから、所詮は無理な話なのである。

(了)

(画像は記事と関係ありません)