〔豪快に流れる宇治川〕
石塔をあとにして、宇治川を渡る。川の東岸に当たるこの場所には、かつて紅葉を見るために訪れたこともあるし、宇治の花火大会に来たおりにも、このへんをうろついた記憶がある。何にせよ、そのときは京阪宇治駅前の混雑がすごくて、人の波が去るまで喫茶店で時間をつぶさなければならなかったのだ。京都には花火大会が少ないので人が集まるのもわかるが、街の機能が麻痺してしまうような事態は考えものであろう。
さて、花火とか紅葉とか、そんな人ごみに振り回されて、これまでなかなか行くことができなかったスポットがある。平等院と並んで世界遺産に登録されている、宇治上神社である。
もはや、お寺に詣でたあとに神社へお参りする、などという節操のなさは問題ではない。こんなこと、大多数の日本人が、特に年末年始にかけて揃っておこなう風習だ。ましてや、京都や奈良のように、お寺の近くに神社があるというのは我々にとっておあつらえ向きでしかないといえる。
けれども今日は、年が明けてからすでに10日以上も過ぎているのだ。最初にも書いたかもしれないが、正直な話、豊国神社で引き忘れたおみくじを改めて引くためにここを訪れたわけであるから、仏や神を信じているかどうかではなく、年中行事を無事に済ませられるかどうかが問題なのであった。
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〔世界遺産であることを示す宇治上神社の石碑はまだ新しい〕
鳥居をくぐって、階段をのぼると、宇治神社というのがある。紛らわしいが、宇治上神社とは別である。しかもここは、世界遺産には含まれていない。最近の富士山の登録のときのように、どういうアピールをしていたのか記憶にないが(というより、当時はユネスコへのアピール合戦それ自体がさほどニュースにならなかったように思う)、あるものは世界遺産であるけれどあるものはそうではない、という格差の基準はどこにあるのかが気になる。
ちょっと話は横道にそれるが、国宝と重要文化財(かつては「重要美術品」というのもあった)との格差も、ぼくにはよくわからない。日本の文化行政には、どうもこういったケースが多くて、たとえば文化勲章受章者は文化功労者よりエライ、といった印象がある。同じように、国宝のほうが重要文化財よりも格上だといって、まず間違いないのだろうが、誰もが納得できる客観的な見解が明らかにされるのかというと、どうもそうではなさそうだ。
特に引っかかったのが、石川県立美術館が所蔵している、野々村仁清(にんせい)による雉のかたちをした香炉の存在である。ぼくはこの美術館に行ったことはないので、何かの展覧会で観たのだと思うが、雄と雌の雉を精巧にかたどった、京焼の逸品とされる名作だ。ところが、雄のほうは国宝に指定されているものの、雌のほうは重要文化財どまりということらしい。
美術館のサイトによると、この2作はあくまで対のものとして、ほぼ同時に作られたものだそうだ。いってみれば、阿形と吽形のように、どちらも欠かすことのできないペアのような扱いをすべきものだろう。それなのに、なぜ片方が国宝で、片方は重文なのか。たしかに雌の雉のほうが若干地味ではあるが、それはもともとの鳥がそういうものだからであって、仁清の技術が劣っているからではない。
やれ国宝だ、やれ重要文化財だ、やれ世界遺産だと、無条件にありがたがる傾向がなくもないように思うが、そういう一種の称号というか、肩書きに左右されることなく、いいものはいいと、自分の美意識に照らして判断できる人間になりたいものだ、とぼくは常に思っているのである。
そんなことをつらつら考えながら、さらに道を進むと、それこそ麗々しく「世界文化遺産」と書かれた宇治上神社の石碑が眼に飛び込んできた。
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