てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

イメージの系譜 ― 江戸絵画を横断する試み(5)

2006年11月10日 | 美術随想
花鳥画について その4



 伊藤若冲の『群鶴図』(プライスコレクション、上図)を、はたして花鳥画として取り上げていいものかどうかわからない。何しろ、描かれているのは群れ固まった七羽の鶴だけで、花はいっさい描かれていないのである。

 花鳥画というものが、日本の四季折々を彩る風物の断片として描かれているとすれば、この絵をそう呼ぶべきでないのは明らかだ。花鳥風月をそれぞれ個別に描くのではなく、いくつかの要素を組み合わせ、ひとつのシーンとして表現することこそが、花鳥画の眼目なのであろう。日本の自然観というものは、単一のものだけで代表させるにはあまりに豊かで、多彩なバリエーションにみちみちているからである。

 それにしても、これはまた何という奇抜な絵であろう。ぼくたちが鶴に対していだいている優雅なイメージを、若冲はいとも簡単にくつがえしてしまう。鶴たちは縦長の画面の中に押し込まれ、まるでラッシュアワーのように、あるいは“おしくらまんじゅう”でもしているように、体をくっつけ合って立っている。先ほど七羽の鶴が描かれていると書いたが、それは鶴の頭を数えてようやく判明したことであって、一見してそれとわかるようなものではない。卑近な例えをすれば、クイズの問題のためにわざと見分けにくく描いたようですらある。

 屋根の庇や電線に雀がとまっているのを見てもわかるように、鳥たちは本来、決して体を密着させることをしない。小さな鳥かごの中にたくさんの鳥を押し込んでも、互いに適当な距離をおきながら、自分のエリアを器用に保っている。フラミンゴの大群だって、こんなにくっついたりはしないはずだ。若冲の『群鶴図』は、鶴の生態をいちじるしくねじ曲げて描いていると非難されても、まあ仕方がないであろう。

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 しかし、現実にはあり得ないことを描くのは、絵画の特権である。若冲が実際に鶴を観察したかどうかは別にしても、ずば抜けた想像力なくしてこのような絵が描けるとは思えない。だが、彼が根拠のない空想だけで描いたのではないことも、これまた確かなことだ。『群鶴図』のいしずえとなったのは、例えば俵屋宗達の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』(京都国立博物館、下図、部分)ではなかろうか。



 これは宗達が絵を描いた上に、本阿弥光悦が書をしたためた合作である。銀泥で描かれた鶴の姿は、多分に装飾的だ。ここでは十羽ほどの鶴が折り重なっているが、優雅で上品なたたずまいを損なうことはない。これはもちろん、鶴の群れがシルエットで描かれたからこそ可能な表現であったろうし、絵の上から文字を書き加えることができるのも同じ理由によるのであろう。装飾的であることは、他のものを受け入れる余地を残しているということなのである。装飾性と写実性とは、基本的に相反するものなのだ。

 その相反することを、力ずくで一枚の絵の中にねじ込んだのが、若冲の『群鶴図』だった。若冲の冒険心は ― あるいは“遊び心”は ― それだけにとどまらない。鶴たちはその長い首を思い思いに伸ばし、互いに絡まり合っている。どれが誰の首か、容易に判別することはできない。まったく、息づまるほどの密度の濃さである。だがここには、若冲ならではの構図へのこだわりが隠されているような気が、ぼくにはするのだ。

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 同じ主題の絵を、別の画家はどのように描いたのだろうか。鈴木其一の『群鶴図屏風』(プライスコレクション、下図、部分)は、屏風ということもあって、横長の絵である。鶴たちは ― こちらは丹頂鶴ではなく、真鶴(まなづる)であろうが ― ゆとりをもって横に並び、のんびりと散歩でもしているようだ。この絵を観ていると、ついつい次のような想像もしてみたくなる。若冲の絵に閉じ込められていた七羽の鶴が、そのつらい任務を解かれたときには、「やれやれ、疲れたな」などとつぶやきながら、こんなふうに歩き出すだろうと・・・。



 この其一の絵は、装飾性と写実性とをほどよく調和させた見本のようなものである。描きすぎてもいないし、略しすぎてもいない。鶴の特徴をよくとらえている一方で、全体の配置に心地よい律動がある。何本もの鶴の足が刻み出すリズムは、あたかもモーツァルトの譜面のように単純で、そして美しい。

 では、若冲はどうか。一見ごちゃごちゃしているように見える鶴の群がりの、その赤い頭だけをつなぎ合わせてみると、左上から右下へと引かれた二本のラインが浮かび上がってくるはずだ。さらに鶴の足もとへと目線を転じると、こちらも見事な二本の斜線をなしている(下図)。



 鶴たちは好き勝手にふるまっているようでいながら、実は若冲の綿密な計算のもとで、周到に配置されていたのだ。『群鶴図』の窮屈な画面の中に、若冲は切れ味の鋭い野心的なリズムを、しっかりと刻みつけていたのである。

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