須田国太郎『法観寺塔婆』(1932年、東京国立近代美術館蔵)
この絵は普段、東京にあるということだが、『法観寺塔婆』というタイトルを見てもどこだかピンとくる人は少ないだろう。いや、京都に住む人にとっても、あまり馴染みのない寺であるかもしれない。
ただ、この五重塔のイメージは、全国津々浦々に至るまで広く浸透しているはずだ。テレビ番組などで、京都が舞台となると、必ずといっていいほど山の中腹から見下ろした五重塔が映し出される。それが、この塔だ。通称は「八坂の塔」で、正式な寺名で呼ぶ人はほとんどいない。
実は聖徳太子が創建したといわれているぐらい歴史のある寺だが、今では境内は狭くなり、街並のなかにいきなり塔が出現したような感じがする。見方を変えれば、京都の街が徐々に近代化されているのに、ここにだけは古きよき京都の姿がはめ込まれているようにも見える。このような、時代が錯綜した複雑な景観を愛でることができるのは日本人のしたたかさだし、古都であると同時に都会でもある京都が多くの観光客を集める所以だろう。
***
ところが、須田国太郎の手にかかると、長い歳月をたどった五重塔と近代以降に整備された周辺地域との落差が、無残にもあぶり出される。絵の中心に建つのは、たしかにあの見慣れた八坂の塔にちがいないが、その両脇に建ち並ぶ電信柱の無粋な直線は、ほとんど塔を圧倒するまでに聳えているのである。
この作品に『法観寺塔婆』という意味ありげな題を与えた須田の心境は、どういうものであったのだろうか。塔婆とは、電柱が卒塔婆(そとば)を連想させるところから付けられたのだとしたら、それは歴史的遺産の死をあらわすことにほかならぬ。
この絵は昭和初期に描かれたものなので、それからおよそ80年を経た現在では、事情はだいぶ変わっているだろう。景観を阻害するような電柱は規制されたりしているかもしれないし、電線を地下に埋設しようという話も聞く。それにしても、画面全体を覆う暗色のトーンはのしかかるように重く、京都という屈折した土地が抱いている複雑な断面を切り裂いて見せつけられたような気持ちになる。
いや、須田はひょっとしたらこれらの景観を、ことごとく“遺跡”として描いたのではないか、とすら思えてくるのである。もし京都の街がまるごと土のなかに沈んでしまい、ポンペイみたいに後年になって発掘されたとしたら、室町時代に再建された五重塔も、昭和になってから作られた電信柱も、一様に汚れた褐色をして世にあらわれてくることだろう。
広大な地面の広がるスペインで培われた須田の眼は、すべてをいったん土に還元させることで、京都の街に未知なる視点を加えた。ヨーロッパの大地と、木材を中心とした日本の建造物とが彼の脳裏で手を結ぶには、まだ時間が必要なのであった。
つづきを読む
この随想を最初から読む