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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (11)

2012年03月16日 | 美術随想
ゴヤ展 その7 ふたりのマハ(1)


『着衣のマハ』(1800-1807年、プラド美術館蔵)

 いよいよ、マハとのご対面を果たすことにしよう。『裸のマハ』と『着衣のマハ』の2点のうち、今回は着衣のほうだけが来日していて、もうひとりは裸のままプラドに取り残された。

 だが、この2枚は連作というわけではない。日本の屏風によくあるように、一対の作品ということでもない。描かれている女性は同一人物で、サイズもそっくりだが、あくまで別々の絵である。その意味では、まるで双子のようなものだ。

 それなのに、その片方だけを眼の前にすると、やっと実物を観ることができたという感激とともに、まだ残り半分を観てはいないという、奇妙な欠落感に襲われるのではないか。ぼくはそんなふうに予想していた。

 もうひとつ、非常に下品なたとえになるが、ある女性の素晴らしいヌードを見てしまったあとは、同じ人が服を着ている姿を見せられても何となく物足りなさを感じる。それと同じようなことが、この絵の場合にも起こるのではあるまいか、という危惧もあった。何しろぼくたち日本人は子供のころから、アングルやルノワールの何枚かの絵と並んで、ゴヤの描いた裸婦をいやというほど見せつけられてきたのだから。

                    ***

 けれども『着衣のマハ』の前に立ったとき、ぼくは本当に魅了されてしまった。彼女の裸の姿など、どこかに消し飛んでしまった。なんて魅力的な女性なのだろうと、溜め息が出るほどだった。

 カールした髪の下から、くりくりとした瞳がこちらを見ている。両手を頭の後ろで組んだ、開放的なポーズ。のびやかな足。くびれた腰。桃色に染まった頬・・・。

 ここまで書いてきて、あまりに月並みな褒め言葉の羅列に自分でも呆れる。つまりこの絵は、ゴヤ独特の人間把握とか、聴覚を失ったことによる屈折した心情とか、そんな小難しいものを飛び越えて、ひたすら明るく、美しく、わかりやすく描かれた、“偉大なる平凡さ”をたたえた女性像なのである。

 ただ、マハの姿に惹きつけられる一方で、寝台や背景があまりにもあっさりと描かれているのに驚いた。これも、観る者の視線をマハひとりに集中させるための計算なのかもしれない。

                    ***


参考画像:ジャック=ルイ・ダヴィッド『レカミエ夫人の肖像』(1800年、ルーヴル美術館蔵)

 参考までに、ほぼ同じころに描かれたダヴィッドの絵を観てみよう。こちらの女性も白い衣装をまとって、寝台に横たわっている。そして背景には何もなく、薄暗い。『着衣のマハ』とよく似ている。

 新古典主義のダヴィッドだけあって、描写は非常に正確だ。ギリシャふうのドレスの裾が床に垂れて皺を作っているあたりなどは、うならされるほどリアルに描かれているといえるだろう。

 ただ、あまりに完璧すぎて、この女性には一分の隙もないのではないかと思ってしまう。彼女は寝台の端に枕をふたつも重ねて上体を起こし、こちらを厳しくうかがう眼付きをしていて、観ているほうも思わず肩に力が入りそうだ。

 けれども『着衣のマハ』は、満面の笑みでぼくたちを迎え入れてくれる。といおうか、こちらを誘惑しているようにさえ感じられるのである。レカミエ夫人に比べると隙だらけのポーズは、軽薄だとか何だとか非難することもできようが、絵と現実との境界線を取っ払ってしまってモデルに肉薄するようなゴヤの筆力は、さすがというほかはない。

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