藤牧義夫『赤陽』

初めて藤牧義夫の名前を知ったのは、この随想録にもたびたび登場する、洲之内徹の文章によってだった。ただそのときは、版画家だという意識はしていなかったように思う。そこで紹介されていたのが、『隅田川絵巻』と呼ばれる肉筆の線描画だったからだろう。藤牧が24歳のとき、突然消息を絶ったということも、そのとき知った。
最近になって、この稿を書くために版画のことをいろいろ調べはじめたら、版画家名鑑のような本に藤牧の名前が大きく載っていたので驚いた。肉筆画と版画の両方を制作する画家は少なくないので、版画を作るから必ずしも版画家だということにはならないと思うが、よく調べてみると彼は「新版画集団」という版画家のグループに属していて、れっきとした版画家のキャリアを積んでいるようである。ただし、せいぜい5年間ほどのことにすぎないけれど・・・。
その版画家名鑑の中で、藤牧の代表作として取り上げられていた『赤陽』という木版画が、このたび「美の巨人たち」というテレビ番組でも取り上げられているのを見た。この番組の魅力は、美術作品や作者をただ紹介するだけではなく、創作の謎といった部分に深く切り込んでいくところだと思うが、藤牧をめぐる謎は、番組を見終わった後も依然として解けないどころか、ますますもって深まっていくように思われた。
***
番組の中である人が語っていたところによると、藤牧は版木に下絵を描かず、いきなり三角刀で彫り進んでいったそうである。あの棟方志功ですらも、板の上に墨でおおまかな当たりをつけてから彫っていたことを考えると、藤牧の異常なまでの集中度の高さというか、決然たる意志のようなものが感じられる。木版画は、彫りあやまると決して修正することができないものだからである。
しかし洲之内によれば、『赤陽』には3種類の異なったバージョンが存在するという。試みに、そのうちの2枚の図版を並べてみると(下図)、画面下の建物の位置が大きく移動していることに気づく。実はこの建物は、版木に彫られたそのままの位置にはなく、刷り上がったものを切り抜いて貼り付けたものだというのである。構図全体のトリミングも、かなり異なっているように見える。

揺るがぬ意志をもって、下絵なしで板を彫り込んでいく姿と、刷り上がってから構図をあれこれ手直しし、逡巡することとの間には、大きな隔たりがある。そこにはまるで、ふたりの藤牧義夫がいるかのようだ。これはいったい、どういうことなのだろう?
***
1か月ほど前に、NHKの「日曜美術館」放送30周年を記念する展覧会で、初めて藤牧義夫の実物を観る機会に恵まれた。しかしそれは版画ではなく、例の『隅田川絵巻』である。全部合わせると60メートルもの長さがあるということだが、ぼくが観たのは、そのうちの第3巻であった(下図、部分)。

これは毛筆で描かれているようだが、その筆致はまるでサインペンのように的確で、狂いがない。『赤陽』にみられる一種の荒々しさ、奔放さといったものは、まるで感じられないのである。語弊を恐れずにいえば、まるで風景にじかに紙をあてて、トレースしたかのようではないか?・・・と、このような感想を抱いてから、藤牧の経歴について調べてみると、彼は版画家になる前にトレース工として働いていたと書かれていた。
トレースとはいうまでもなく、ものの輪郭をなぞる仕事である。板を刻んでイメージを彫り出す木版画とは、そのなりたちからしてまったく異なっている。藤牧はもともと、そういう二面性を内に秘めた存在だったのではあるまいか。
藤牧をよく知る人の、興味深い証言がある。同じ「新版画集団」のメンバーだった清水正博が、かつて「日曜美術館」に出演した際に残した言葉である。
《帝展に入選したときには、喜んで郷里でもお祝いの会を開いてくれたんですが、それでも版画では生活してゆけなかった。人をかき分けてゆくようなことはできなかった人ですしね。われわれ版画集団は、小野(忠重)君のところで、狭い部屋にとぐろをまいて深夜十二時過ぎまで話していました。帰り道も二人で、私は途中で別れますが、あとで聞くと、藤牧君は、下宿のおばさんを起こすのが気の毒で、裏のゴミ箱の中がきれいだったから、その中で寝た、なんていうんです。寒い時期の話だったと思いますよ。そういう、下宿のおばさんも起こせないような気の弱い人だったんです。ただ、絵の上にはその気の弱さというものは出ていませんね。反対に、藤牧君は絵の上では強くなれた人だったんじゃないでしょうか。》(展覧会図録より)
確かに『赤陽』を無我夢中で彫っているときは、彼は強い人だったにちがいない。しかし、それと背中合わせの弱気な藤牧義夫がいて、作品の完成度が気になり、刷り上がった版を切り貼りしたのかもしれない。『赤陽』は、彼の強さと弱さが ― つまり彼のすべてが ― にじみ出た一枚なのである。
***
洲之内徹は晩年、まさに『隅田川絵巻』に描かれたあたりに住んでいたという。彼は藤牧を取り上げた随筆のしめくくりに ― 洲之内はこの随筆を書いた直後に死んだので、洲之内自身のしめくくりでもあるのだが ― 深夜の隅田川を眺めながら、こう書きつけている。
《失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。》
藤牧義夫が姿を消してから今年で72年が経過するが、その行方は杳として知れないままだ。
DATA:
「日曜美術館30年展」
2006年12月13日~2007年1月21日
京都文化博物館
参考図書:
洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』
新潮社
つづく
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初めて藤牧義夫の名前を知ったのは、この随想録にもたびたび登場する、洲之内徹の文章によってだった。ただそのときは、版画家だという意識はしていなかったように思う。そこで紹介されていたのが、『隅田川絵巻』と呼ばれる肉筆の線描画だったからだろう。藤牧が24歳のとき、突然消息を絶ったということも、そのとき知った。
最近になって、この稿を書くために版画のことをいろいろ調べはじめたら、版画家名鑑のような本に藤牧の名前が大きく載っていたので驚いた。肉筆画と版画の両方を制作する画家は少なくないので、版画を作るから必ずしも版画家だということにはならないと思うが、よく調べてみると彼は「新版画集団」という版画家のグループに属していて、れっきとした版画家のキャリアを積んでいるようである。ただし、せいぜい5年間ほどのことにすぎないけれど・・・。
その版画家名鑑の中で、藤牧の代表作として取り上げられていた『赤陽』という木版画が、このたび「美の巨人たち」というテレビ番組でも取り上げられているのを見た。この番組の魅力は、美術作品や作者をただ紹介するだけではなく、創作の謎といった部分に深く切り込んでいくところだと思うが、藤牧をめぐる謎は、番組を見終わった後も依然として解けないどころか、ますますもって深まっていくように思われた。
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番組の中である人が語っていたところによると、藤牧は版木に下絵を描かず、いきなり三角刀で彫り進んでいったそうである。あの棟方志功ですらも、板の上に墨でおおまかな当たりをつけてから彫っていたことを考えると、藤牧の異常なまでの集中度の高さというか、決然たる意志のようなものが感じられる。木版画は、彫りあやまると決して修正することができないものだからである。
しかし洲之内によれば、『赤陽』には3種類の異なったバージョンが存在するという。試みに、そのうちの2枚の図版を並べてみると(下図)、画面下の建物の位置が大きく移動していることに気づく。実はこの建物は、版木に彫られたそのままの位置にはなく、刷り上がったものを切り抜いて貼り付けたものだというのである。構図全体のトリミングも、かなり異なっているように見える。


揺るがぬ意志をもって、下絵なしで板を彫り込んでいく姿と、刷り上がってから構図をあれこれ手直しし、逡巡することとの間には、大きな隔たりがある。そこにはまるで、ふたりの藤牧義夫がいるかのようだ。これはいったい、どういうことなのだろう?
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1か月ほど前に、NHKの「日曜美術館」放送30周年を記念する展覧会で、初めて藤牧義夫の実物を観る機会に恵まれた。しかしそれは版画ではなく、例の『隅田川絵巻』である。全部合わせると60メートルもの長さがあるということだが、ぼくが観たのは、そのうちの第3巻であった(下図、部分)。

これは毛筆で描かれているようだが、その筆致はまるでサインペンのように的確で、狂いがない。『赤陽』にみられる一種の荒々しさ、奔放さといったものは、まるで感じられないのである。語弊を恐れずにいえば、まるで風景にじかに紙をあてて、トレースしたかのようではないか?・・・と、このような感想を抱いてから、藤牧の経歴について調べてみると、彼は版画家になる前にトレース工として働いていたと書かれていた。
トレースとはいうまでもなく、ものの輪郭をなぞる仕事である。板を刻んでイメージを彫り出す木版画とは、そのなりたちからしてまったく異なっている。藤牧はもともと、そういう二面性を内に秘めた存在だったのではあるまいか。
藤牧をよく知る人の、興味深い証言がある。同じ「新版画集団」のメンバーだった清水正博が、かつて「日曜美術館」に出演した際に残した言葉である。
《帝展に入選したときには、喜んで郷里でもお祝いの会を開いてくれたんですが、それでも版画では生活してゆけなかった。人をかき分けてゆくようなことはできなかった人ですしね。われわれ版画集団は、小野(忠重)君のところで、狭い部屋にとぐろをまいて深夜十二時過ぎまで話していました。帰り道も二人で、私は途中で別れますが、あとで聞くと、藤牧君は、下宿のおばさんを起こすのが気の毒で、裏のゴミ箱の中がきれいだったから、その中で寝た、なんていうんです。寒い時期の話だったと思いますよ。そういう、下宿のおばさんも起こせないような気の弱い人だったんです。ただ、絵の上にはその気の弱さというものは出ていませんね。反対に、藤牧君は絵の上では強くなれた人だったんじゃないでしょうか。》(展覧会図録より)
確かに『赤陽』を無我夢中で彫っているときは、彼は強い人だったにちがいない。しかし、それと背中合わせの弱気な藤牧義夫がいて、作品の完成度が気になり、刷り上がった版を切り貼りしたのかもしれない。『赤陽』は、彼の強さと弱さが ― つまり彼のすべてが ― にじみ出た一枚なのである。
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洲之内徹は晩年、まさに『隅田川絵巻』に描かれたあたりに住んでいたという。彼は藤牧を取り上げた随筆のしめくくりに ― 洲之内はこの随筆を書いた直後に死んだので、洲之内自身のしめくくりでもあるのだが ― 深夜の隅田川を眺めながら、こう書きつけている。
《失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。》
藤牧義夫が姿を消してから今年で72年が経過するが、その行方は杳として知れないままだ。
DATA:
「日曜美術館30年展」
2006年12月13日~2007年1月21日
京都文化博物館
参考図書:
洲之内徹『さらば気まぐれ美術館』
新潮社
つづく
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しあわせです。絵は、おもしろいですね。