てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(12)

2007年08月27日 | 美術随想


 多くの画家の絶筆ばかり集めたこの展覧会の中で、もっとも異彩を放っていたのが ― いいかえれば異常なまでのバイタリティーにあふれていたのが ― 今井俊満の作品である。横が10メートル以上もある画面の中に、11人もの巨大な人物がひしめくように描かれている。タイトルは『The para para dancing』(上図)、およそ美術作品らしからぬ表題である。

 今井俊満については、すでにここでも何度か触れた(「堂本尚郎の緩やかな転変(5)」「宵山放浪記(3)」)。彼は京都の嵐山の生まれだが、20代半ばに日本を飛び出し、フランスのアンフォルメル運動の中へと身を投じる。以来さまざまに作風を変転させながら前衛美術の最前線を精力的に疾走したが、ガンに侵され、2002年に73歳の生涯を閉じるのである。

 そんな彼の最晩年のモチーフとなったのが、あろうことか、これまで誰ひとり芸術のテーマとして取り組もうとしなかった渋谷のコギャルたちであったのだ。

                    ***

 関西の人間であるぼくは、本家本元のコギャルというものをつぶさに観察したことはない(亜流らしきものは大阪でもちらほら見かけたけれど)。しかし一時期、なぜかマスメディアが好んで彼女たちを取り上げ、まるで団塊の世代やバブルの世代と並ぶ新世代の象徴のように扱ったことがあった。ある大きな事件などが報じられると、街頭を行く人々にマイクを向けて感想を聞いているのをよく見かけるが、善良そうな中年サラリーマンや子供を抱えた主婦たちに混じって、けばけばしいメイクをほどこしたコギャルたちが ― なぜか絶え間なく笑いながら ― インタビューに答えていたものである(今では彼女たちの役割は終わり、アキバ系と呼ばれる人たちへ引き継がれているだろう)。

 ぼくは単身生活者なので、ひとりで食事をしながら家でニュースなどを見ていると、何の前触れもなく画面にコギャルがあらわれて非常に不快な思いをすることが少なくなかった(これは決して差別というわけではなく、コギャルファッションに不快感を覚えた人は他にも大勢いただろうという前提に立っての話である)。ましてや家族が仲よく食卓を囲んでいる中にコギャルの映像が割り込んできたとしたら、その場の空気はどうなってしまうのだろうという余計な心配をしたくもなる。

 しかしそんなコギャルたちの姿を、余命わずかと宣告された今井俊満は執拗に描きつづけた。ぼくがこの事実を知ったのは、今井の生前に放送されたNHKのドキュメンタリー番組を見たからだが、そのときにもこの前衛芸術家がいったいどこへ行こうとしているのかさっぱり理解できなかったものである。死期をさとった人というのは、この世の煩悩をかなぐり捨て、ある意味で人生を達観したような境地に至って死ぬものではなかろうかという曖昧な認識が、ぼくの中にあったからだろう。

                    ***

 だがよく考えてみれば、人間の煩悩が抑止力を失い、もっとも派手に暴走するのが死の間際だということもまた真実である。もし明日死ぬということになれば、人はすべての仕事や用事を差し置いて自分のやりたかったことをやろうとするだろう。煩悩を包み隠すことなく、あえて人目に触れるように体にまといつかせたコギャルの存在が、死を目前にした今井を夢中させた理由はそのへんにあったのだろうか?

 しかし今井の生前最後の述懐によれば、彼はもっと冷静に、あくまで日本文化的な視座で彼女たちを見つめていたようである。

 《私の考えでは、ファッションにおいても、流行・文化においても、現代日本をリードしているのはコギャルたちです。彼女らの姿をとどめる現代の浮世絵シリーズ、北斎漫画のような現代の風俗マンガを描き、現在に至っているわけですが、描いている間にもガングロや厚底靴が現れ、パラパラが流行し、109(マルキュー)のような若い女の子のためだけの雑貨デパートから派生したものが、今では地方にも波及しています。私はさらにそうしたものを、かつての浮世絵師たちがしたように、春画 ― エロチカとして推し進めました。》(「今井俊満の真実」藝術出版社)

 コギャルシリーズは現代の浮世絵であり春画であると、今井はいっているのである。なるほど浮世絵とは文字どおり“浮世”を描くものであって、世相の変化や市民の流行と無縁ではあり得ない。だからこそ、江戸庶民の生き生きとした暮らしぶりがよく伝わってくるのであろう。

 今井俊満は命尽きるまで、同時代の日本の姿と向き合おうとした。コギャルたちの奔放な生態は、まさに彼が見納めようとしている停滞したこの国の文化の中で、むき出しの生命力を感じさせる唯一のものだった。それは彼自身をも勇気づけ、病を押しての創作へと駆り立てたにちがいない。

                    ***

 コギャルブームの全盛期は、今井の死と相前後して去ったかのように思われる。まさに前衛芸術家としての使命をまっとうするべく、去りゆく時代に追いすがろうとする凄絶な晩年だった。

 だが絵のテーマとしては、コギャルはまだ新しすぎて、客観的に眺めることは難しい。今井の絶筆に正当な評価が下されるのは、時代がコギャルの存在をすっかり忘却してしまってからの話のような気がする。

(個人蔵、画像は部分)

つづきを読む
この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。