“三重県四日市市の公害に関する語り部が高齢化していることを本紙で知り、私は高校生のときの体験を思い出しました。私の高校は同市塩浜地区にあり、軍の建物を校舎にしたと聞きました。廊下と教室は同じぐらいの広さで細長く、所々に視界を遮る柱がありました。何より窓の外からはタマネギの腐ったような何ともいえず嫌な臭いが漂ってきました。そのたびにどんなに暑くても一斉に窓を閉めました。校庭にいれば途端に気分が悪くなりました。とても体育の授業どころではありませんでした。
三年生のときに海から離れた内陸方面に新校舎ができて移転してからはあの臭いを嗅ぐことはなくなりました。しかし塩浜地区に家や職場、学校がある人は移ることもできず、1日中そこで過ごすしかなかったのです。
私たちは四日市公害のことを絶対に忘れてはいけません。”(8月26日付け中日新聞)
三重県四日市市の主婦・水谷さん(73)の投稿文です。水谷さんの高校時代と言えば、昭和30年代後半である。その頃の四日市の郊外は凄かったであろう。実はボクは結婚してすぐに東海市の借家に住んだ。昭和45年頃である。その頃の東海市の公害も凄かった。赤い雪が降ると言われ、外に干した布団は赤いホコリだらけになる。電車から降りると凄い臭いであった。ボクは気管支が弱いと思っていたので、とてもここには住めないと転居を考えた。そして、2年ほど住んで転居した。
新聞では第2次世界大戦の語り部のことがよく報道される。戦争のことを語れるのは80歳以上の人であろうが、80歳では戦後の苦しさのことしか語れない。本当に語れるのは、90歳以上の人であろう。となると、もうまもなく絶える。こういうことが絶えると一挙に戦争のきな臭さが臭い出す気がする。もうその兆候があると思うのは、杞憂であろうか。
そして、公害である。四日市や東海市のような大気汚染による公害は戦後まもなくから始まり昭和40年代が最悪であったろうか。最悪だった頃の公害を知っている人も減っていく。個人のことは良いことばかり覚えていればいいが、社会のことは悪いことを覚えておかなくてはいけない。そして今も次から次へと新たな公害が発生している。
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