天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

東西本願寺分派の由来

2011-11-08 16:15:24 | 天真寺

先日、ご法話に行ったお寺に「顕如上人400回忌法要 本願寺寺基京都移転400年法要」の記念法座のしおりがあった。なんと昭和62年発行、25年前の資料です。つい手にとって読んでいた。

顕如上人とは本願寺第十一代ご門主様です。戦国時代の本願寺の様子とともに、本願寺分派の由来が説明されていた。
以下、文章を抜粋しました。

顕如上人と石山の法難
証如上人は石山坊舎に移られると、次第に両堂など本寺としての体裁をととのえ、寺内町を形成してゆかれました。後年10年余りの争いに絶えられる基礎ができていったのでした。
 顕如上人は、父証如上人の平和路線を継がれていましたが、時代の趨勢か、武田信玄らと盟約を結んでゆかれました。そして、織田信長が将軍足利義昭を奉じて入洛し覇業に乗り出した頃から、風雲急を告げる状態となり、元亀元年(1570)、ついに志もだしがたく、種々「難題」を申しつけた信長と、十余年にわたる戦いの余儀なきにいたりました。
 これに近江や伊勢長島の門徒が応じ、信長を苦しめましたが、武田信玄や朝倉()、浅井(滋賀県)の一族が次々と滅ぼされ、長島や越前の一揆も崩されるに及び、籠城戦となっていきました。信長の攻撃によく持ちこたえたものの、天正8年(1580)信長と講和し、顕如上人は紀州鷺森(和歌山市)に退去されました。 一方、長男・教如上人は信長の表裏二心を警戒して退去に反対され、諸国に檄を飛ばされました。これが後年の東西分立につながっていくこととなりました。

以上のように、戦国時代のさなか、他にもさまざまな要因が絡み合いながら東西本願寺が分かれていくということになったようです。
顕如上人についてはコチラをご覧下さい(本願寺新報1995年5月号)

しかし、25年前のしおりがなにげなく置いてあるなんて、すごいお寺です。

(龍)