闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

大学時代の師を訪ねる

2008-06-29 23:29:58 | 翻訳への道
またしても記事投稿に時間があいてしまった。
外国人軍団が去ってから、この間なにもしていなかったわけではなく、少し時間ができたのを幸いに、いしやまてらみかさんのコメント投稿をきっかけにかんがえはじめた18世紀思想の流れを自分なりにもう一度整理するとともに、その一例として18世紀のとある著作を読みはじめた。ところが読んでいるうちにそれがおもしろくなって、自分で読むだけではもったいないと、その翻訳もはじめてしまった。なにせぶ厚い本なので、全体を訳すことはとてもおぼつかないが、部分訳ということなら自分にもできそうだし、それに日本にはまだこの本の翻訳がないので、部分訳でもなにかの役に立つのではないかとおもっているしだい。自費出版とまではいかないが、できることならそれを小冊子にまとめてみたいと今はおもっている。
またこれにはもう一つ、神奈川近代文学館で開催された澁澤龍彦回顧展をみたことも影響している。

     ☆    ☆    ☆

ということで今読んでいるのは18世紀の中頃に出た『人間の精神について』(仮タイトル)といった内容の作品。ただしタイトルに「精神」という言葉をつかっているものの、著者のHという思想家は、特権的な人間精神といったものの存在をまったく信じておらず、作品全体をとおして、「精神」というのは、あるとき人間が考え出した虚構だといったことを証明しようとしている。
その論点を簡単に要約すると次のようになる。
無機物を含めた物質には、なにかしら外界の刺激に対して自動的に反応する潜在力があり、動物がもっている感覚は、それが顕在化したものにほかならない。また一方で人間の記憶や判断力といったものは、つきつめていけば感覚にもとづくなかば自動的な反応に他ならず、人間と動物の行動や精神のあいだにあるのは、程度の違いに過ぎない。人間の行動はすべて自分の利益を起点としたもので、各人は自分の感覚によってそれを把握している。
また人間はすべて自分(の利益)を基準に判断し行動するのであって、たとえば他人を誉めるとき、それは他人のなかに自分自身を見いだし、その自分を誉めているに過ぎない。
一方、社会はそうした個人の集合体に他ならないのだから、社会を構成する個々人の利益と反する社会独自の利益など存在しようもなく、道徳も宗教も、現在の支配者が自分につごうがいいように社会を維持するためにこしらえあげた虚構である。道徳や宗教を含め、さまざまな社会における習慣、洗練、文化といったものはすべて相対的であり、絶対的に価値をもつものはない。
この作品のなかに恋愛論は登場しないが、そもそも作者は人間精神の存在を認めていないのだから、肉体の快楽(感覚)は議論や分析の対象でありえても、恋愛といった抽象的なものは議論の対象になりえないといえる。とすればここから、ラクロの『危険な関係』やモーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』といった恋愛をゲーム化した作品が出てくるのは当然のことであり、サド侯爵の作品も、その延長線上におさまってくるのではないかと私はおもう。
要するに、精神作用を認めないところで恋愛を語ろうとすれば、それは性の快楽や技巧の話にならざるをえず、いったんそうなると、それは止めどなくエスカレートしてくる。その究極にあるのがサドの作品ではないかということだ。

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そんなことをかんがえながら、先日は、はじめたばかりの翻訳をもって大学時代のフランス語の師を訪問してきた。師からすればいつまでもブラブラしている私は不肖の弟子でしかないが、それでも大学を出てから師との連絡を欠かしたことはなく、その私邸もこれまで何度か訪問している。ただ最近はさすがにそれも間遠になり、かんがえてみたら、今回は4年振りの訪問だった。訪ねていくと、78歳というのに師はまだ元気で、書斎でまた新しい本を翻訳している。私など一生掛かっても師の仕事にはおよびもしないのだが、それでも『人間の精神について』の翻訳をはじめたというと喜んでくれて、「あまりいろいろなことに手を出さず、コツコツ仕事をするように」という忠告までもらってしまった。ありがたい。
年齢的なものをかんがえて、師と会うのはこれが最後かなとおもいながらの訪問だったが、翻訳がもう少しすすんだら目をとおしてもらうということで、再訪のよい口実ができた。

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