闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

『巨匠たちの音、巨匠たちの姿』(植村攻)を読む

2011-04-29 23:27:51 | 楽興の時
植村攻氏の『巨匠たちの音、巨匠たちの姿』(東京創元社)を読んだ。
植村氏は、元富士銀行社員で、1950年代にシカゴおよびロンドンに赴任し、そこで、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、ハンス・クナッパーツブッシュらの巨匠たちの演奏を実際に聴いている。その体験をまとめたのがこの本だ。著作全体は、個々の演奏について深い評釈を行うというより、タイトルのとおり、巨匠たちがどのような雰囲気のなかで演奏をしていたかを伝えることにポイントをおいているが、それはそれで貴重な記録だ。

書店で私がこの本を手にとってみたのは、クレンペラーがどのような感じで指揮をしていたのかに興味がわいたため。実際、植村氏はロンドン赴任直後の1955年12月にロイヤル・フェスティヴァル・ホール開催されたコンサートを皮切りにクレンペラーの実演を数多く聴き、57年には、同じホールで行われたクレンペラーのベートーヴェン交響曲連続演奏会を二度ずつ聴いて、次のような貴重な事実を記している。

「私は全部のコンサートを聴くことが出来たが、同じ曲を二回演奏するつど、ヴィオラとチェロのグループの位置が入れ替わっているのに気がついた。だいたい一回目の時は、ヴィオラをステージの中央に、チェロは指揮台の右の観客席側に置いていたが、二回目の時はその逆になっていることが多かった。これについて、当時知り合ったフィルハーモニアの若手ヴィオラ奏者に訊いてみたが、チェロやヴィオラばかりでなく、金管や木管などもその位置を変えていたのだそうだ。それについて、クレンペラーは楽団員に、「こんな機会は滅多にないから、どう響きが違うか試してみるのだ」と言ったという。彼は、演奏の細部までうるさく指示する人ではなかったそうだが、木管の響きを重視し、金管や他の楽器に消されないように常に注意を払ったそうだ。あるコンサートでマーラーの曲を演奏した時には、作曲家の指示よりも木管奏者を一人増やしたこともあったという。私は最初の時から、この人が指揮をすると細部の音まで実によく聞こえると思っていたが、そんな話を聞くと、こんなところにもその秘密があるのかと思ったりした。」

クレンペラーのステレオ録音の演奏を聴くと、他の指揮者と異なり、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを左右対象に配しており、それが、対位法的なフレーズなどで非常に強い効果をだすのだが、植村氏の報告によれば、その配置は、クレンペラーがつねに実践していのではなく、試行錯誤のうえでたどりついた結論だということがわかる。また、「木管重視」というのも、録音からうける印象と合致しており、「やはり」という感じがする。

このほか、植村氏はザルツブルクやバイロイトまで足を伸ばして当時としても貴重な演奏を聴き、それを実直に報告しているので、非常に読みでがある。
惜しむらくは、植村氏がヨーロッパに赴任したのが55年で、その前年にフルトヴェングラーが亡くなっているため、フルトヴェングラーの演奏がどのようなものだったかの記録がないことぐらいか。

巨匠指揮者の記述以外で「へえ、そんなことがあったのか」とびっくりしたのは、ピアニスト、クララ・ハスキルのリサイタルの報告。そのリサイタルは57年6月16日にロイヤル・フェスティヴァル・ホールで開かれたもので、曲目はバッハのコラール、モーツァルトの変奏曲、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「テンペスト」、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番(ああ、うらやましい!)。

「前半を終わって休憩に入った時、私は立ち上がって辺りを見廻してみて驚いた。席は離れていたが、クレンペラーの銅像のような姿が見え、別の方向にはクリップス、そして私の席の並びにはシュヴァルツコップとレッグ夫妻が座っていた。ロンドンでずいぶんコンサートに通ったが、この日のように当時の楽団の主役たちが観客席に顔を揃えたのを見たのは、これが初めてで終わりであった。それは、たまたま日曜日のマチネーだったからかもしれない。或いは、単なる偶然だったのかもしれない。しかし私は、ハスキルの芸術が、これら当代一流の「同業者たち」からも高く評価されていて、日曜の午後の時間を、ホールにまで足を運ばせているのだと思って、何かとても嬉しい気持ちがした。」

ハスキルの演奏を聴いたことにたいする羨望は、この客席の顔ぶれの報告を読んでさらに強くなった。植村氏が書いているとおり、ハスキルという演奏家は、好事家のみならず演奏家仲間からも高く評価されていたことがよくわかる、貴重な記述である。

ちなみに、クレンペラーとハスキルは59年にモーツァルトのピアノ協奏曲で共演することになっていたが、二人とも怪我や病気が多く、この共演はついに実現せずに終わったということだ(ハスキルは60年没)。モーツァルトにとって、そして音楽にとって、非常に惜しまれる。