闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

レセプションの夜

2007-10-14 18:08:53 | 雑記
13日からいよいよ森美術館で『六本木クロッシング2007:未来への脈動』展がはじまった(1月14日まで)。来場者の反応はどんな感じだろうか。展覧会の直接の感想はさておき、今日は、いろいろな人と出会った開会前日の行動を日記風に記してみたい。日記のなかにはもちろん、一部展覧会の感想も入るが、それは関係者の発言として、多少割り引いてお読みいただきたい(笑)。

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さて12日は、夕方から『六本木クロッシング2007:未来への脈動』展の前夜祭であるレセプション。知人に誘われてスーツ姿で森美術館に赴いた。
事前に私が案内状を出しておいた友人の姿がみられなかったのは残念だったが、逆におもいがけない来場者も大勢いた。なぜか中京方面からの知りあいがかなりいたので、レセプションでは会って話をする機会の少ない彼らと行動をともにした。

ところで気になる展覧会だが、すべての作品が揃ってみると、個性的な36人(組)の作品展示は圧巻というより他にない。ほとんどの作家が、既存の美術ジャンルにとれわれず、表現の枠や幅を拡げようと苦心しているエネルギーというかテンションの高さが、見ているうちにストレートに伝わってくる。そしてそれが、すべて同じ方向を指しているのではなく、各人の探究の方向がバラバラで、全体として一つの方向に収束しないというのがおもしろい。展覧会を企画・主催した森美術館としては、ある方向にそって作家・作品をあつめ、一つのテーマ性を提示するというより、いろいろな意味でともかく現代アートの最先端にたつと考えられる作家・作品をあつめ、その評価・判定は来場者にゆだねようということなのだろう。だからといって無責任な雑居のような印象にしていないのが、美術館の見識の高さを示しているとおもう。アートといえばすぐになんらかのテーマ性を求め、アートそのものではなくそのテーマ性の優劣を云々する傾向の強い、リアリズムに偏し、社会運動としてのアート以外認めようとしない態度とは一線を画する展覧会だ。
出展作家のなかには、もしかするとゲイも何人かまじっているかも知れないが、彼らも含め、ほとんどすべての作家が、そうした自分の性向や信条を直接発露するというより、まず作品を作品として完結させようという姿勢がみられるのが心地よい(幸い、私はレセプション会場で何人かの作家の話をきくことができた。自分の世界をもち、それを表現しようとしている彼らは、とても美しい)。世の中には、ゲイがつくった作品はゲイにアピールしやすいという考え方もあるかもしれないが、私は、本来のアートというのは、まず作品がそれ自体として鑑賞者に訴えかける力をもち、しかるのち、鑑賞者がその情報を発信した作者に関心をもつというのが本道だろうとおもう。その作者がゲイであるかどうかというのは、作品にとって二次的な問題ではないだろうか。
そういう意味において、この展覧会にゲイ・テイストといったものはほとんどないが、現代芸術の方向性を考えようとするならば、とても刺激的で示唆に富む展覧会だとおもった(ただし表現対象との距離が近い写真作品の一部には、作品内部に社会性を取り入れようとした作品もあった)。

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さてレセプション、二次会が終わり、気の合う友人に誘われて、六本木にあるニューハーフ・パブに行くことになった。パブの入り口には「六本木GAY術劇場」という看板がかけてあり、なにやら今回の展覧会とも関係がありそうだ。
パブのなかは(われわれが入ったときは、ちょうどショウ・タイムの最中だった)、ある意味で想像どおりで、ショウ・タイムが終わってからわれわれのテーブルについてくれたニューハーフの人も、事前に想像していたような美人だったのだが、驚かされたのはパブのボーイさんがすべてDNA的には女性だということ。だから正確にはガールさんというべきかも知れないが、これはニューハーフの人に教えてもらうまでまったく気が付かなかった。なかでも年輩のガールさんはオヤジそのものだ。

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ニューハーフ・パブで過ごすことしばし。興奮さめやらぬわれわれは(なんの興奮やら)、そのまま新宿に繰り出した。
これまた知りあいに誘われてたまたま入った店(ノンケ・バー)には、性格派俳優の佐○史郎さんが来て飲んでおり、うってかわって今度は佐○さんと激論。佐○さんと私は、以前から少し面識があるのだが、つっこんで話したのはこれが最初で、きっかけは忘れてしまったが議論はいきなりブレッソン論からはじまった。
佐○さんというと、私にはとてもネチッコイ演技をするという印象があり、ブレッソン映画はその逆なので、佐○さんがブレッソンが大好きというのは私にはとても意外で、そのあたりのことをまずいろいろきいたが、故人ではあるが、ブレッソンは、もし生きていたらその映画に出てみたい、この人なら役者としてすべてまかせられるという監督の一人だという。
話題はそこから、ブレッソンのモンタージュについての議論に移ったのだが、観客として映画をみている私と、まずは観客としてみながらもそこに自然と役者としての視点が入ってくる佐○さんでは、同じようにブレッソンが好きといっても見方が微妙に違う。互いに視点が違うということを確認したのち、話題は演技論に。
役者として数々の舞台やテレビ・映画等を経験している佐○さんの演技論は、地に足のついたもので、と同時に、もらった台本をなんでも無難にこなしていくだけの俳優とは一線を画した、ある自覚をもった俳優の演技論であるところがとてもおもしろかった(ある自覚をもつからこそ、ブレッソン映画に出てみたいという冒頭の発言が出てくる)。
その場に居合わせた人の発言で、話題が小津安二郎の演出論に転換し、とある作品で小津が娘を亡くした母親の演技の指導にとても厳しく、女優がどのように演じてもOKを出さず、しまいになにも考えずに着ている着物をぎゅっと握れという指示を出したという話をすると、佐○さんがその指示に賛意を示し、結局、役者がどのような気持ちである役を演じてもそれがそのまま観客に伝わるということはなく、最後には観客の解釈が入りこまざるを得なくなるから、演技の窮極は、あるかたち(所作)を提示することにいきつくかもしれないというあたりで、意見がまた一致した。小津はさておき、たとえばブレッソンの映画はそうした所作だけで成り立っている映画なのだ。
話に夢中になって、気が付いたら午前3時近くになっていた。

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展覧会のレセプションが、思わぬ人との出会いで思わぬ終わり方となったが、刺激的でとてもおもしろい一夜だった。