闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

小説の普遍性と体験の個人性

2007-02-13 01:37:09 | テクストの快楽
マルグリット・ユルスナールへのインタビュー集『目を見開いて』を読み終えたが、結局、ユルスナールが考えていたのは、作品も同性愛という体験も、きわめて個人的なものだということだと思う。いや、より正確には、作品(言語)は普遍的、体験は個人的というべきか。したがってユルスナールは、自分の作品が自分を反映しているという考え方、彼女の作品に対するそうした読みを拒む。ではユルスナール作品から伝わるものはなになのか。ガレーはその矛盾をつく。インタビューの後半は、スリリングなもりあがりをみせる。

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M・G「この本(『北の古文書』)のなかであなたご自身のことを語っておられないのは驚きです。」
M・Y「フランスでものを書いたり話したりする人に見られる「人格(自分自身の)崇拝」という固定観念には、いつも仰天します。あえて言わせてもらえば、これはおぞましいほどブチ・ブル的だと思います。私は、私が、私を、私の、私の、私の…すべてがすべてのなかにあるか、話す価値のあるものはなにもないか、どちらかです。私についていえば、いわゆる「社交」の集まりで、マロン・グラッセが大好きだとか、好きな砂糖菓子はこれこれといったことを私に教えようとするご婦人や、いかにも「自分の」愛のアヴァンチュールを私に話して聞かせたくてうずうずしている殿方、たいていは耄碌した老紳士がいたりすると、私はできるだけ目立たないようにその場を離れます。ある作家の本のなかに個人的な打ち明け話のだぐいを探す読者は、本の読み方を知らない読者です。
 (中略)ラテン人たちは、「ペルソナ」は個人あるいは人間とはっきり区別されるなにか、一種の表象的図像、あるいは一種の図形であるという考えをもっていました。いま私はマチューという名前の人物を目の前にしています。もしかしたら私は個人としてのマチューも少しーーほんの少しーー知っているかもしれません。しかしあなたは誰なのでしょう。人間存在としてのあなたなら私は確認できます。あなたがどんな人なのか知らないとしてもです。ミシェル(ユルスナールの父)に関しては、いまでも彼を隅々まで知っているわけではありません。ましてや20歳のころの私の人生経験では、彼を完全に理解することはもちろんできませんでした。」
M・G「しかしながら、あなたのやり方は、まさに正反対だったように思われます。つまりあなたのほうが作中人物のなかに入り込んだのです。」
M・Y「それは絶対に違います。私がゼノンでもハドリアヌスでもないのと同じく、ミシェルでもありません。あらゆる小説家と同じく私は自分の実質から出発して彼の再構成を試みました。しかしそれは未分化の実質なのです。人は自分の創造する人物を自分の実質で育てます。それはある意味で懐胎という現象に似ています。彼に生命を与え、あるいは生命を返すためには、人間的実質の寄与によってその人物を強化しなければならないのは確かです。しかしだからといって、彼が私たちであるとか私たちが彼であるとかということにはなりません。それぞれの実態は違ったままなのです。」(中略)
M・G「自己を語ることへのあなたの気難しさは独特ですね。それを感じているのは作家たちのなかで実際上あなただけです。作家が自分を語るのを嫌うのは稀なことです。」
M・Y「自己を語るのではなく、繰り言を言うだけの人が多いのです。」

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ある人は、こうしたユルスナールの発言をかたくなだと受け取るかもしれない。しかしユルスナールは、作品をとおして個を超えたなにかを追求していたのではないか。もちろん、その出発点はあくまでも個であり、同性愛という現実ではあるのだけれど。
ユルスナールは最後の最後まで誇り高く、自分を矮小化することがない。作品においても、インタビューにおいても。自己がどのように死にたいかを語るインタビューの結末部は文字通り感動的である。
『目を見開いて』全体を読み終えて、私は、偉大な人の偉大な声に接したという思いを強くした。