闇に響くノクターン

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同性愛の非政治性ーーユルスナールの場合

2007-02-11 19:07:49 | テクストの快楽
今日は研究論文に使う参考文献をコピーしに図書館に行ってきた。ただし論文はそっちのけで、マルグリット・ユルスナールへのインタビュー集『目を見開いて』(白水社)を読んでいる。以下、『目を見開いて』のなかから、現在の私には非常に含蓄があると思われる言葉を抜き出してみる。

M・G「非政治的人間を自称する人はすべて、ふつう右翼の人間ですね。」
M・Y「そういう判断は断定的すぎて、私には受け入れがたく思えるけど、少し考えさせてください…そういう言い方が差し当たり証し立てるのは、左翼のイデオロギーが右翼の政治にたいして優位に立っている、あるいは立とうと努力しているということです。ムソリーニにとって、彼の帝国主義政策に賛同しない作家はすべて、いうまでもなくアナーキスト的傾向の「非政治的人間」でした。(中略)私は、終末論的夢想が左翼のものだから悪いと言っているのではありません。人がそれらを内容空虚な決まり文句に変えてしまうから悪いのだと言っているのです。心の奥底では私は確信しています。どんな体制でも、それを適用する人が完璧であり、それを受け入れる人びとが完璧であるのなら、完璧でありえない体制はない、と。理想的共産主義体制は、このうえなくすばらしいはずです。しかし、ヴォルテールが願うような啓蒙君主も同様にこのうえなくすばらしいはずなのです。ただ、そんな人たちがいったいどこにいるのでしょう。」

M・G「共感愛というのは、どういうものなのですか?」
M・Y「どんなものであれ、私たちと同じ危険、同じ苦難をわかちあう被造物への深い優しさの感情です。私はそれをとても強く感じるのです。しかし小説や演劇で人びとが愛と呼んでいるものとは違います。また、たいへんまずい呼び方だと思うのですが、「プラトニックな愛」と呼ばれているものでもありません。それはひとつの絆なのであり、肉体的なものであろうとなかろうと、つねに官能的で、なにをどうしようとその点に変わりはないのですが、ただそこでは共感のほうが情熱より優位を占めるのです。フランス的愛の概念には、これまでいつも私を困惑させてきたものが、もうひとつあることも言っておかなければなりません。もしかしたらヨーロッパ全体の愛の概念についても同じなのかもしれませんが、私が言いたいのは神聖という概念が欠けていることです。私たちの受けたキリスト教教育あるいはポスト・キリスト教教育のせいで、そしてまた1500年前から私たちに先立って存在した心理のすべてのせいで、私たちは、愛が…というよりもっと単純に官能的絆あるいは日常生活のなかの人間関係さえ神聖なものだという感情を失ってしまったことを指摘しておきたいのです。これらの官能的関係が神聖なのは、生全体のなかの偉大な現象のひとつだからです。」

M・G「少女時代、あなたは信仰をおもちでしたか?それともたんなる感動でしたか?」
M・Y「私は信仰というものを信じません、少なくとも信者たちが今日この言葉を使うときに込める意味では。言い換えれば、ほとんど攻撃的に話すときの意味では。(中略)私たちは、彼らの信仰のなかに意志の努力があり、独占への意志もあるのを感じ、見抜くのです。私たちはこういう信仰をもっている、それは私たちのものだ、こういう信仰をもたない連中は可哀相だ、あるいは逆に、そういう連中は不愉快なやつらだ、そういう連中の伝統だの個人的反応などは無視して、彼らを改宗させねばならぬ、というわけです。だとすれば、私はそんな気持ちを感じるどころではありません。(中略)聖なるものという言葉は非常に真剣に受け止めなければならない言葉です。幼年時代にわけもなくごく自然に宗教的神話を生きたことのない人びとは気の毒だーー私はいつもそう思います。私の受けた教育はとても自由なもので、人が私に、しかじかの教育を信じなければならないなどと断言したことは一度もありませんでした。それでも私のなかには、私たちをとりまいて限りなく広がる、目に見えぬもの、不可解なものがあるという気持ちは残っています。」

   *    *    *

ユルスナールにとって、愛(彼女の場合は同性愛)は神聖さの概念につながる根源的なものであり、その愛も神聖さも、キリスト教の世俗性をはるかに超えたものだったのだと思う(それは官能性を排除しない)。したがって、彼女にとって重要なことは、愛や神聖さによって世俗性を超えていくということであり、それが世俗的、もしくは社会的にどう受け止められるかという問題を彼女はいとも簡単に通り過ぎてゆく。いや、社会的な受け止め方を考慮して行動すること自体すでに世俗的であり、彼女の強く忌避するところなのだ(故に彼女は、ローマ皇帝ハドリアヌスの脱俗性にひかれていく)。
これはたとえば、カミング・アウトを怖れる人間がカミング・アウトの社会的広がりを嫌う心理とはまったく異なる。もしユルスナールとカミング・アウトの問題を問うならば、彼女は小説家を志した非常に早い段階ですでにカミング・アウトしているわけだが、「個」としての自分の問題であるカミング・アウトが、社会的問題と結び付けてとりあげられることを嫌うのである。

この辺のユルスナールの心情、私は、(左翼として知られる)ヴィスコンティの映画『山猫』のなかのサリーナ侯爵が、国会議員への推薦を辞退する心情ともつながっていると思う。