TAOコンサル『市民派・リベラルアーツ』

「エッセイ夏炉冬扇独り言」
「歴史に学ぶ人間学」
「僕流ニュースの見方」
「我が愛する映画たち」

司馬遼太郎と藤沢周平に見る人間観[3]・・ロータリークラブでの卓話より

2011年08月28日 | 司馬遼太郎と藤沢周平
 藤沢周平の作品はどれもいいが、『蝉しぐれ』は色んな要素が詰まった完成度が高い長編時代小説である。主人公は東北の小藩海坂藩の普請組の下級武士、牧野助左衛門の養子文四郎である。藩の派閥抗争に巻き込まれた養父が、反逆罪の汚名を着せられ切腹させられた後の、罪人の子としての過酷で波乱に満ちた人生を逞しく生きる姿を描いている。切腹させられた養父の無残な遺骸を大八車で運ぶ文四郎を、幼馴染のお福が助けようとするシーンは泣かせる。そして、藩主の側女として江戸にのぼるお福のことを生涯思い続けながらも口にしない恋のかたちが心に沁みる。お福役の木村佳乃も、綺麗でよかった。

 “日残りて暮るるに未だ遠し”で始まる『三屋清左衛門残日録』も私の好きな作品の一つである。かつて、NHKがかつてドラマ化したが、仲代達也の渋い演技がよかった。先代藩主の用人であった三屋清左衛門は家督を長男又四朗に譲り隠居生活に入るが、役を退いた安堵の気持と第一線を退いた一抹の寂寥感に襲われる。そんな空白感を埋めるように書き始めるのが残日録であるが、江戸時代の老いと隠居生活、気の置けない友人達との交流や年老いて行く男の無常感が漂う、味わい深い小説である。
 さて、司馬遼太郎と藤沢周平は共に人気時代小説作家ではあるが、扱っている主人公たちの人物像に違いがある。司馬遼太郎が描くのは実在人物、それも歴史の表舞台で活躍し、名を成した男たち、藤沢周平が描くのは無位無冠の男たち、つまり無名の人たちである。

司馬遼太郎は、歴史上の人物たちをビルの屋上のような高いところから俯瞰してみるのが好きだと語っているが、評論家の佐高信がいみじくも、これは上からの視点、藤沢周平のそれは下からの視点と書いている。二人の人間に対する視点の違いである。
藤沢周平の描く武家物の主人公たちは、武家社会では主流とはいえない貧しい下級武士や、嫡子ではない次男や三男、時には浪人などである。或いは、市井の無名の人たち、日の当らない処でひたむきに生きている人達と言っていいであろう。つまり、スポットの当っている処だけが人生ではないことを感じさせてくれる。

そういう意味では、日の当らない処で生きる人々を描いた山本周五郎と共通するところがある。名作『樅の木は残った』は仙台藩のお家騒動に際し、お家存続のため、敢えて悪人として死んで行こうとする家老原田甲斐の物語であるが、組織の中で耐える人間や表舞台ではないところで生きる人たちへの優しい視線が滲んでいる。この山本周五郎と同じ視線が藤沢周平の人間描写には感じられるのである。(山下)