TAOコンサル『市民派・リベラルアーツ』

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「歴史に学ぶ人間学」
「僕流ニュースの見方」
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NY便り・・アメリカにおけるアイルランド人のこと

2015年04月02日 | イェーツと陶淵明
司馬遼太郎はその著書「街道を行く・愛蘭土紀行」の中で、「アイルランド人は客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だと思っている。」と書いている。そのくらいアイルランドの歴史にはいいところがない。



私は元々アイルランドという国に惹かれるところがある。
そもそも、アイルランドは紀元前よりケルト民族が独自の文化を継承して来た国であるが、12世紀以降800年近く英国に支配されて来た。特に17世紀、清教徒革命の指導者クロムウェルによる侵略はカトリック教会の破壊や殺戮など残虐極まりないもので、アイルランド人は東部の肥沃な土地を収奪され、大西洋側の岩と泥炭ばかりの荒涼とした地に追いやられた。多くの人々は小作人として奴隷的生活を余儀なくされ、痩せた土地にも生息するジャガイモを主食として辛うじて生きて来た。しかし、19世紀半ば、このジャガイモに疫病が蔓延するいわゆるジャガイモ飢饉が起きて100万人が死亡するも、支配者イギリス政府からは救済策はほとんど無く、もはや国外脱出の道しか残されていなかった。こうして多くのアイルランド人はアメリカに移住して行くのであるが、その数は10年間にアイルランド全人口の30%に及んだ。


しかし、アイルランド人の苦難の時代は続く。アメリカで待ち受けていたのは❝アイリッシュでありカトリックである❞が故の差別であった。元々アメリカはイギリスの植民地として生まれた国であり、宗教的にもプロテスタントである人々が本流を占めている。この二つのことが相俟って徹底した偏見と差別を受けたのである。職業は工場の未熟練労働者、道路や建設現場の土木作業員、炭鉱夫、道路清掃人などでかつ低賃金労働を強いられた。この時代の悲惨なアイルランド人のことは、マーティン・スコセッシの映画「ギャングオブニューヨーク」にリアルに描かれている。ネイティブアメリカンとアイリッシュアメリカンとの凄まじい対立である。



しかし、転機は1960年にやって来た。第35代大統領ジョン・F・ケネディーの誕生である。ケネディの祖先はアイルランドのジャガイモ農家であり、この時期、アメリカに移民したアイルランド移民であった。イギリスにとってもネイティブアメリカンにとっても青天の霹靂であったであろうが、アイリッシュ・アメリカンにとっては救世主到来となったのである。勿論これ以前の南北戦争におけるアメリカへの忠誠と貢献などもあって、アイリッシュアメリカンの地位は着実に上昇してきていた。特に、ニューヨークの9・11テロ事件における救助活動で活躍した警察官・消防士のことは記憶に新しい。

アイルランド本国は第二次世界大戦後の1922年に独立戦争が勃発したが、英愛条約による講和によってイギリスから分離し、新たにアイルランド自由国を建国した。北アイルランドはその後もイギリス統治下にとどまっている。

 映画マイケルコリンズ

その後もアイルランドは独立後も経済不況や移民による人口減少に苦しんで来たが、近年アメリカIT企業などからの投資もあって経済は徐々に活況を呈しつつある。しかし独立を果たした後も、何世紀にも及ぶ屈辱的支配を忘れることはなく、いまだにイギリスへの反発は根強い。

アイルランド系アメリカ人には有名人も多いが、その一部を挙げると・・。
政治家・・ジョン・Fケネディ、ジョージ・クリントン、ロナルドレーガン
俳優・・ジョン・ウェィン、グレゴリー・ペック、ジャック・ニコルソン、ハリソン・フォード、ジョージ・クルーニー等



NY便り・・3月17日、マンハッタンは緑一色のセントパトリックデー

2015年04月01日 | イェーツと陶淵明
1~2週間は相当寒かったらしいが、マンハッタンは好天気。この日、美術館に向かおうとグランドセントラル駅を外に出たら、周辺道路は規制され、大勢の人がパレードの準備中であった。




そう、3月17日はセントパトリックデーである。元々、詩人イエイツやアイルランドに関心を持っていたので、この時期、NYに行けることは嬉しいことであった。勿論日本を出る時から楽しみにしていたのだが、こんな賑わいとは予想していなかった。セントパトリックデーとはアイルランドの祝祭日、パレードに参加する人も通行人も国のシンボルカラーである緑色のものを見に付けている。



セントパトリックとはアイルランドにキリスト教を広めた聖人のことである。この日は首都ダブリンにおいては勿論、ニューヨークやボストンでも盛大なフェスティバルが開催されているのである。

パレードに参加している多くは警察官や消防士であろうか、堂々とした行進ぶりである。イギリスに何百年もの間支配かつ虐げられ、ジャガイモ飢饉を機にアメリカに渡った後も、苦難の時代を生きて来たアイルランド人の歴史を思うと、このパレード、感慨を持って眺めざるを得ない。




駒場にある東大博物館にて、『W・B・イエーツとアイルランド展』開催

2012年07月10日 | イェーツと陶淵明
 暫く前、ある会誌に詩人イエーツについての雑文を書いたが、これを偶々読んでいただいた知人から、東大駒場博物館でのイエーツ展のことお知らせいただいた。知人は歌舞伎・能に造詣深く、日本の能にも関心を持っていたイエーツについて語り合ったことがある。

 この展覧会は、東京大学とトリニティー・カレッジ・ダブリンとの間で締結された学術協定を記念して企画されたものであるとのこと。館内には、アイルランド国立図書館で開催された『W・B・イエーツの生涯と作品展』をもとにアイルランド政府が制作したパネルや資料が展示され、イエーツの文学者としての軌跡をたどることができる興味深い内容であった。
 
 この数年、アイルランドと詩人イエーツへの関心を高めていたので、タイミングのいい展覧会であった。特に若い頃からの詩集など作品についても目にすることができ、有意義な一日であった。

 実は、イエーツの父ジョン・バトラー・イエーツは画家であった。
下記写真の中の作品は、1887年、この父ジョンが、若い時代のイエーツをモデルに描いた習作『ゴル王』である。また、その下の作品は、イエーツの詩『ゴル王の狂気』を題材にして描いたスケッチである。(山下)






アンソニーホプキンス、イエーツの詩を読みながら感極まる

2012年07月07日 | イェーツと陶淵明
イェイツは、幼少時を過ごした英国スライゴーの自然と、後半人生での詩作の地であるクール地方の湖や塔をこよなく愛し、アイルランドの原風景の中から多くの詩や戯曲を制作、祖国の文芸復興にも尽力した。この地に古くから伝わる伝承をもとに、ケルトの妖精物語を作り、日本の能にも関心を寄せた。作品は神秘主義的なところもあり、いささか難解であるが、心惹かれる詩人・劇作家である。


そんな訳で、このところ、イェイツのことが頭から離れなかったのであるが、年が明けてテレビを見ていたら、またイェイツが登場した。アンソニー・ホプキンスのトーク番組である。これには驚いた。しかも、なかなか感動的なシーンであった。アンソニー・ホプキンスは、アカデミー賞に輝いた『羊たちの沈黙』や貴族の館の執事のストイックな人生を描いた『日の名残り』など、数々の名演技で評価の高い英国の名優である。私の好きな俳優の一人でもある。これは米国アクターズ・スタジオが主催する俳優・監督のトーク番組であるが、ジェームズ・リプトンのインタビューが絶妙で、人気が高い。

この番組にアンソニー・ホプキンスが出演するというので、楽しみに観ていたのだが、「詩が好きだ」との会話があり、突然、イェイツの話になったので、驚いてしまった。リプトンから「母親の旧姓は?」と聞かれ、「イェイツ」と答えたのだ。祖父の家系が関係あるとのこと。そして、促がされて、詩を朗読し始めた。「イニスフリーの島へ行こう、土と編み枝で家を建てよう、豆を植えミツバチの巣箱を作り、一人暮らそう、・・・」と。そう、なんと、『イニスフリーの島』であったのだ。しかも、ホプキンスは、朗読の途中、感極まって涙する。大勢の聴衆に「すまない」と照れ笑いするが、会場からは割れんばかりの拍手、感動的なシーンであった。クリント・イーストウッドといい、アンソニー・ホプキンスといい、ジョン・フォードといい、私が好きな俳優や監督たちが、こんなにもイェイツを好きとは、・・嬉しいことである。

我が愛する東洋古典・・・「酔って吟じた陶淵明・帰去来の辞」

2007年02月03日 | イェーツと陶淵明

2004年8月・・(20歳代に書いた文章の一部修正版)                

私の書棚の隅に古ぼけた濃い緑色の背表紙の本が一冊ある。中国歴代の名詩文を収めた東京明治書院の星川清孝著「古文真宝選」なる本で、神田の古本屋のシールが貼ってあり定価は三百八拾円となっている。当時のアルバイト料が一日八百円位だったことからすると決して安くはないので、友人から借りたままになったのかもしれないが、四十年近く前のことなので記憶はさだかではない。この頃、私には体育会系心情右翼の友人がいて大層親しく、よく家に泊めさせてもらった。政治論議に口角泡を飛ばしたり、バド・パウエルやMJQなどのジャズに聞き惚れたりの青春の時間がそこにはあったが、酔うと二人して窓を開け放ち漢詩を朗読したものである。李白や杜甫もよかったが、とりわけ陶淵明が好きで「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす」と『帰去来の辞』を、或いは『飲酒』などの詩を声をあげて吟じた。
星川清孝著「古文新宝選」

陶淵明は中国東晋時代の詩人で役人生活を送ったのち、四十一歳の時突如として官職を辞し故郷に帰ることを決意する。その時賦したのが『帰去来の辞』である。同じ時期の詩『田園の居に帰る』の中で、「少きより俗に適う韻無く、性、もと邱山を愛す」と自らについて語っているように、その超俗的気風は生来のものであったようである。しかも、政治的不安定なこの時代に知識人たちが心酔した老荘思想の影響を受け、無為自然の世界に強く惹かれたものと思われる。続いて「誤って塵網のなかに落ち、一たび去って三十年」とあるが、宮仕えなどというものはゴミにまみれた網に落ち込んだようなもので、生活のためとはいえこういう人生は間違いであったと反省しているのである。ここに至るまでの仕官と隠遁とのいずれを選ぶかという逡巡は並大抵ではなかったであろうが、単なる世捨てとは違うこういう中国的隠遁思想には、なかなか興味深いものがある。

京都で見つけた陶淵明「飲酒」の一部

小生、何故若い頃から陶淵明などと問われれば、漢詩を吟じた時の韻が心地よかったからと答えるに違いない。ただ本音を言うなら私自身組織が好きでなく自由なる境遇への憧れを抱き続けて生きてきたようなところがあり、生来どこか超俗的気質を持っていたのではないかと思っている。その後、東洋の歴史や文化に関心を持つようになって久しいが、今、そういう年になったということなのか、或いは、ごく最近長く療養中の妻が別の病で死の淵を彷徨うのを目の当たりにしたという事情もあって、このところ人生の無常を感じ、あらためて陶淵明の魅力にひき込まれている。

帰去来の辞についても、若い頃は読みとばしていた後半の部分に、陶淵明の言わんとしたいことがあることがわかってきたりして嬉しい限りである。特に最後の「聊か化に乗じて以って尽くるに帰し、夫の天命を楽しんで復たなんぞ疑わん」にみえるのは生死への諦観であり、人生の無常をあるがまま受けいれ自然に身を委ねて天命を待つという、おおらかな明るさに溢れた陶淵明の世界である。