TAOコンサル『市民派・リベラルアーツ』

「エッセイ夏炉冬扇独り言」
「歴史に学ぶ人間学」
「僕流ニュースの見方」
「我が愛する映画たち」

「落日燃ゆ」・・A級戦犯とされた唯一の文官広田弘毅のこと

2015年08月16日 | 時代を駆け抜けた男たち
我々の学校時代、歴史の授業で近代史を学ぶ時間はほとんど無かったのであるが、歴史にこそ現代における課題の解決の鍵があると言っていい。私は幕末・維新期の歴史が特に好きであるが、昭和史についても若い頃から関心が強かった。太平洋戦争の時代にも、2・26事件で倒れた蔵相高橋是清や終戦の幕引きに命を懸けた首相鈴木貫太郎など優れた人物がいた。映画「日本のいちばん長い日」を観た後、私はふと広田弘毅のことを思い出した。そして帰宅後、若い頃の愛読書城山三郎の「落日燃ゆ」を書棚から引っ張り出して拾い読みした。


城山三郎は商社マンの経済小説などで世に出たが、歴史小説にもいい作品がある。「落日燃ゆ」は外交官であった広田弘毅の半生を描いた作品である。吉田茂と同期の外交官であったが、昭和8年(1933年)請われて外務大臣に就任することになり、開戦の危機を煽る陸・海軍大臣に対峙し、諸外国との協調的関係を作るべく積極的に動いた。その後、昭和11年には2・26事件の混乱立て直しの為首相に、昭和12年の近衛内閣においては改めて外相として推挙され、この間一貫して戦争回避の努力を続けるも、大きな流れに逆らうことはできず日本は太平洋戦争に突入して行った。


昭和20年(1945)終戦後の東京裁判において7人に絞首刑判決が下されたが、軍人が6人、文官は広田弘毅のみであった。訴因は東アジア・太平洋・インド洋支配の為の共同謀議、対中国戦争の実行であったが、広田弘毅はなんら自分の弁論をすることなく淡々と判決を受け入れた。この死刑判決について、キーナン主席検事ですら「なんという馬鹿げた判決か、絞首刑は不当だ」と憤慨したとのことである。



優れた歴史上の人物から学ぶべきことは多い。その生き方、俄かに真似できることではないが、こういう人物がいたことを憶えていたいものだ。

「花子とアン」・・花子が勤めた出版社は銀座教文館の前身

2014年07月13日 | 時代を駆け抜けた男たち
 NHKの朝ドラ「花子とアン」が高視聴率であるらしい。時々見るがいいドラマである。伊原剛志も室井滋も石橋蓮司も皆いい感じを出している。
だが、このドラマは村岡花子の伝記そのものという訳ではなく、フィクションも多い。
 両親、特に父逸平が立派だ
 教会の図書室で過ごす花子

 ドラマには出てこないが、花子は幼少期甲府のメソジスト派教会に通い、2歳の時父の希望で幼児洗礼を受けている。小さい頃の花子が本を読みに行く部屋があるが、これは教会の図書室である。牧師が出てくるシーンはないが、壁には青色のステンドグラスが見える。

元々、父逸平はお茶の行商人であったが、理想を求める文学青年であったのであろう。カナダ・メソジスト派の教会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンになった。この時代珍しい人物である。花子の幼児洗礼も、利発そうな娘への思いが強かったからに違いない。
 父逸平と家族の写真、左端花子

 ドラマでは、尋常小学校の途中で修和女学校に編入することになっているが、キリスト教や文学に関心を持つ逸平は、妻の実家や親戚ともうまく行かず花子が5歳の時一家で上京している。その後花子は、東洋英和女学校に入学するのであるが、高等科を卒業すると山梨英和学院の英語教師として赴任する。ここもテレビと事実の違う点である。

 私事になるが、先日、甲府の高校時代の友人Y君から電話があり、「おい知ってたか、花子は俺たちと同じ教会で幼児洗礼を受けていたらしい」とのこと。ちょっと驚いた。しかも銀座教文館で村岡花子展をやっているとのこと、早速見に行って来た。因みに、花子が勤務していた出版社は銀座教文館の前身である。
 教文館の展覧会

 実は私は生まれは違うのだが、幼少期を甲府で育ち、日曜日には両親に連れられて花子と同じ甲府教会に通っていた。父の希望で幼児洗礼も受けた。社会に出て以来教会に行くことも少なく立派な生き方ができている訳でもないので、忸怩たる思いであるが、父や少年時代のことを思い出す。

 当時の甲府教会

手塚治虫の一番弟子・坂口尚の漫画『石の花』 その1

2013年09月27日 | 時代を駆け抜けた男たち
 NY在住の知人Y・宮平さんから、スロバキア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェコビナを旅するとのメールが来た。何ゆえこのような地に?とその思いを尋ねると、坂口尚の漫画『石の花』の舞台であるボストイナを訪ねる旅とのこと。宮平さんのこのロマン溢れるお話を聞いて俄然興味が湧いて来た。
 僕は「石の花」のことも、坂口尚のことも知らない。訪ねる国ユーゴスラビアについては多民族国家故の戦いのこと、ドイツ占領下のチトーのパルチザンのこと位しかわかっていない。

 坂口尚は手塚治虫の一番弟子で鉄腕アトムやジャングル大帝の原画を担当、1983年にこの長編の連載を開始したのだそうだ。勿論「石の花」は絶版、あちこち探した末、昨日、笹塚の図書館まで行って来た。僕は遂に全5巻を見つけたのだ。そして全巻を読破した。と言いたいところだが、ここで僕の得意技!僕だって多忙なシニアなのだ。“終わりよければすべてよし”だよ。1巻を読み終えた直後に僕が手にしたのは第5巻。冒頭と結末を堪能し、後ろ髪を引かれつつ図書館を後にしたのであった。

 なかなか感動的な物語であった。「石の花」とはボストイナにある鍾乳洞の花のような石こと。規模は世界で2番目だが、美しさでは世界一らしい。その美しさとこの物語に魅せられて宮平さんは旅するのだろうか。いい旅だ。土産話が楽しみでならない。
 
 この物語は、第二次大戦下のパルチザンの戦いを題材に、少年の目を通した戦争の悲惨さと平和の有難さを描いている。旧ユーゴスラビア政府から表彰された作品だそうだ。

 笹塚図書館殿、物語の真ん中部分は、また今度読みに参ります。もっと感動するに違いない。でも今日はここでご勘弁。こういう読書もたまには“有り”なのだ。(笑)

 やっと見つけた「石の花」5巻

 この物語の最初のページ

池波正太郎は絵もうまい、感心してしまった

2013年09月05日 | 時代を駆け抜けた男たち
 銀座松屋で池波正太郎展を開催中と聞き、先輩のH・岩崎氏と見に行った。
池波正太郎は言わずと知れた戦後を代表する歴史・時代小説家だ。鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛人梅安など、どの作品も映画化・テレビドラマ化、人気を博してきた。
 この日、改めて知ったのだが、絵がうまいのだ。若い頃から絵が好きで、かの日本画家鏑木清方の弟子になりたいと本気で思っていたようだ。会場には何枚も絵が展示されていたが、フランスを旅した時の絵などプロも負けそうである。年賀状は毎年、2~3千枚書いていたとのことだが、その絵が洒落ている。









新渡戸稲造『武士道』のこと

2012年12月10日 | 時代を駆け抜けた男たち
 私の愛読書の一つに、新渡戸稲造の『武士道』がある。新渡戸は内村鑑三らと共に札幌農学校に学んだ後、アメリカ、ドイツなどに学んだ農学者であり、教育者である。

 ある時、ベルギーの法学の大家ラブレーに招かれ共に過ごしたことがあるが、彼から、「日本の学校に宗教教育がないとは信じられない。いったいあなた方はどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と問われ、愕然とする。そして、この疑問にどう応えるか考え抜いた末、日本には武士道という道徳教育があったことに辿りつく。そして、1900年、明治33年に英文で刊行したのが、『武士道』である。

 この本は反響を呼び、米国の大統領セオドア・ルーズベルトも感激し、数十冊を買い求めて、友人達に贈ると共に、士官学校や海軍兵学校の生徒にも紹介したという。こうして『武士道』の評判は世界中に広がり、ドイツ、フランス、ロシア、中国など多くのの国で訳された。

 「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない」で始まるこの本は、西欧の騎士道との比較や、武士道に流れる“ノーブレス・オブリージ”の精神にも言及しながら、“道徳としての武士道”、“武士道の源”、“義、または正義”と論をすすめているが、随所に、日本への愛国心とキリスト教への信仰心が滲み溢れ、読む者を感動させる。そして、「武士道は、ひとつの無意識的な、あらがうことのできない力として、日本国民およびその一人一人を動かしてきた」と、日本人の中にはキリスト教にも比肩し得る道徳心が流れていることを主張している。

 日本人の無宗教・無神論についてはよく言われることであるが、日本人の精神はこういう美意識によって貫かれているのだということを我々はもっと理解し、誇りをもって生きたいものである。(山下)




映画「ラストサムライ」より

本多庸一記念教会でのヘンデル『メサイア』音楽礼拝

2010年11月28日 | 時代を駆け抜けた男たち
 友人の本多一雄さんから、代官山の本多記念教会で開催されるG・F・ヘンデル『メサイア』による音楽礼拝のお誘いを受け、喜んで出かけた。というのは、亡き妻は若い頃、奥田耕天率いるコーラスグループ『オラトリオ』に所属し、クリスマスの季節になるとコンサートでこのメサイアを歌っていた。そんな思い出もあって礼拝に参列したのだが、実は以前より、この教会には一度行ってみたかったのである。

 というのは、この教会は幕末・明治期のキリスト教会の指導者である本多庸一に繋がる教会だからである。本多庸一は陸奥の国(青森県)の生まれで、東奥義塾塾頭などを経て、アメリカに留学、その後、青山学院長などを歴任、明治の時代に日本にキリスト教を根付かせるために尽力した人物であったからである。しかも、本多庸一は、小生の大学時代の友人であり、かつこの教会の会員でもある本多一雄さんの曽祖父にあたる。この教会の牧師は女性の梅津裕美さん、聖書のイザヤ書40章9節による説教『子羊を抱く救い主』もとてもよかった。

 そんな教会で、メサイア合唱を聞けるとは何と幸せなことか。

合唱は、教会の聖歌隊とコール・アトレ合唱団、そして独唱は井内理恵(ソプラノ)、尾形泉美(アルト)、長尾隆央(テノール)、小藤洋平(バス)、指揮は鈴木惇弘、ピアノは奥山初枝であった。(敬称略)

ヘンデルのメサイアはとても長い曲であるが、素晴らしいソロと合唱であった。最後のハレルヤコーラスは会場の全員で合唱、その声は教会の礼拝堂に響き渡った。いい音楽会であった。(山下)


本多庸一氏画像

明治維新を駆け抜けた男、坂本龍馬の墓と寺田屋

2010年04月09日 | 時代を駆け抜けた男たち
 今年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』は面白い、名もない土佐の脱藩浪人龍馬が成長して行く姿を岩崎弥太郎の視点から描いている。脚本がいいのだろう、見応えある。

高度成長時代を生きたサラリーマンの多くは、司馬遼太郎の『竜馬が行く』を読んで、頑張ってきたのではなかろうか。自分も龍馬のように時代を変える男になりたいと思ったに違いない・・このエネルギーがあの高度経済成長を支えてきたのだ!小生も『竜馬が行く』を読んで、惚れこんだものだ。

 その龍馬の墓が、東山霊山の麓の護国神社にある。ここには桂小五郎や蛤御門の変の久坂玄端、天誅組の吉村寅太郎など多くの志士たちを祀っている。近江屋で暗殺された坂本龍馬も、中岡慎太郎と共にここに眠る。龍馬33歳のことであった。薩長同盟を成立させ、海援隊を組織し、船中八策を考案するなど、近代日本の礎を築いた。暗殺されたのは1866年、大政奉還の前年のことであった。

 私たちはこの後、維新の歴史舞台である京都伏見に向かい、寺田屋を見学した。ここは龍馬が好んで宿泊した宿である。女将お登勢は龍馬など多くの志士たちを助けたことで知られている。寺田屋は大阪と京都を結ぶ三十石船の京都側発着地に大きな船着き場を持つ船宿である。この界隈には、今も船着き場が残り、江戸や維新の時代を偲ばせる。


東山の維新の道の枝垂れ桜


坂本龍馬と中岡慎太郎の像


伏見にある寺田屋の内部

今注目される“従順ならざる唯一の日本人”白洲次郎のこと

2009年03月01日 | 時代を駆け抜けた男たち
 NHKドラマスペシャル『白洲次郎』が始った。こういう人物が注目されるというのはいいことである。政治の世界も実業の世界も、自己の利益と保身にのみ汲汲とする男たちばかりで、情けない。男には誇りと品格が必要と思うが、白洲次郎はまさにそういう人物であったと思うのである。

 白洲次郎は棉貿易で財を成した富豪の御曹司で、1920年代の英国に留学し、ケンブリッジで学んだ。欧州の名車ブカッティやベントレー1924を乗り回し、イギリス流ジェントルマンの生き方を学んだ。帰国後、樺山家令嬢の白洲正子と結婚、戦後は首相吉田茂の懐刀として、GHQとの交渉に当たった。GHQに対して卑屈な政治家・官僚ばかりの中にあって、一人筋を通し、一歩も引かなかったという。

 昭和20年のクリスマスのこと、天皇陛下の贈り物を持ってマッカーサーを訪ねたところ、「適当にその辺に置いといてくれ」と言われ、「その辺に・・・・」とは何事だと、怒りを爆発させた。マッカーサーも、長身に正統派イングリッシュでまくしたてる、日本人離れした白洲に驚き、以来、GHQから“従順ならざる唯一の日本人”と一目置かれたという。

 逸話をもう一つ。昭和26年8月31日、サンフランシスコ講和条約締結に特別顧問として同行した時のこと、吉田首相から官僚が書いた英文の演説原稿を見せられた白洲は、一読するなり、こんなアメリカに迎合したような文章では駄目です、「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」・・・と、一晩かけて、この原稿を日本語で書き直したという。

 白洲次郎の生き方は日本的曖昧さとは対極にあり、自らの信条を自信を持って明らかにするといった、西欧的規範を身につけた稀有な日本人であった。混沌とした国際情勢のなかにあって、今こそ白洲次郎のような気概ある人物の出現が待たれるのである。

・・・白洲次郎の遺言は、“葬式無用、戒名不要”の一言であったという。(山下) 



撮影・・濱谷浩氏